昭和30年代の話を聞かせてください

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こもごもこ

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  • きりがないですが…

     北海道の名寄という市に住んでました。

     小さい頃は、毎日チャンバラごっこ。
    東映映画の全盛で、片岡千恵蔵、市川歌右衛門、東千代の介
    月形龍之介、中村錦之助ETC.沢山スターがいて、映画館
    は5軒もありました。

     風呂なんて、せいぜい週1ぐらいでしたか。冬なんて銭湯
    の帰りは、髪の毛が針金のようにバリバリに凍り、タオルを
    刀のように振り回せました。でも湯ざめもせず、風邪なんか
    無縁でした。

     歌謡曲(三橋美智也、春日八郎、大津美子など)はもちろん
    洋楽もけっこうラジオで聴けました。
    洋画のシエーンなんか観て、かっこいいなあなんて思いました。
    ザ・ピーナツの歌が新鮮に聴けました。

     今のほうが、はるかに快適、便利なはずなのに、なぜか昔が
    懐かしいですね。尽きませんのでこの辺で。

     

     

    ユーザーID:8344560193

  • 続きです。

    飴が一つ50銭でした。

    小学校三年生の時、百円札2枚拾い、交番に届けました。
    一年経って落とし主出なかったので、頂いた記憶がありますが、
    大変なお金で、又30年代は、十円札が使われてました。

    少年探偵団、赤銅鈴之助、月光仮面、あんみつ姫、鞍馬天狗など、
    月に一回程、映画館へ家族で観に行きました。

    バナナは高級品で、病気の時以外は食べられませんでした。

    コロッケが出始めたのも、小学校3年生の時で、
    お肉屋さんで一つ5円でしたよ。

    貧富の差が酷く、差別がありましたし、子供12人とか、子供の多い
    家はざらにありました。
    「貧乏人の子沢山」とかいう言葉も、この頃でしょう。

    近所の子供たちと年齢関係なく遊びましたし、
    ガキ大将がいて、その子の言う事を聞いてました。

    今とは随分違いますね!

    ユーザーID:2998937215

  • 10円

    34年産まれです。私が5歳の頃は、10円でマーブルチョコしかも鉄腕アトムのシール付きが買えました。明治のサイコロキャラメルも大粒二個入りが小さいサイコロの箱に入って10円。
    駄菓子屋でのくじつき飴やガムも10円。プラスティックの入れ物が無かった時代だったので、肉とかポテトサラダとかは、薄く削った木に包んで紐で縛って油紙に包んでいました。
    夫はアメリカ人ですが、その当時、アメリカ国内で手に入る、いわゆる安物は、全部日本製だったそうで、今の中国製に当るらしいです。

    ユーザーID:7314851438

  • 「DDT世代」のウチの母

    私は昭和40年代生まれですが、母が昭和17年生まれで、帰省したときは
    よく昭和30年代ぐらいの話を聞きます。

    昨年の帰省時はTVのニュースで「シラミ大発生」というのをやっていたときに
    「そうか〜、いまはDDT使えないもんねえ。私らが中学生ぐらいまでのころは
    みんな学校で頭にDDT撒かれて『白髪〜』なんてからかい合ってたたものだったけど」
    と懐かしそうに話してました。そこからさらに「チョコレート味の虫下し」の話に
    発展して…。

    そんな母は若かりしころは日活アクション映画を見まくり、クラスでは「島倉千代子派」の
    一員として「美空ひばり派」と対立していたそうです(笑)。

    ユーザーID:5042628773

  • お金や住んでいた周辺のこと

    私は32年くらいからかなり確かな記憶があるんですが、

    > 30年代は、十円札が使われてました

    は記憶にありません。30年代もごく最初のころだったのでしょうか、使われていたのは。1円や100円のお札は覚えていますし、多分まだどこかに取ってあるはずです。

    100円玉が出たのは33年か34年でしたかね、1万円札もそのころだと思います。祖父が母に見せたのを、横で恐ろしいものを見るように覗いていました。自分にはとても想像できるような金額ではありませんでしたから。

    その時期と東京タワーが作りかけだった記憶が重なります。当時都立大学の近くに住んでいましたが、家の周囲は葱畑で春には葱坊主がたくさんできていました。近くに竹やぶもあったし、神社にはクワガタなどの虫もたくさんいて、一度電柱に玉虫(きれいなやつ)も見つけたことがあります。

    呑川(のみがわ)を遡っていくと本当に小川のような感じで、「春の小川」はこういうところなのだろうと思っていました。そこは、駒沢の近くで後にオリンピックがあって周辺はすっかり変わってしまい、当時の面影は今はほとんどありません。

    ユーザーID:9517585428

  • 棺桶

    私は千葉県の農村地帯の出身です。昭和38年父方の祖母が亡くなりました。
    リヤカーで墓地に運び埋葬しました。 
     当時は土葬で風呂桶のような形をした入れ物に座るような形で埋葬しました。 
    懐かしいですね、私が20歳の時は軍隊酒場があり、新宿の東口で傷痍軍人さんが小さな箱を置き佇んでいました。八王子でも見ました。 
     辛い記憶でもあります。
    当時、若い男たちは、蛇皮やワニ皮の靴が流行っていました。
    私もはいていました、あとベルトも、金歯は金持ちの証しでした。


    豚の生姜焼き美味かったなあ〜

    ユーザーID:0780681830

  • アラカン世代さま

    >は記憶にありません。

    そうかも知れませんね。
    私の記憶にある十円札は、昭和20年中頃から30年初期かも?

