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島津の退き口

臆病者
2017年7月23日 21:28

関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」、NHKの大河ドラマの映像などを見ると、息をのむような感じにさせられます。

ところで、そもそも、島津は、なぜあのような態度に出たのでしょうか。

家康の会津征伐に参加するつもりで京に出てきたら、西軍に取り込まれてしまった。

そして、伏見城の戦いにも参加してしまったので、今更東軍にも付けなかった。

かと言って、三成に従うのも嫌だった。

・・・。

分かるような気もするのですが、あれだけの大軍のなかで、わずかな兵で、両方を敵に回すなど、度胸が良すぎる気がします。

最近、島津義弘は秀吉贔屓で、駆け引きの多い家康は大嫌いだったと解説している本なども読んでしまい、ますます訳が分からなくなりました。

島津義弘は、関が原で、何がしたかったのでしょうか。

命からがら薩摩に逃げ帰る結果になって、甥の豊久を失う事になったのに。

不思議に思っています。

ユーザーID:0631191169  


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タイトル 投稿者 更新時間
義弘が西軍に付いた経緯
陀羅突
2017年7月24日 0:27

のみについてレスします。

島津義弘が西軍に付いたのは、会津征伐に際して、義弘は家康から伏見城への援軍要請を受けており、その要請に基づいて伏見城に入城しようとしたところ、城将鳥居元忠から「そんな話は聞いていない。」として入城を拒否されたため、伏見城に西軍が迫る中で孤立することになってしまい、西軍に付く以外に道がなかった、という経緯だったと記憶しています。

ですので、「西軍に取り込まれてしまった」というのはちょっと違うと思います。

ユーザーID:3708851898
義弘が生きて帰るということが重要だった携帯からの書き込み
はーこ
2017年7月24日 7:37

義弘が関ヶ原に行ったのは、成り行きなので、関ヶ原で何がしたかったというのは、なかったと思います。
ただ関ヶ原から生きて帰らなければならなかった。それだけです。
鹿児島では今でも島津の退き口が生きてますよ。関ヶ原と交流もあるし。
それだけ鹿児島にとっては重要な歴史です。

ユーザーID:3080873419
絶好に機会をうかがっていた?
歴史好き
2017年7月24日 9:08

 確かに義弘はいったい何をするつもりで関ヶ原にいたのか良く分かりませんよね。
 トピ主も書いておられるように心ならずも西軍側となってしまい、さりとて大嫌いな石田三成の指揮下で戦う気もせず、一千に満たない小勢のせいもあって戦闘に参加せず事態を静観していたんですよね。
 おそらく経験豊富な義弘のことですから、戦闘の状況によっては寡勢の島津軍でも決定的な働きができるような場面が起きるかもしれないと情勢を見守っていたのだと思います。
 それが結果的に西軍に就くのか東軍に就くことになるのかは、どちらでも構わなかったのではないかと思います。
 しかし、小早川秀秋の裏切りによってあっけなく勝敗が決してしまい、義弘が期待したような状況にはなりませんでした。
 そこでやむなく敵中突破の退却をせざるを得なくなったのではないかと思います。
 しかし、多大の犠牲を出しながらも降伏せずに退却したことが、戦後、島津家が減封もされずに生き残った一因になったのだと思います。

ユーザーID:4154843163
素っ気ないレスになりますが
退き口
2017年7月24日 10:37

400年以上も前のことなど誰にも分からないと思います。分からないからこそそこに想像の入り込む余地があるので歴史は面白いのだと思います。まぁ義弘には義弘の考えがあったのだと思いますよ。どんな考えだったかは古文書も残っていないので分かりませんがトピ主の解釈も面白いと思いますよ。何せどんなに出兵要請しても義久は頑として応じていませんので義弘は困ったと思いますよ。ただ言える事は島津氏全体が秀吉を好きでなかった事は事実らしいですね。島津氏にとっては石田と徳川の戦いは基本高みの見物だったと思います。小早川の裏切りであっけなく勝敗が決した事が義弘にとっては最大の誤算だったと思います。義弘は戦は長引くと踏んで双方戦いに疲れた中を悠々と引き上げるつもりだったかも知れません。勿論これ想像です。ただ島津が秀吉びいきだった事は無いと思います。朝鮮出兵も兵が集まらずに義弘は最後の頃に朝鮮に出かけていますので。勿論義久が出さないのですが。トピ主は義弘に焦点を当てて考えていますが島津氏の当主は義久だった事を忘れてはいけない気がします。

