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東日本大震災の時 携帯からの書き込み

東日本大震災
2018年3月11日 21:50

7年前のあの日私は職場で仕事をしていました。急に同僚の携帯の緊急地震速報が鳴り響き、聞きなれない音になんだろうと思い、同じ事を考えた女性社員と顔を見合せていました。そうしたら、大きな揺れが襲って来ました。それからが大変でした。ほぼ不眠不休で数ヶ月働きつめました。体が良くもったと思います。部署によっては暇そうな部署もありましたが。今日の14時46分に東北に向けて黙祷して7年前を思い出しました。犠牲になられたひと、未だに避難されている人には言葉も有りません。2011年3月11日の朝、ガソリンスタンドでガソリンを入れた時のレシートが捨てられません。皆さんはその時どうしていましたか?

ユーザーID:8697388615  


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タイトル 投稿者 更新時間
職場にいました
結婚
2018年3月13日 8:17

職場にいました。
酔うような、目眩がするような、気持ちの悪くなるような揺れを感じました。
隣の席の女性と目が合いました。
その顔を今でも覚えています。

遠くで大きな地震が起きている時に、そういう揺れを感じると後で知りました。
その後は、テレビで津波の映像が流れ、原発が爆発する映像が流れ、あの「ポポポポーン」のCMばかりが流れるようになり、、、

ユーザーID:6923240305
「大津波が 来るぞ」
ひよこぴよ
2018年3月13日 11:10

こちら名古屋市北部ですが、あの日の15時前、私(61・男)は扇風機の分解清掃をしていました。

大きなゆっくりとした揺れで、足元をすくわれるような感覚、すぐに屋外の電線・電柱に注目。

「この揺れ方は 通常ではない 名古屋から見て 震源地は 500km以上 揺れ方からして これは大津波がくるぞ」

と直感、地震発生して2分ぐらいして友達のホームページ先頭画面の投稿欄(毎日 1000件以上の閲覧者がある気象・防災関連ホームページ)に、

「大津波が来るぞ!」

と打電しました。これは私が小学生時代からの防災教育による直感です。

それから5分ぐらいして町内あちこちから「緊急警報放送受信機」が作動する音が聞こえてきました。

母が買物から帰宅し、

「スーパーマーケットは 大揺れで お客さんは大混乱 気分悪くして座り込んでいる人もいたよ」

という状況でした。

我家では壁にひびが入りましたが、名古屋市は面積が広大ですから地域によってはいろいろな被害があったでしょう。

ユーザーID:3725437474
切迫早産の療養をしていました携帯からの書き込み
なつみかん
2018年3月13日 12:36

東日本大震災で亡くなられた多くの方のご冥福をお祈りします。

私は東北から遠方で、出産を控えた妊婦でした。地震のことはニュースで知り、何も手がつけられなかったことを覚えています。

何ができるわけではないのにテレビに釘付けとなり、そのため切迫早産が悪化してしまいました。

症状が悪化した私は震災関連の情報を目にすることを禁止されてしまいました。
ただ、夫が東北へ派遣されることが決まったので、必死の思いで荷造りしたことを覚えています。

当時、遠方で何もできなかった私は、今も少額ですが寄付を続けています。

震災で親御さんを亡くされた子どもたちが、少しでも笑顔で過ごせるように、お祈りしています。

ユーザーID:8948093984
忘れられない7年前
やまがら
2018年3月13日 14:42

末期癌の母が3度目(結果最後)の手術入院をし、一日帰宅で15時には病院に戻らなければ・・という時でした。
家を出る前に、ふと点けたテレビに安藤優子さんが斜めにヘルメットを被った画面が映りました。
急いでいたので直ぐにテレビを消して出掛けました。
ここは九州で揺れは伝わっていないので、何のことかさっぱり解らず(ごめんなさい)少し笑ってしまいました。
身の毛もよだつ大震災が起きている事をその夜に知り、呆然としました。