    お年玉が十円札でした。
    記憶にあるのが、お祭りで十円札を使いましたよ。
    ですから50銭も昭和20年代でしょう。

    小学校3年生の時に、百円札2枚拾ったのも、計算すると
    昭和29年に拾って30年で頂いたという事になります。
    アラカン世代さまがおっしゃる通り、大変なお金でした。

    何しろ古い話で本当に懐かしいです。

    ユーザーID:2998937215

  • いくつか思い出しました

    昭和33年に妹が生まれました。
    そのころ、田舎から祖父母が泊まりに着ました
    6畳一間の長屋に住んでいたので、寝るところが足りず押入れの上段に祖父、下段に父が寝ました。
    私は小学生になっても、祖父のことを話すとき「押入れに寝たおじいちゃん」と言っていました。

    住んでいた家の近くに線路があり、時々汽車がもくもく煙を吐きながら走ってきました。 私が手を振ると、「ポー」と汽笛を鳴らして機関士さんが手を振ってくれました。
    線路沿いにはフェンスなどは無くて、今考えるとかなり危険でした。

    昭和36年に弟が生まれました。
    私の時は助産師さんに、取り上げてもらったそうですが、弟の時には病院でした。
    父が布団を自転車に積んで運びました。その後ろを妹の手を引いて歩きました。
    当時は入院するのに布団持参だったようです。
    その布団はかなり長い間来客用に使用しました。

    私は昭和30年に生まれたのですが、雪の夜で父がお産婆さんをリヤカーに乗せて走ったということです。
    かなり田舎に住んでいましたので。

    ユーザーID:1040974046

  • 昔に戻りたい

    昭和23年生まれです。京都市で生まれ育ちました。
    お風呂の話で思い出したのですが、夜8時(?)になると連続ラジオドラマの「君の名は」
    が始まるため、銭湯がガラガラになったのを覚えています。テレビなどない娯楽の少ない
    時代でラジオ放送が唯一の楽しみだったのでしょう。
    銭湯の隣が回転焼き屋さん(今川焼きと言いました)で帰りに買ってもらうのが楽しみでした。
    あと、不思議な記憶があるのですが、町のど真ん中なのによく馬糞か牛糞かわかりませんが、
    道に落ちていたのですが、あれは一体どういうことだったのかしら。
    農村ではなく、市内の中心地です。未だに不思議でなりません。
    ロバのパン屋さんもありましたが、それとは別なのです。
    どなたか、覚えていらっしゃる方おられませんかね。
    遊びも竹がえし、まりつき、ゴム飛び、石けりなど今はもう見られないものです。
    ほんとうに懐かしいです。

    ユーザーID:2624172205

  • バナナが‥

    昭和30年代バナナが高価な果物でした。当時祖母が年に数回来る時に、重いバナナを土産に持ってきた。それが楽しみだった。それから、鯨(ベーコン)がよく食卓に並んだ。テレビでちろりん村を見たぞ。懐かしいな‥

    ユーザーID:3170750124

  • 着せ替え人形さま、遠い目さま

    ありがとうございます。自分が見ていないだけかもしれませんが、
    多分10円玉がすでに主流になっていたと思います。

    50銭玉も見た記憶はありますが、33,34年頃自分でお金を使えるようになったときには、
    もう誰も使っていなかったようです。飴玉が確かに50銭でしたが、
    1円で2個のために兄弟で2個買って一つずつ貰いました。

    そういえば、馬糞落ちてましたね。もっとも住んでいたのは東京とは言え、葱畑の残っているようなところですから、不思議とも思っていませんでした。おかげさまで、記憶がよみがえりました。家の周りや道の脇には、冬に霜柱がたくさん出来ましたので、道もあまり舗装されていなかったのでしょう。

    ローカルな話ですが、環七通りも出来ていないどころか、目黒通りですら途中までしかありませんでした。そして東横線はまだ地上を走り、プラットホームは島型で改札口も線路に挟まれ、踏切が両方閉まっていると電車を降りた人の人溜まりができました。切符売り場は確か、改札口の向かい側にありました。

