昭和30年代の話を聞かせてください

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  • 思いついたこと 書きま10

    1 電話の呼び出し / 知人の近所の家に電話をして「○○さんをお願いします」と言って
    呼びに行ってもらい話しました。呼びに行くのは主に子供の役目。ちなみにで市内電話は
    何時間かけても10円でした。

    2 テレビ / ご近所の方が見にきました。

    3 出前 / お蕎麦やお寿司は出前をお願いしてました。

    4 お豆腐 / お豆腐屋さんが自転車で売りに来て、お鍋を持って買いに行きました。

    5 列車の指定席 / オンラインになっていなかったので、その駅の割当て枚数が終わると売り切れでした。

    6 国鉄の運賃 / 初乗り 大人10円、子供5円でした。

    7 雑誌の発売日 / 地方は東京より1日遅れていました。 

    8 バス / 車掌さん(女性)が乗っていて、切符を売っていました。

    9 銭湯 / 女性だけ別に洗髪料金を取られていました。 10円だったかな。

    10 買い物 / 買い物籠(かご)持参が原則でした。 買った物は新聞紙にくるんでもらってました。


    あとどんなのがあったかなぁ・・・

    ユーザーID:1567004917

  • 小学校の思い出

    私は、昭和20年代半ばの生まれで、昭和30年代は小学生でした。小学校の思い出として(他のレスにも書いた事が有りますが)校舎はもち論、木造です。冬の暖房は、「火鉢」でした。先生の机の横に大きな火鉢が置いてあり、その日の日直が小遣い室(今の用務員室)に炭を取りに行くのが始めの仕事です。先生が火をつけてくださいます。休み時間になると、皆が火鉢の周りに集まるので、先生は「子どもは、風の子、運動場で遊べ!」と怒鳴られました。又、教室に、餅を焼く網が置いてあり、給食のコッペパンを、班別で焼いて食べました(美味しかった) この時代は、戦後ベビーブームで子どもが多く、教室が足りないので、近くの中学校のグランドに校舎を建てて、分かれて登校した時もありました。まだ、防空壕の跡地が残っていて、これを「隠れ家」として友達と遊びました。テレビもあまりなく、夏休み学校の砂場にスクリーンを作り、夜、映画会がありました。3本だてで、30円でした。家族みんなで見に行きました。まだ皆貧しかった頃です。  映画「三丁目の夕日」を見られたでしょうか?私は、懐かしく又、涙して見ました。

    ユーザーID:1609037286

  • 昭和31年生まれ

    私は1956年・名古屋市生まれです。

    保健所の家族調査で「風呂はどうされていますか」の問いに「銭湯」「行水」「もらい湯」などの項目があった。我家は近所に銭湯が数ヶ所ありましたが、盛夏は「たらい」で行水していた。

    電話は近所の美容院・酒屋の公衆電話で「呼び出し」。一般家庭で自宅に加入電話(当時は回転ダイヤル式黒電話)が引かれたのは1960年代後半。

    洗濯は、洗濯板でしたが電気炊飯器はありました。冷蔵庫は我家は乳酸菌飲料販売店でしたからありましたけれど、木製で内部に氷を入れて冷却する方式でした。

    その後、洗濯機購入。脱水は「手回しローラー式絞り器」がついていた。

    テレビは4本脚でターレットスイッチ形選局方式。

    自転車には新書版大の「アルミ製登録番号札」がついていました。現代は小さなシールになっていますね。

    マイカー所持の家庭は皆無。幹線道路でさえ舗装されておらず、大型トラックや路線バスが走行する脇を耕運機や馬が通行していました。

    毎年5月ごろに各家庭大掃除。清掃が済むと保健所から検査があった。

    我家は伊勢湾台風で被災した。

    ユーザーID:3422350471

  • 昭和35年

    「ひなまつり」の替え歌が流行った年でした。
    もっとも、全国的な歌かどうかは、、、判りません。

    「明かりをつけましょ 100ワットぉー
     お花をあげましょ 若の花ぁー
     五人囃しの ロカビリィー
     ミッちゃんと並んだ 皇太子ぃー」

    その時、おれ、小学校5年、いや6年、、、忘れた(わはは。

    ユーザーID:7754836134

  • 食いしん坊なので、食べ物ネタを。

    ゲゲゲを見ておられるようなので、紙芝居さんのお話を。

    紙芝居の木のフレームの下に、三段くらいの箱が自転車に乗っているんです。
    紙芝居は無料ですが、おじさんがその箱の中から簡単なおやつを出してくださるんですが、それにお金がいりました。
    たとえば、炭酸せんべい+練乳、炭酸せんべい+醤油かソース、半分に折った割り箸に絡めた水飴など…。
    かんじんの紙芝居は覚えてないのですが、特に炭酸せんべい+練乳が好きでした。