母は7月に亡くなりましたが、「悲しく辛いのは私だけではない」と自分に言い聞かせ堪えてきました。
3.11には、あの時のざわざわ、わさわさした情景が甦ってきます。

ユーザーID:7050247574
TDLにいました。
youyou自適
2018年3月13日 20:54

友人に誘われて、初めてディズニーランドに行きました。(シーは行った事がありました)
14:45からパレードがあるので、ほとんどの入園者が広場に居ました。
花火(?)の音がして、「パレードが始まる〜」と思ったと同時に揺れました。

最初は柵がガタガタと音を立てるので、「誰?揺らしてるのは・・」と、思ったら地震でした。

長い揺れだとは思ったのですが、まさかそんな大きな災害が起きているとは思いませんでした。
暫く待っていたら、アトラクションも再開するのかと、思ったくらいです。

電車も全て止まってしまい、交通手段が無いので、園内に居てくださいと、スタッフから言われましたが、一緒に行った友人の家が何とか歩いて帰れる距離でしたので、友人の家に泊めてもらう事にして、外へ出ました。

園内は大丈夫でしたが、外は液状化でぬかるんでいました。
余震の中、友人の家まで歩いて帰りました。

友人の家のテレビで、初めて大変な災害が起きた事を知りました。
翌日、一部の電車が動いている事がわかり、駅まで歩きました。前日の液状化で出てきた砂が風に舞って砂埃がひどかったです。

駅は一斉に帰路についたTDL帰りの人で大混雑、一人でも転んだら将棋倒しで、死傷者が出てもおかしくない状態でした。

その後、原発事故やスーパーから食料品や電池等が無くなった事もあり、3週間くらい西日本に避難していました。

報道されませんでしたが、その時羽田空港は、幼児を連れた母親でいっぱいでした。飛行機も幼児連れで満席でした。

首都圏は計画停電やら、物資不足で日常生活に不自由がありましたが、西日本や九州にはいつもの生活があり、コンビニにおにぎりや牛乳が並んでいるのが不思議な気がした事を覚えています。

ユーザーID:8599063347
その時家にいました
海賊の妻
2018年3月13日 21:57

一仕事終えて帰宅し、関係機関に電話して報告しているところに「どーん」と揺れが来て電話を置きました。すごい揺れが下から突き上げるようにいつ終わるとも知れないほど長く続きました。
老母を連れて家の前の土手まで逃げると近所のお婆さんが腰を抜かしていました。
今考えると異常な心理状態でした。助けなかったのです。あの時助ければよかったと痛切に思いますが、頭が正常に働きませんでした。そのまま家に帰ったのです。
母がバスタブに水をためてくれ後々助かる事になります。すぐに電気が消え、そのあと断水し暗さと寒さと情報のなさとの戦いに突入します。電話もパソコンも使えず唯一プロパンガスが使えたので土鍋でご飯を炊き、野菜で煮ものを作りました。
隣の家がろうそくを灯すと家も灯すという生活です。ペットボトルにお湯を入れて寝床に入れいつ帰るかもしれない夫を待ちました。
翌日給水に行くと「おお。お前生きてたのか」「危機一髪で逃げたんだ」と海辺の会社で働いていた人達が抱き合っていました。津波の情報は聞いてはいましたが内陸の町です。
夜に小さなラジオを抱いて耳をすますと「〇幼稚園です。お迎えに来てください」と言う切実な呼びかけや、仙台の〇地区には300〜500人の遺体が見つかったというニュースが流れ、メルケル様からのお悔やみの言葉が有りました。「我々の心は日本とともにあります」メルケルって誰?
夫は5日目に獣みたいな匂いで帰宅し、鍋でお湯を沸かしてシャンプーし翌日紙袋いっぱいの着替えとともに送り出しました。公務員の夫はこういう場合は公務優先です。
買いだめの癖を母に咎められていましたがこの時ばかりは食品の備蓄に助けられました。大きな買い物カートを引きながら歩いてどこまでも行きました。
ガソリンが無かったからです。
無我夢中で毎日を送りました。あの日夜中に涙がぽろぽろ流れた事を思い出します。