ユーザーID:5504800565
島津義弘はこう考えたのではないでしょうか。
歴史好き
2017年7月24日 10:44

島津の参戦の目的は「天下分け目の決戦へのコミットによって、島津の地位向上を狙う」
というところにあったものと思います。
天下分け目の決戦に参加せずにいれば、戦後どういう扱いをうけるかわかりません。
その基礎となるのは「島津の軍勢の強さ」「地政学上の利点」「外交力の強さ」です。

島津は他の出来星大名と違い鎌倉以来の名家であり、その兵は蛮性を強く持った、
日本における最強兵団ということは衆目の一致するところです。
朝鮮の役では、明軍20万に対してわずか5千で攻勢をかけ、大壊乱させています。

地政学上の利点とは、薩摩の国が日本の最南端に位置し、中央からは容易に攻められない
ことを指します。東西いずれの政権であっても、島津討伐を行う場合には莫大な兵站上の
負荷を覚悟せねばならないため、容易に攻められないのです。

外交力の強さについても、外交上手な人材を得ていたということもありますが、上記の
2条件を基礎として強気な外交が可能でした。
同じ西軍に所属していても、島津は直接戦闘を交えたにもかかわらずお咎めなしでしたが、
土佐の長宗我部は、戦闘に参加していないのにお家取潰しでした。外交力の差です。

以上の条件により、島津義弘としてはこう考えたのではないでしょうか。
「東西の争いは長引くだろう。生き残りかつ家を栄えさせるには、基礎となるのは兵力
そのものだ。さりとて中央の決戦に参加しないのはまずい。であれば主力兵団は国元に残し、
少数の兵を率いてその武威を示し、あとは成り行きを見守るに如かず。状況が動けばそれに
合わせて主力を呼び寄せてもよし、いくらでも絵が描ける」

その結果が「島津の退き口」です。豊久の戦死は結果に過ぎません。
折角天下の趨勢は決まったのに、あんな鬼神のような強さの兵がゴロゴロいる薩摩本国を
攻めたい大名など一人もいませんよ。義弘の目的は達成されているのです。

ユーザーID:3130570521
諸説有りですが、本当は積極的な西軍
マシオカ
2017年7月24日 12:57

個人的に島津は積極的に西軍に加担したのではないかと思っています。
島津は当主が義久だったのか義弘だったのかもはっきりしない状態。
幕末に作られた家系図では義弘になっていますが、義久が当主のように振舞っています。
そもそも島津は、秀吉軍の遠征前までは検地もろくにできていなかった。
三成の指導で財政の基盤ができた。
また、国人連合国家だった薩摩を、島津家の支配にしてくれたのも豊臣政権。
豊臣にも三成にも、それなりに恩義はあったのです。

それで西軍につくべく出兵したけど、秀吉遠征と内乱国力は疲弊し1000〜1500人くらいがせいぜい。
でも、上杉に味方か?という確認の書状を送ったり、国元に援軍要請したりとやる気を見せています。
本戦では少数が故に、敵を引きつけて鉄砲で怯ませ、突撃するということを繰り返しています。本田忠勝を落馬させるほど奮戦しています。
また、部下の中には敵中に切り込み、4町(数百メート)も切り回ったという記録もあります。
とても西軍にいやいや参加したとは思えません。
また、積極的に奮戦していなければ、味方の総崩れに気付かぬはずはありません。
奮戦していたからこそ、兵の再集結が遅れ、無理な突破戦を挑む結果になったのだと思います。
日和見していてれば1500の兵が400にまで減ることもないし、早期に安全に撤退できていたと思います。

敗戦後、伏見城側に加勢しようとしたとか、じっとしていて打ち掛かってきた軍だけに反撃したとか、許して欲しいが故の作り話でしょう。
助命嘆願されたのは少数で突破したのは見事という評価をしないと、突破された武将が恥をかくことになるし、追撃に失敗したことで恥をかくことになる。
また、豊臣が生き残っている段階で、遠い薩摩まで討伐軍を送るのは大変なので、言い訳を真実として許した方が得策と考えたのでしょう。

ユーザーID:8854072912
度胸というより
ささ
2017年7月24日 13:02

度胸というより、そういう生き方、考え方なのかと。
優先順位が違う。

島津は昔から土地としては貧弱な桜島などもある環境での生活基盤だったので、肥沃な土地で潤沢な運営をしてきたような歴史は無い。

その為に、生産活動や戦働きに精度を求める方向に国営がシフトされ、それが集団での連帯責任の仕組みを根付かせた。
強烈な上下の信頼感、連携、それが島津の強さ。

関ヶ原での一件でも、準備万端の参戦ではなく、むしろ殿が好きなので皆集まらないとと徒歩などででも集まった有志の集まりです。

そこに至るまでの色々を加味しても、じゃあ止めたと出来る様な気概で参加したわけではないでしょう。
自分達の戦をしに来たので合って、誰かのための戦をしに来たのではないのでしょう。