    映画「三丁目の夕日」にも出てきた駄菓子屋さん。
    大きい薄緑のガラスの瓶(梅干しをつけたりする瓶です)から紐が出ていて、それを引っ張ると三角形の表面にザラメがついた赤い飴があがってくるんですが、当たりは大きいんです。食べると舌が赤くなって体には悪そうでしたが、けっこう美味しかったです。

    時々ポン菓子の実演があり、お母さん達がお米を持って買いに行っていました。うちの母が外出してると、近所のおばちゃんが「エリゴさんトコの分も買っておいたで〜。」と持ってきてくれて、母が「いやあ、ごめんね〜」と、お金を払っていました。

    ユーザーID:6641762386

  • 24年生まれです

    学生服の袖口で鼻水を拭いている子が多く男子生徒の袖口はテカテカに光っていました。
    毎年田植え時期には東北から同じ母娘が田植えに来ていました。
    学校での水泳は近くの川で泳いでいましたし夏休み中は近くの堤(農業用ため池)で泳いでいました。
    風呂は農家だったので各家庭みんなありましたが風呂屋は近くにはありませんでしたね。
    近くを毎日蒸気機関車が走っていて煙の臭いがくさかったですね。
    遊びは山に行って木登り(10メートル)で猿のようでしたね。
    農家にはほとんど農耕用の牛が必ず居ましたね。
    夏の夜は蚊帳を張って寝ていましたね。
    当時のおばあさんは70歳でも腰がほぼ直角に曲がって歩いていましたね。
    正月の買い物は自転車で片道6キロだったかな。
    秋にはおばあさんが毎日のように松茸を採ってきてウンザリ気味だったですね。
    おやつは柿、芋、飴ぐらいしか記憶にないですね。
    暖房は風呂を沸かしたときの消し炭で掘り炬燵。

    ユーザーID:3040594580

  • 昭和33年生まれです

    だから『30年代』の記憶はあまり鮮明ではありません。
    写真や親から教えられた記憶もあるのですが。

    35年にテレビを買い、近所の子供たちが毎日我家にテレビを見に来たそうです。
    その頃、だっこちゃんという黒人のビニール人形を腕につけるのが流行っていたようです。
    自家用車は38年、電話も39年に繋がりました。

    『既婚女性』は『おばさん』という位置づけで、朝のテレビ小説のようにサラサラのロングヘアーをなびかせている人など、絶対とは言えませんがまずめったにいませんでした。
    既婚者があんな髪形をしていたら多分変人扱いだったと思います。

    子供の服は母親や祖母が手作りするのが珍しくなく、セーターなどは親の古くなったのをほどいて編み直すこともありました。
    女の子は、下着の上にさらに『毛糸のパンツ』と言うものをはいて、それがスカートからはみ出していました。(北国だから?)
    セーターの袖で鼻水を拭い袖がビカビカテカテカになっていたり、素足にゴム靴を履いている子が大勢いました。
    そのトラウマ?で、私は素足+靴に全くセンスを見出せません。

    ユーザーID:7260778010

  • 3丁目の夕日

    昭和34年東京生まれ。景色は映画の「3丁目の夕日」そのものでした。比較的広い道でもオリンピック前は舗装もされておらず、真ん中をどぶ川が流れていました。飼っていた金魚の餌は小さなどぶで生きている糸ミミズ。それを素手でつかんで金魚にあげていました(今じゃ考えられないくらい不潔)。台風が来ればすぐに洪水になり、台風が過ぎ去ったと冠水した道路でよく遊びました。ちなみに当時はまだトイレは・・・あふれ出ていたことは間違えありません。
    また、夏になると必ず赤痢で隔離される友達がいました。肛門にシールみたいのを張ってするギョウチュウ検査。家の周りはほとんど平屋。二階建てはまだ珍しかったですね。冷蔵庫は木でできた氷を入れるやつです。近所に住む遠い親戚が大金持ちで、使わなくなった物をよくもらいました。ちょっとした外出時には鍵をかけることはまれで、友だちが勝手に上がりこんで冷蔵庫の中身食べていたりと、そんなことが普通でした。悪さをすればどこの親父かわからないけれど拳骨が飛んできたりと、とても今では考えられないことばかり。とにかく汚くて埃っぽい時代でした。ただ、活気があってみんな明るかったと思います。

