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森鴎外の「大塩平八郎」について教えてください

2017年8月29日 22:42

森鴎外の「大塩平八郎」について確認したいことがあります。
「六、坂本鉉之助」 の中に「坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門、馬場佐十郎に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番米津丹後守昌寿が、去年十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預りになつてゐるからである。」という記述があります。
この中の「京橋口定番米津丹後守昌寿」は、正しくは「米倉丹後守昌寿」ではないのかと思うのですが、どうでしょうか?
米倉昌寿は横浜市にあった、六浦藩の10代藩主で、1836年大阪京橋口定番に任命されたとなっています。大塩平八郎の乱が起こったのが1837年です。
大変気になりますので、鴎外の作品に詳しい方、是非お教え願います。よろしくお願いします。

ユーザーID:9481992777  


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投稿に補足説明をします
(トピ主)
2017年8月30日 22:11

トピ主です。投稿に補足説明をします。

「大塩平八郎」の「十.城」には「まだ着任しない京橋口定番米倉は金沢の城主で、」という記述があります。こちらのほうは米倉となっており、正しいのではと思います。この金沢とは現在の横浜市金沢区です。また城主となっていますが、六浦藩は城郭ではなく陣屋でした。
また、他の登場人物には、奉行所の役人「米倉倬次郎」や大坂城青屋口の加番「出羽長瀞の米津伊勢の守」という大名がいます。つまり同姓や似たような名前の登場人物がいるのです。こういったことが理由で、もしかしたら、なにか混同があったのかなと思います。

ユーザーID:9481992777
確認のしようがない気がします
ひろひろ
2017年9月1日 0:43

鴎外が意図的に名前を変えたのか、間違ったのか、
鴎外自身がそれについて何か書き残していない限り確認のしようがないと思います。
ただ、鴎外であれば、事件当時のものである筆文字で書かれた書類を基礎資料として使っていると思われるので、
読み間違えた可能性は高いと思います。似た漢字ですからありそうな話ではあります。

ユーザーID:7737377032
レスありがとうございます。
2017年9月3日 20:38

ひろひろさん、レスありがとうございます。

おっしゃるとおり、鴎外が意図的に名前を変えたのか、間違ったのか今となってはもうわからないですね。

「大塩平八郎」の付録で鴎外は、「そこで現に公にせられてゐる、大塩に関した書籍の中で、一番多くの史料を使つて、一番精くはしく書いてある幸田成友君の「大塩平八郎」を読み、同君の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と空間との経緯に配列して見た。」と書いています。

そこで幸田露伴の弟の幸田成友の「大塩平八郎」を確認したら、第三章に「京橋組の定番米津丹後守は去年十一月に任命せられたが未だ上阪せぬので、玉造口定番の預である。」という文章がありました。

以上を考えてみるに、幸田成友の文章がもともと「米津丹後の守」となっており、それを参考にしたので、鴎外の「大塩平八郎」の記述も「米津丹後の守」となっているのかもしれません。

いずれにしろ、文豪の鴎外がもし書き違えたなら、ますます鴎外が好きになってしまいます。

ユーザーID:8571076351
新たな情報を得ましたので書き込みます
2017年11月8日 20:33

吉村昭氏の「落日の宴」読んでいたら、米倉昌寿のことが書かれている箇所がありました。

「落日の宴」は幕末に勘定奉行等を務めた、川路聖謨のことを描いた歴史小説です。

ロシア使節プチャーチンが長崎に来航したとき、川路聖謨はその対応のため、長崎に出向き、任務終了後、江戸への帰途、大坂で定番だった米倉昌寿と会談したと書かれています。1854年のことです。以前書きましたように、米倉昌寿が大坂定番になったのが1836年ですから長きに渡って定番を務めていたことになります。

調べてみると、1857年まで定番の任にあったとなっています。20年以上も、江戸の屋敷や藩のあった武蔵の金澤を離れて、大阪にいたことになり、現在のサラリーマンの単身赴任のような状態も思わせます。ずっと大坂に行きっぱなしだったかは分かりませんが、いずれにしろ、長期にわたって家族と別れて暮らしていたと思われ、哀歓を感じました。

ユーザーID:8571076351
 
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