ユーザーID:2904136327
製造装置の停止操作をしました
空飛ぶ豚
2018年3月14日 13:40

京葉臨海工業地帯の石油会社に勤めていました。地震後、装置の緊急点検をして異常の無い事を確認していました。余震が何回も有り、その度に
点検で装置内を走り回るので、課長判断で停止しました。操作中に装置の高い所から五井方面を観たら、デッカい火の玉(ファイヤーボール)が
見えました。嗚呼あの工場の人達大丈夫かなと思いながら操作していました。帰宅時道々に車が溢れて道路が車だらけで大渋滞していました。
私は自転車なので進むましたが、ある先輩は自宅まで4時間掛かったそうです。

ユーザーID:8153162649
西日本在住です
あの日
2018年3月14日 15:34

テレビのなかの世界が同じ日本におきていることだとは信じがたいほどいつもの日常でした。翌日もいつもと何一つ変わらない一日でありそれがむしろ怖いぐらいでした。JRや飛行機などの交通機関は大混乱していたようですが不自由な事は何一つなかったのが本音です。

ユーザーID:4929309590
風邪を
ささ
2018年3月14日 16:50

東海地方ですが、職場で風邪を引いたかなと思うような立ちくらみだと思ったら長周期の地震でした。

その後、スマホが鳴り響き、ネットで地震がというニュースを見つけた数人が話し始め、その後の映像で地元の空港近くまで津波が押し寄せている映像を見ながら、何が起こっているのか全く自分の中で消化できずに、何を見ているのか理解できていない感じで、実家にもすぐには連絡できたし、海に近くなかったのでそこまで心配はしておらず、でもどんどんと入ってくる映像、夜の町中の火事、正直何も把握できない状況でただただ呆然と漠然と従事していたようなフリーズするとはこういう感じかなという期間でした。

ユーザーID:2112977044
関西に戻って来ていた
桜貝
2018年3月14日 20:51

転勤生活が終わり、山形から大阪まで戻って来て、半年たった時期でした。
戻ってからすくメニエールという病気になり、仕事もできずに家に居ました。

そして丁度、眩暈の症状が良くなってきたあたりで体験しました。
急に眩暈が酷くなって、あぁ・・・これは薬を飲まないとヤバイ・・・とコタツから立ち上がった処で、自分ではなく周りが揺れていることに気が付きました。
(サークラインが揺れているのが見えた。)

奈良辺りでまた地震かな?と思っていたらテレビでの驚きの放送。
あんなに遠くからのゆれを感じた自分と家に、耐震や避難準備の反省点を沢山見つけました。
今は地域の自治会にも、自主防災会が出来ましたよ。

ユーザーID:0009488299
自宅にいました。
mumu
2018年3月14日 22:51

九州ですので全く揺れも感じませんでした。

朝一で不妊治療の診察に行く予定でした。
しかし、息子がインフルエンザで学校を休み、病院に行けずその月は諦めることに。
それまでに何度も注射打ってたのに水の泡‥あと一日発症が遅かったら予定通り病院に行けて妊娠につながってたかもしれないのに。と思いながら過ごしてました。

その日は参観日でもあったので、お友達のママが学校帰りに寄ってくれお話ししていた時に地震がおこったようです。
話し終えて室内に戻ると津波が近づいている映像が流れていました。
まだゆったりと波がよせてきているだけでした。

時間が経つにつれて被害の大きさが伝えられ、自然を相手には到底かなわないと呆然としました。
そして、どうしても第二子がほしくて始めた不妊治療も地震を機に止めました。

ユーザーID:7744872824
スーパーからの帰り道で
ChaCha
2018年3月15日 2:00

自宅まであと3分の所で青信号を渡り始めた時にズズズッと地面が揺れ始め、周りの通行人もあれ?といった感じになった途端、ものすごい揺れが。
街全体左右に弧を描くように揺れてガッシャンガッシャンと聞いたこともないような音と家屋やビルから飛び出してきた人達の悲鳴。
とても立っていられなくて、その場に皆で四つん這いになって揺れがおさまるのを待ちました。
その後、急いでマンションに戻るとリビングのTV等は無事でしたが、寝室のタンスが倒れていてビックリ。急いでTVをつけると「震度7」の文字に意味が分からず、ちょうど津波の第一波が到達している映像が流れていて、あまりのことに最初は過去の資料映像だと思いました。
が、画面左上の「LIVE」の文字に気がつき、しばらく身動きができませんでした。