    ユーザーID:0753744617

  • 昭和30年代お風呂編

    昭和20年代前半生まれの男ですが東京都世田谷区で生まれ育ちました。お風呂についての思い出です。

    家に風呂が出来たのは昭和31年で、それまでは近所の銭湯へ行きました。小学2年までは母と女湯でしたが、その後男湯になりました。近所の子供たちと銭湯でおしゃべりしたり、酒屋のオジサンにチンチンつかまれたり、楽しい思い出です。寒い冬の夜には、銭湯の帰りに濡れたタオルが凍って、手の上に立つのでした。
    日曜日には銭湯の朝風呂があって、朝日を見ながら入ると、これが意外にリラックスでき、子供心にも気持ち良いモノでした。

    近所には家に風呂がある家もありましたが、ガス風呂になる前は薪か石炭で沸かしていました。時々煙突掃除のオジサンがブラシのついた長い竹の棒を持って掃除に来ていました。

    それと、夏場はタライに湯を張ってもらい行水でしたね。これも何故か気持ちの良いモノでした。

    もらい湯もご近所でやっていたと母から聞いたことがあります。
    蛇足ですが、昭和32年の日照りのとき近所では井戸水が枯れて、枯れなかった我が家に2〜3日もらい水に来られました。

    ユーザーID:3944764304

  • 札幌の小中学生

    小学校入学が昭和31年、中学卒業が昭和40年のいわゆる団塊の一部です。
    昭和30年代といっても前半と後半ではかなり違っていたかと思います。
    たとえば、まんが本が月刊から週刊へかわったのも30年代の半ば頃。
    この頃は子供の数がやたら多かったので学校(教室の数)は大変でした。
    特に中学校が。札幌のほぼ中心部にあったのですが、私の入学したときは
    まずグランドに体育館を建て、古い体育館内をベニヤ板で間仕切りして教室
    にし、その間に校舎本体の増改築をしていました。1クラス60人、1学年10組
    位ありました。(3年のときにやっと12組になりました)
    そんな学校も10年位で統廃合され、いまはもうありません。

    ユーザーID:2305887435

  • 肥だめがありまして

    昭和三十二年生まれです。

    郊外の新興住宅地育ち一期生です。
    まわりには田んぼが多くて、当時はまだ“肥だめ”がいたるところにありました。
    表面が乾くと地面と区別しにくくなるので、気を付けるように親からいつも言われてました。

    都会から来た転校生が、初日に肥だめに落ちるという事件がありました。
    幸いすぐに助けられましたが、翌日からもう学校に来なくなってしまいました。
    私立に転校したようです。
    オシャレなワンピースを着たカワイイ女の子でした。
    あの娘もいま五十代かぁ、あの事件のこと覚えているかなぁ。

    私は団地住まいでした。
    団地も三十年代のものですね。
    今のマンションよりよく考えて設計されてたと思います。

    ユーザーID:7077451757

  • 昭和30年生まれ

    昭和30年代は とにかく貧しかったです
    子どもの頃の記憶をいくつか思い出すだけ、書き出します

    住んでいたアパートのトイレは、共同でした
    台所も共同のアパートに住んだこともあります

    お風呂は銭湯に通いました
    銭湯には、着替えを手伝ってくれるおねえさんがいました

    小学校は給食が始まったばかりで、牛乳ではなく脱脂粉乳でした
    学校を休むと、近所の子がコッペパンをわら半紙にくるんで、持って来てくれました

    悪がきは、アオッパナをたらし、女の子は皆おかっぱ頭
    七五三の時期には 女の子が着物を着てきました

    唯一のぜいたくは、家族でラーメン屋さんに行くことでした

    オリンピックを境に 世の中が一変したと記憶しています

    ユーザーID:1040974046

  • 懐かしいわ

    昭和26年東京都押上げ近くに生まれました。
    今 スカイツリーが建てられている所です。

    昭和33年に小学校入学・・・冬の暖房はダルマストーブでした。
    練炭ではなくコークス?を係りの生徒が 
    大きなバケツで校舎裏に取りにいきます。

    これは嫁に行ってなおビックリしました。。。
    嫁に行った先のお舅は日本橋の生まれ育ちで・・・
    小学校は暖房はスチームだったと知らされた時?
    私と一世代違うのに〜〜〜〜と思いました。
    ヒェ〜〜〜ってくらいビックリです。