命からがらに関しては、基本負け戦は命からがらです。
織田にしろ、家康にしろ、命からがらの時は命からがらですが、出ていくときには勝つ気で出ていますので。

秀吉家康の好き好きは接した時間も違うので、敵として秀吉の配下と戦った事は相手を知ることにもつながるでしょうし。

その時、義弘がどこまで知れていたかにもよります。

ユーザーID:9528914905
諸説ございますが
おかめさん
2017年7月24日 14:46

そもそも 薩摩としては関ヶ原の合戦には

出るつもりもなかったと思います。

兄弟間で意見が分かれていたような・・・?

勝敗が決まるぎりぎりまで動きを見せてなかったようですし

で 家康の前を堂々と横切っていったのは退路を断たれてたというのも

あるのでしょうが

死を覚悟で家康を威嚇したんです。 

あと 参戦してないという言い訳もつくりたかったのでは?

一応参加もしたけど、負けた側とはいえ 

領土も没収されませんでしたからね。

ユーザーID:3231314533
7月24日 7:37 はーこ様までのお返事です
臆病者
2017年7月25日 19:51

レスありがとうございます。

お一方ずつの意見は違えど、根拠を示して、自らの論を展開されているのには、感服しました。


陀羅突様

>ですので、「西軍に取り込まれてしまった」というのはちょっと違うと思います。

私の取り違えのように思います。

ご指摘、ありがとうございました。


はーこ様

>鹿児島では今でも島津の退き口が生きてますよ。関ヶ原と交流もあるし。

そうなのですね。

>それだけ鹿児島にとっては重要な歴史です。

申し訳ありません。

実は、私、島津四兄弟が好きで、特に、義久が好きです。

戦国武将の中では、一番と言っていいくらいです。

タイトルの「義弘が生きて帰るということが重要だった」、だからこそ、豊久も自ら盾となったのでしょうね。

ユーザーID:5511668573
7月24日 10:44 歴史好き様まで読みました
臆病者(トピ主)
2017年7月25日 20:01

歴史好き様

>おそらく経験豊富な義弘のことですから、戦闘の状況によっては寡勢の島津軍でも決定的な働きができるような場面が起きるかもしれないと情勢を見守っていたのだと思います。

>それが結果的に西軍に就くのか東軍に就くことになるのかは、どちらでも構わなかったのではないかと思います。


退き口様

>島津氏にとっては石田と徳川の戦いは基本高みの見物だったと思います。小早川の裏切りであっけなく勝敗が決した事が義弘にとっては最大の誤算だったと思います。義弘は戦は長引くと踏んで双方戦いに疲れた中を悠々と引き上げるつもりだったかも知れません。


歴史好き様

>「東西の争いは長引くだろう。生き残りかつ家を栄えさせるには、基礎となるのは兵力
>そのものだ。さりとて中央の決戦に参加しないのはまずい。であれば主力兵団は国元に残し、
>少数の兵を率いてその武威を示し、あとは成り行きを見守るに如かず。状況が動けばそれに
>合わせて主力を呼び寄せてもよし、いくらでも絵が描ける」

歴史好き様と退き口様の書かれていること、私、歴史雑誌(月刊誌)を時々買って読むのですが、それらの中でもなかったような、面白い視点だと思いました。

感服しました。

レスありがとうございました。

ユーザーID:0631191169
7月24日 14:46 おかめさん様までお返事します
臆病者(トピ主)
2017年7月25日 23:47

マシオカ様

>豊臣にも三成にも、それなりに恩義はあったのです。

私も、最近知った話で、新鮮でした。

少し、違う見方をしようかな、と思った次第です。


ささ様

>自分達の戦をしに来たので合って、誰かのための戦をしに来たのではないのでしょう。

難しいですね。

勝ち馬の尻に乗るばかりが能じゃないのは確かだと思います。


おかめさん様

>そもそも 薩摩としては関ヶ原の合戦には

>出るつもりもなかったと思います。

そんな感じもしますね。

とすると、やっぱり、あっぱれ、そう思ってしまいます。

ユーザーID:0631191169
 
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