夫や家族とも連絡がつかない上に大きな余震が続く中、在宅の仕事の納期が翌日に迫っていたため、防災リュックを背中に背負ってパソコンに向かってひたすら作業をしていました。
津波の映像を見ながら、被害に遭っている方々のことを考えながら、私は一体何をやっているんだろうと思いながらキーボードを打っていた記憶があります。

そこへ原発事故の速報と映像。正直、あ、日本終わったなとその時は思いました。

あれから7年。あのような未曾有の大災害に見舞われても暴動も起こさず避難生活に耐え、復興に向けて着実に歩んできている姿には同じ日本人として誇りに思います。

ユーザーID:0378743644
あの日のこと
匿名
2018年3月15日 12:10

その日は仕事が休みで、部屋で横になってテレビを見ながらだらけていたところを地震が襲いました。
かなりの揺れで驚きましたが自宅は無事でした。
お恥ずかしながら地震の備えをしていなかったので財布やケータイ、充電器だけをカバンに突っ込んで外を出ましたがあっという間に津波に飲まれました。
たまたま電柱に引っかかっていたところを救助されました。
混乱していたのと意識が朦朧としていたのでその後の記憶は曖昧ですが、私を見つけ救助してくれた方の生存者がいる!という大きな声、大丈夫ですか!しっかり!という言葉だけははっきりと覚えています。
両親、祖父母は津波に流されて死亡しました。地震の揺れで無事だった自宅は津波に流されてなくなりました。今は東北からは遠く離れた地域で生活しています。
とても辛くて怖くて忘れたい記憶ですが、私を必死に助けてくれた人たち、その後支えてくれた人たちがいるから今の私がいるんだと、忘れてはならないと思っています。

ユーザーID:8136971296
あの日
街の灯
2018年3月15日 14:59

東日本大震災でお亡くなりになった方々のご冥福と、被害に遭われた方々の心の傷が少しずつでも回復されますようお祈り致します。

つい先日、ラジオで「花は咲く」を聞く機会がありました。まだ7年前なのに、もう随分前に起きた災害の様な感じがしました。

あの日、我が家の子供達はまだ小4と中1で、地震発生時は二人とも学校にいました。
主人は泊まりの出張で、栃木県へ行っていました。

かなり揺れたので、収まったらすぐに子供達は帰って来るだろうと思っていましたが、いつもの時間に帰って来たことを覚えています。

私はすぐにテレビの電源を入れて、それが巨大な地震である可能性を知りました。
阪神淡路大震災を思い出しました。
早朝に揺れで目を覚ましました。起きて見たテレビで、街の至る所で火災が起きていたのを覚えています。

私が住んでいる所は、地震で高速道路が止まってしまい、それで車が一般道に流出して、数日は車で道が塞がっていました。
ガソリンを入れようと何とかスタンドに辿り着いても、売り切れていたり、10L位しか入れられませんでした。

私が鉄道の運行状況を色々調べて、主人は翌日遅く帰ることが出来ました。至る所で鉄道も止まりました。

その後3月15日に住んでいる所でも夜間に大きな地震があり、建物が壊れ被害が大きかった所も。
その夜はずっと心臓がバクバクして寝られませんでした。
計画停電で生活が大変な時期もありましたが、被害に遭われた方々はもっと大変な生活を強いられたことでしょう。
確かあの時、東北は雪が降っていました。

震災のあった夏に西日本にある実家へ帰省した際、スーパーやショッピングモールの中が明るいのに驚きました。
住んでいる所では、照明が所々しか点いてなく薄暗く、エレベーターも止まっていたからです。
普段通り生活が出来ることは、なんと普通でありがたい事なのだろうと思いました。