    話は元に戻ります 家の近くに長屋がありました。
    うなぎの寝床みたいに 奥に長く延びた建物を区切って
    ひと家族づつ4世帯くらい入っていましたね。
    どうやって寝たのでしょう???
    一番奥には 水道?井戸?があって
    その周りは洗い場なっていて みなしゃがんでお米を研いだり 
    野菜を洗っていました。 
    まさに井戸端会議でした。

    浅草の花やしきには良く行きました。
    なつかしいな〜〜〜

    あといろいろありますな〜〜〜
    書ききれません・・・

    ユーザーID:5311865861

  • 昭和31年生まれです

    6畳1間に家族4人が間借りしてました。2階には3家族が住んでおり、台所も便所も共同。水道はありましたが、台所には大きな水瓶があって、柄杓で水を汲んでた記憶があります。裏庭に井戸があって、その水も使ってたはずです。

    町内で自家用車を持っていたのは、ヤ○ザ系の仕事をしているオッちゃんだけでしたが、その車はカローラでした。ドアをロックすることもなく、いつも子供らが勝手に乗ってはハンドルを回して遊んでましたが、ニコニコと怒られることもなかった。

    飼い犬もリードで引かれていることなどなく、いつも街中をたくさんの犬が気ままに歩いてました。誰も気にとめることもなかったなぁ…

    舗装してない道路の主役は子供でした。バドミントンもゴム跳びもキャッチボールも、道の真ん中でやり放題。

    ボンネットバスには車掌さんがいて、切符を切ったり、ドアを開け閉めしてました。ウィンカーは、ウサギの耳のようにピョッコと立つやつでしたね。

    バアちゃんがくれる5円玉を手にして、紙芝居で飴を買うか、肉屋で揚げたてのコロッケを買うか…いつも悩んでました。

    ザクロやイチジクの木がたくさんあったなぁ。

    ユーザーID:9872687588

  • 昭和30年代の農村で育ちました

    最も古い記憶では、家には電気はかろうじてありましたが、ガスも水道もありませんでした。
    水道がないので、屋外にある井戸でくんだ水を台所のかめに蓄えて使っていました。ガスがないので、かまどに薪をくべてご飯を炊いたり料理をしたりしていました。風呂も薪をくべる五右衛門風呂でした。子供だって水くみや薪わりの手伝いをさせられていました。
    三丁目の夕日なんかは30年代の東京ですから、当時としての最先端の様子です。農村はもっと遅れています。ドラマで出てくるシーンで言えば、三丁目の夕日よりは、水戸黄門に出てくる台所や風呂に近いです。もちろん、江戸時代と比べたら電気があることは大きな違いですが。

    薪を燃やす生活なんてたまにキャンプでやる分には楽しいでしょうが、それが毎日では楽しいなんて言ってられません。今考えると懐かしいとは感じますが、決してその頃に戻りたいとか、その頃の方が良かったなんて感じません。

    当時使っていた傘は蛇の目傘でした。「蛇の目でお迎え楽しいな、ピッチピッチチャップチャップランラン」という歌の通りの世界でした。番傘もあったと思います。その点でも、江戸時代に近いかな。

    ユーザーID:9906324834

  • 貧しいかなぁ〜?

    昭和30年生まれです。
    幼稚園は幼稚園専用車で送り迎えされて居ました。
    私の父は今でいうNTTなんですが
    昔は公務員と同じ国が会社を経営してたのです。
    日本電電公社と名乗って居ました。
    住まいは公営住宅、子供部屋はそれぞれに
    なかった。電話は近所に比べて一番についていました。
    すでにテレビ、冷蔵庫、洗濯機もありました。
    マンションとかアパートとかなかったのですよ。
    貧乏な人が戸建あばら家に住んでいたんです。
    物が少なかっただけで貧しいとは違うと思うな。
    映画フーテンの寅さんを見ればわかるように
    物はないけど笑っていた人が多かった時代だと思うな。
    食べ物は朝からアサリ汁、鯨肉とか、トーストとか
    よく食べていました。
    そうそうまだ公営住宅の中に釜戸がありました。
    いつのまにか改築されたようだけど。
    服は母が洋裁をしてワンピースを着てましたね。
    トイレも溢れた思い出はないな・・・

    ユーザーID:1327532911

  • 農繁休暇、馬車の往来

    昭和30年代の農村地域の小学校では、秋に農繁休暇という休み(1週間程度?)がありました。稲刈りなどの農家が忙しい時期に小学生も手伝いに駆り出すために学校を休みにしたものです。私の家は農家でしたが、米はやっていなかったので、稲刈りの時期は特に忙しいこともなく、楽した覚えがあります。夏休みや冬休みと違って宿題も何もないので、米をやっている農家以外の子供たちは喜んで遊びまわっていたものです。

    当時の道路は舗装はされていませんでしたが、ある程度整備されていて、自動車やオートバイが走っていました。しかし、荷物の運搬にまだ馬車も現役でした。家の前の道路を馬車が頻繁に通るので、あちこちに馬糞が落ちており、臭かった覚えがあります。雨でも降ろうものなら、道路を流れる水は汚く臭かったです。
    子供が遊んで泥だらけになって帰ってくるなんて微笑ましい光景ですが、今から考えると、あの頃の泥だらけは、今よりもずっと汚くて臭かったんだろうなと思います。

    ユーザーID:9906324834

  • 楽しかったですよ

    昭和24年生まれです。大阪市内の小学校で一年生の数が多く、教室の数が足りずに朝行き、昼行きの2グループに分かれていました。朝行きは午前中だけの授業で下校、昼行きの日は、家で昼食を食べてから登校しました。  学校も家の周りも子どもだらけで、べったん(映画スター等のカード)ラムネ(ビー玉)缶けり、かくれんぼ、ゴムとびなど色んな年齢のこども達で遊びました。

    ユーザーID:8127635454

  • 昭和27年生まれ

    お正月には獅子舞が家々を回り、
    農家の女性がリヤカーで取れたて野菜を売りに来たり、
    お豆腐屋さんがパ〜プ〜とラッパを鳴らして町内を回り、
    「あさり〜しじみ〜」と味噌汁の具も家に居ながら揃いました。
    酒屋さんもご用聞きに回って醤油や酒、重い調味料を届けてくれて、
    洗濯屋さんも家々を回って注文を取りました。
    「玄米パンのほやほや〜」が来たり、独特のかけ声の「ほうき売り」や「紙芝居」「型押し」など
    夏は「金魚売り」「吊りしのぶ」が来て、どこのお宅も江戸風鈴を吊りました。
    日本蕎麦、ラーメン、寿司、鰻の出前は当たり前で、家から出なくとも生活できました。
    子供のズボンやセーターには継ぎ当てがあり、電話も少なく、テレビも町内で数件という時代でしたが、とっても明るい時代でした。
    当時の私のヒーローは、月光仮面、ナショナルキッド、海底人8823、少年ジェット、隠密剣士、ヘリコプターSONY号、スーパーマン、力道山、でした。

    ユーザーID:0439360958

  • ロバのパン屋さん

    和歌山市生まれです。

    昭和30年代、小学生でした。

    「♪ロバのおじさんチンカラリン チンカラリンロン やってくる♪」の歌声が聞こえてくると胸が高鳴ったものです。

    ロバが馬車を牽く移動式のパン屋さんです。

    蒸しパンが美味しかった。

    しかし、今考えると「馬」だったような気が・・・。

    ユーザーID:8761842375

  • 下駄履き

    昭和30年代、街には下駄履きばき姿がまだ見られたように記憶しております。
    東京・上野公園にあった上野図書館(正式名称は国立国会図書館支部上野図書館、現・国際こども図書館)の玄関を入ると受付があり、監視のような年配のおじさんがカウンターから見下ろすように入館者の足元を見てました。下駄を履いていると備え付けのスリッパだったか草履だったか、忘れましたが、履きかえるよう指示をしておりました。下足番を兼ねていたようでした。