ユーザーID:7601386651
偶々、休みで自宅で・・・
ほくと
2018年3月15日 15:42

あの人は本当は仕事のはずでした。
週明けから入院の予定だったので、入院準備を終えリビングでテレビを見ていると
何だかかなり不快感があり、ゆっくりした揺れ?のような感じがありドアを見ている
とゆっくり動いてました。
こちらは関西で被害はなかったのですが、経験した事ない揺れに気分が悪くなりま
したよ。

私にとっては、それから数日後の3月15日にあった静岡県東部地震…震度6強
その日の午後に手術を受け無防備な状態でかなり揺れたので泣きそうになりましたよ。
逃げるに逃げれない…どうすりゃ良いんだ…と…
そうでなくても麻酔に酔って嘔吐が酷かったのに…
阪神大震災も経験して壁や家の物が落ちてくるのは経験済だったが…
この時ほど、地震が怖いと思った事はなかったです。

ユーザーID:0834502777
尋常ではない揺れ携帯からの書き込み
ちばなな
2018年3月15日 19:39

私は宮城県で看護師として病院にいました 低体温症の方や自分でガレキから這い上がり一時間くらいかけて木の棒を杖代わりにして歩いてきて私の彼女いませんか?と若い男性が来たり…あとは給水場所へ行き水汲みしたり ラジオしか情報がなく不安でした 今心がけてるのはガソリンを満タンと風呂を焚いておくことですかね

ユーザーID:8726749383
大阪の梅田でお茶していました
ひかり
2018年3月16日 17:15

東日本大震災で亡くなられた多くの方のご冥福をお祈りします。
もう7年ですか信じられないですね・・

大阪の梅田のカフェで奥様たちとお茶をしていました。
急にめまいがしたような感じがして周囲を見渡したらみんなが不思議な雰囲気に・・
当時携帯電話からテレビが見られるようになってきていて、どこからか
「東北で地震があった」と言っているのを耳にしました。

私は福島出身だったので奥様たちを振り払うようにして飛び出していきました。
電話しても親と連絡がつながりません。家にやっと帰ってテレビをつけたら津波の映像がどんどん流れてきて衝撃で床に突っ伏して大泣きしました。
自宅は全壊でしたが家族は無事でした。


昔、ほんの一時期愛した人がいたのですが、その彼が地震と津波でどうなったかは分かりませんでした。彼の名をどう探しても分かりません。何年かぶりに彼の職場の方のパソコンに送ったメールは彼からの返事がありませんでした。でももうお互い既婚者になっていたし普段から連絡を取り合う仲ではなかったし今更と思ったりしながら。。彼の住所も分かりませんでしたし、しょうがないと思っていながら・・いながらですが、彼は某川の橋の工事を監督をする人だったので・・

彼は無事でいて元気にしていて良いパパでいると今もそう思っています。そう祈っています。

ユーザーID:3190196401
あの日、東京で、自宅にいました。
たろすけ
2018年3月16日 21:14

まだ2歳の息子は昼寝中、5歳の娘は降園バスの中でした。
寝ていた息子を抱き上げ、居間のサッシを開け、壁量の多い場所に退避し、気仙沼の祖母に電話しました。
いつもの地震なら「回線が混んでいる」というアナウンスがあるのに、その時は普通に呼び出し音が鳴り、つながるんだから大丈夫だ、と思いながら受話器を置き、バスのお迎えに。娘を連れ帰り、すぐ着電、夫からでした。夫は何度も電話していて「バスの時間だ、大丈夫だ」と言い聞かせていたと。帰らない、と。
お風呂に水を張り、ご飯を炊き、居間に布団を敷き、枕元に靴を置いて、火の海になる気仙沼の映像を、祖母の無事を祈りながら見ました。

2週間前に電話で話しました。DVDを毎月、月末に送っていて、見た祖母が「めんこいね」と。地震が来たら逃げるんだよ(床上浸水は何度もしている家だった)というと、整備が進んで、水がかぶることはもうない、と。祖母は、生涯で3度目の津波で逝きました。「ばあちゃん、また、新聞サ載るんだ」