    ユーザーID:7625518352

  • 昭和24年生まれ

    昭和30年代の思い出が一番懐かしい気がします。小学生時代の思い出です。

    自転車の後ろに紙芝居を積んで、子供達に紙芝居を見せてくれるおじさんがいて、5円で飴玉を買いなめながら見ていました。

    当時はテレビは町内会に1軒しかなく、子供達は木戸銭(きどせん)5円を払い見ていました。
    人気番組は月光仮面、赤銅鈴之助(字が違うかも)、ハリマオ、ミイラ・・・etc

    遊びはフラフープ(35年頃)、女の子は校庭でゴムとび

    授業でプールは無いから、シュミーズ(木綿のスリップの様な物)のまま川で泳いでいました。男女一緒でした。

    お金持ちの家の子は、塾に行っていました(ソロバン、書道、ピアノ)
    そして、スピッツの白い犬がいる家は金持ちと思っていました。

    今の時代のようにゲーム機などは無いので、夏の夜は蚊帳(かや)の中で姉妹で地図帳を広げて、地名の当てっこなどをしたものです。
    その精で、近眼になったのですが、今でも地理はかなり詳しいです。
    忘れないものです。

    校舎の床を掃除時間は2〜3人で一斉に雑巾がけして、誰が早いか競ったものです。

    良い時代でした。

    ユーザーID:3942557872

  • 昭和32年生まれです

    昭和30年代の町並みと5年前に日本へ帰った時の町並みの大きな違いは商店街の色合いの違い、個人経営の八百屋や雑貨屋が店をたたんでスーパー等大きな資本をバックにした店の進出が進んでいた事位ですね。それから昭和30年代は厚木飛行場や横須賀基地に多くの米軍部隊がいたので部隊を運ぶ大きなヘリコプターや大きな輸送機が低空で飛んでいてTVの画面が乱されて嫌でした。もっとも身近な物では幹線国道だけが舗装されてて歩道は未舗装の凸凹状態で子供の頃はそのおかげでよく転びました。

    ユーザーID:1691527919

  • 仲間に入れてください

    昭和44年生まれ、トピ主さんより少し年上でしょうか。

    昭和30年代の風俗や生活をお知りになりたいとの事であれば、その年代に製作された日本映画を観る事をオススメします。
    映画の世界の話なので、若干、実生活とかけ離れた部分はあるでしょうが、ファッションや当時の街並み、日用品等は見るべき物がかなりあると思います。

    S30年代は日本映画全盛期ですが、特に今は亡き日活、大映の作品は当時の風俗を垣間見る事が出来ます。
    銀座や有楽町、新宿、横浜等でロケを行っている作品が多く、高層ビルもなく、近代的なビルの谷間に普通の民家や商店がある街並み、都電や市電と車、人が危なっかしくも上手く共存している風景などが見れますよ。

    女性も出かける時は帽子や手袋をしていたり、シームのあるストッキングを履いていたり、男女共に家でのくつろぎ着として着物が多用されていたり…。

    CG合成ではない、本当のS30年代を知りたいのであれば、ぜひ映画をどうぞ。

    ユーザーID:7096655318

  • 昭和35年前後の思い出

    この時代も、格差があったと幼少期に記憶しています

    年に数回、ホームレスと呼ばれる人がボロをまとって、各家を「お恵みを」と言いながら歩いていました
    母が、おむすびを作り渡していました

    駅前で、太平洋戦争で手や足を失った「傷痍軍人」という人が、ござの上に座り、通行人にその身体をさらして、お金をもらっていました
    私はまだ小学校入学前でしたが とても怖かったです

    まだ家には電話が無かったので、夜中に「電報です」とドンドンと戸をたたく音で目覚めると、「○○キトク スグカエレ」のような電報が時々ありました
    両親の田舎は電車で一日がかりのところでしたので、大変でした

    明るい話ではなくて ごめんなさい
    なぜか暗い思い出です

    ユーザーID:1040974046

  • トピ主です、ありがとうございます。

    トピ主です。
    皆様からの、其々のエピソードを興味深く大事に読まさせていただきました。
    皆様には個々でのお返事を省いてしまい不躾ですがどうぞお許しください。
    重ねて厚く御礼申し上げます。