避難所の名簿の文字おこしボランティアをしながら祖母の名前を探しました。

そして、避難所のボードに、祖母の近所の人が、祖母を探している、と書いたメモを見つけました。北陸にいる母に伝えるのは私の役目だと思い…母は、娘に返って「かあちゃん、もう、だめだ」と絞り出すように。

半年後、祖母は見つかりました。DNA鑑定で。
そして、その1年後、私は祖母のしていたことを引き継ぎました。
祖母が遺したものを、引き継ぐのが、私の役目だと思って。引き継いで6年目、祖母の遺志はつながっています。
震災の1カ月後、新聞社に問い合わせたら、写真を送ってくれました。社も被災したのにありがたいことです。だから、私の中の祖母はずっとはにかんだように微笑んでいます。

ユーザーID:8874200579
今でも涙が出ますが
鯨夢
2018年3月16日 21:51

不謹慎ながら当日は友人とゴルフをしていました。
ここは南国の外地です。

プレー途中の茶屋で東京が地震で被害が出ていると言われ、それは大変と画面を見ました。
見た画面には東京ではなく、見慣れた田畑が泥水に覆われていく模様が繰り返し・・・
呆然として自宅に電話しましたがつながるわけもなく、自宅の状況も判らず翌日までINETの画面を追いながらまんじりともしませんでした。
翌日に東京の親戚と連絡が取れ、家族の無事を確認しましたが津波の被災地にいた友人の多くは連絡が取れなく悲惨な結果となりました。

その後、台湾や当地から義援金が送られましたが1日百円で過ごしていると言われる最貧民の居住者からの寄金は真っ黒な小銭の山で数万円だったと聞いています。
生活のための日銭から頂いたお金は、被災地に関わる身として生涯忘れてはならないと思います。
国内の自然災害に遭遇した皆さんが、早く復興の足音が聞け、実感出来るよう祈念します。

ユーザーID:3728011946
職場に居ました
みもざ
2018年3月17日 2:23

私は仕事、娘は高校生で春休み中でした。(休みの多い高校だったので)
そのころ、私の職場(病院)は施設建て替えでプレハブ内で作業中でした。大きな揺れを感じ、私は速攻で机の下に潜り込みました。縦長の収納棚が大きく揺れ、倒れる寸前まで行きました。机の引き出しはほぼ全部飛び出しました。

揺れが収まって心配だったのは娘のことでした。仕事なんて放り出して娘のところに帰りたかった。でも責任ある仕事を任されていたため、すぐに職場内で緊急招集がかかり、私は帰れませんでした。娘と連絡が取れたのは、深夜になってからでした。向こうからも安否を気遣うメールが何本も入っていました。

夜になってから炊き出しの手伝いをしました。待合室にある職場の大型テレビの前には、職員も患者さんも沢山いて、地震速報を食い入るように見ていました。その間にも余震が何度も襲ってきました。病院ゆえ、堅牢に作られていたはずの建物内も、何か所も修繕箇所がその後見つかりました。

震災後、一番困ったのは通勤でした。電車が普段の半分位しか運行本数がなく、いつもは10両編成の電車が6両編成となり、毎日電車に乗るための長蛇の列が駅前にはできていました。私は2時間早起きをし、迂回ルートで職場に行き、職場近くのカフェでコーヒーを飲んでから出勤していました。1か月以上続きました。よく体がもったと思います。

あれから備蓄をするようになりました。トイレットペーパーやティッシュは買い置きがあります。自宅には備蓄のアルファ米も缶入りパンも水もあります。スマホやケータイの予備電池も買ってあります(電池の交換がすぐできるよう、わざと古いものを使い続けています)。それでも、心配なことは沢山あります。

あれから7年。転勤した今の職場は埋め立て地の上に作られた大きな川の近くにあります。地震も津波も怖いところです。

ユーザーID:9298271479
 
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