    私は昭和30年代の風俗や文化について学びたいというより
    あくまで皆様が経験された思い出話を伺いたくてトピを立てました。
    思い出話を聞こうにも、私には語ってくれる祖父母や父が既にこの世にいません。
    そのためここでお話が伺えてとても嬉しかったです。
    個人的に、特に驚いたのはHさんの学校で火鉢があったこと。
    昭和30年生まれさんの、公営住宅の中に釜戸があったこと。
    fankoさんのシュミーズ(木綿のスリップの様な物)のまま川で泳いでいたことでした。
    時代の移り変わりと共に、残るものと受け継がれていくものの変化を
    改めて感じました。私は経験したことないのに懐かしく思うのがまた不思議です。
    あ、余談ですがギョウチュウ検査は私も経験あります…
    確か、キューピーちゃんのマークが中央にありました(笑)

    もしよろしければ、引き続き皆様の昭和30年代をお聞かせ願えればと思います。

    ユーザーID:2606780475

  • 昭和28年生まれ

    国道16号線(厚木街道)でも自動車は1分間に2〜3台程、まばらにしか通りませんでした。

    排気ガスの匂いが好きで、よく見に行きました。

    シャーマン戦車をトレーラーに載せて運んでいるのも見ました。

    テレビドラマの中のアメリカは夢のような生活ができる国で、あこがれました。

    外国ってアメリカのことだと思ってました。

    読売新聞の漫画「轟先生」が懐かしいです。(覚えてる人いるかな?)

    ユーザーID:8756817383

  • 昭和21年生まれです。

     小学生の頃、紙に印刷してある、着せ替え人形というのがあり、
    お人形と洋服を切り抜いて遊びました。
    着せ替え人形を、お菓子の箱に入れて、お部屋の代わりにしてました。


    履物は、靴でなく(ぽっくり)という、はなおの付いた
    鈴付きの下駄をはいてました。
    ぽっくりは7段位の高さになっていて、履いている内に減ってきます。
    可愛い模様もあって、買って貰った時嬉しかった記憶があります。

    又小学校の給食の時、アルミの食器に配られた脱脂紛乳が不味くて、
    息をしないで、いっきに飲みましたよ。
    解けてないミルクが食器の底に残ってました。

    今みたいに好き嫌い言っている時代ではありませんでしたから、
    我慢して飲みました。

    鉛筆は今の様な鉛筆削りはありませんでしたから、ナイフで母に削って貰いました。
    小学校の4年生位から鉛筆削りが世の中に、出て来ました。

    髪の毛は(わかめちゃん)みたいな後ろ刈り上げでした。

    懐かしいです。

    ユーザーID:2998937215

  • 昭和30年代小学校編

    昭和29年に小学校に入学しました。当時は生徒の数が膨れ上がった時期(ベビーブーム)で、教室の数が足りず二部授業でした。早番(午前中4時間と給食)と遅番(給食と午後の2時間)とに分かれて、1週間交代でした。遅番の時は午前中に近所の子供たちと遊び、昼前に家に帰って登校しました。

    その内に近くにもう一つ小学校が出来て、クラスのうち四分の一が移っていきました。しかし、近年子供の数が減ったせいで、この新しい方の小学校は廃止されました。小学校にも寿命があるのですよ。

    冬は黒板の前に石炭のダルマストーブが一個ありました。各教室から煙突が一本出てましたが、燃焼が悪いと教室中煙がいっぱいになり、臭かった。
    私は一度熱くなった石炭シャベルで手の甲をチョコっと火傷しました。

    放課後の掃除当番は班別で7〜8人が組になってやりました。翌日の石炭を貯炭場にバケツで取りに行くのはいつも元気な男子生徒で、なるべく大きくて艶のある石炭を選んで持ち帰りましたが、火つきは良くないのです。

    一クラスは56〜57人でしたが、多くて困った記憶はありません。

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  • 小学5年に書いた夏休み日記

    昭和36年の日記にテレビで西部劇のブロンコを見たと書いていた。
    当時はテレビで西部劇をたくさんやっていた。
    他にライフルマン、ララミー牧場、胸に輝く銀の星、ローハイドなど毎日やっていた。
    あの頃のテレビには夢や希望や冒険がいっぱいあった様な気がする。
    もう2度とあのような時代はやってこないだろうな。

    ユーザーID:5869805514

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