    都立大学駅の前に商店街があり、その中にあった映画館で宇津井健主役の「スーパージャイアンツ」を見ています。

    ユーザーID:9517585428

  • 30年生まれです

    私の小学生の頃の 懐かしい 遊びはフラフープやゴム飛び 竹馬 メンコ など 楽しかったです
    買い物で思いだすのに量り売りが いろいろあった事です お味噌やバター、
    油、 醤油など 後 お豆腐売りに来たり など
    我が家は理髪店だったので カラーテレビを早くにお店に置いてありわざわざ、お客様が見に来たりなど
    今 思うと のんびりした 本当に良い時代でした ご近所との付き合いも 深かったですしね
    田んぼや 畑もあり ザリガニ オタマジャクシや蛙なども捕まえました (ちなみなに 横浜市内です)
    取り留めなく 書いてしまいましたが

    ユーザーID:7499804448

  • 遠い目さまへ

    私は昭和22年の東京生まれ東京育ちです。京都の方が回転焼きを今川焼と呼ぶと聞いて、
    うれしくなりました。私の父は東京深川の旧家で生まれ京橋の中央通りで育ちましたが、
    今川焼と言っていました。なので家では今でも今川焼と言います。
    なかなか美味しいのが無いのが難点ですがね。

    それから町の中に落ちていたのは馬糞ではないでしょうか。まだ荷車の馬車が結構通っていた時代ですから、東京でも少し郊外へ行くと沢山落ちていましたよ。馬糞を踏めば背が高くなると言って、ちょっと踏みました。馬糞に飼料のわらが混じっていたのが印象的でした。道路は未舗装だったためか馬糞と違和感がなく、汚いと言うイメージはありませんでした。

    どなたかがお金の話をされてましたが、私の記憶では10円硬貨が出たのが昭和26年でした。近所の酒屋のオジサンがお釣りをくれた時、今度10円硬貨が出たのだよと言って、手のひらにくれたことを覚えています。

    当時はまだ一個50銭の飴が売られていました。子供のギャクで小石とゴミを拾って石円(一円)ゴミっ銭(50銭)だと言っていたことを思い出します。

    ユーザーID:3944764304

  • ポン菓子屋

    東京オリンピックの年生まれ。
    子供のころ住んでいた団地には、ポン菓子を作ってくれるポン菓子屋さんがやってきた。

    家からお米を持って行くと、機械にお米と砂糖を入れ、ポン!と音がすると、
    膨らんだ甘いお米のお菓子の出来上がり。

    あと、夏には蚊帳を吊って寝ていました。

    三丁目の夕日ぐらいの時代に戻って、今の目であの頃の生活を体験してみたいです(ただし、期限付きで)

    ユーザーID:1664887686

  • 戦争ごっこ

    先日こまちで戦いごっこというのを見ました。僕のころはそのものズバリ戦争ごっこだった。昭和31年生まれ男性です。
    物心着いたことは戦後15年から20年ぐらだと思いますが、少々戦争の臭いが残っていました。

    1.傷痍軍人 がまだ目につきました。東京オリンピックでいなくされたのかな?戦争関連ではありませんが、地下鉄梅田の駅には「もぎりのおばちゃん」がいました。回数券のばら売りです。儲けは1割だと思うので悪くない商売だったかも。もちろん自動販売機はなし。万博でいなくなったと聞きました。
    2.秘密の基地は防空壕跡・・・じゃなかったかな?正確には分りません。
    3.淀川のかわらには爆弾池がありました。爆弾が落ちてできた池とのこと。
    4.少年漫画は戦機物花盛り。ゼロ戦隼人、ゼロ戦レッド。紫電改のタカ。飛行機物が中心だったかな?でも週刊誌の前の方には戦艦紀伊の紹介など、戦艦空母も取り上げられていたような。
    5.中学校の先生が戦争に行ったって言ってました。怖いものはないそうです。
    6.母から焼夷弾の話を聞かされました。

    ユーザーID:1510289240

  • 昭和30年代の思い出

    ご近所の一家が北朝鮮に帰国するからと挨拶に来ました。
    差別する人が多い中、私の両親は良くしてくれたので、特別にお礼を
    言いに来たということでした。私は子どもでしたので、
    詳しい背景は分かりませんでしたが。母は今でも、あの人たちは
    無事生きているだろうか、住所が分かれば何か食べるものでも
    送るのにと心配しています。

    園まりショーを体育館にござを敷いて見ました。
    子ども心にも色っぽいな〜と思うような歌でした。
    前座は布施明でした。布施さんは今でもたまにテレビに出演
    されますが、大昔から歌ってるんだよな〜と何だか感心します。

    ユーザーID:2455481754

  • もっと思い出してみよう

    昭和31年大阪市都島区生まれ。本当の大阪市はもっと都会だと思ってた。

    1.姉の写真で淀川の堤防にヤギが写ってた。
    2.近所の牛乳工場があり、牛がいた。
    3.近所に貨物線が通ってた。電化はされてたが、蒸気機関車しか走っていなかった。
    4.たこ焼きが6個で10円、お好み焼きは素焼きは10円、豚は20円玉子は持参。アイスクリームは普通10円だけど安もんは5円。ガムは4枚入り10円。
    5.幼稚園の遠足は私市にイモ掘りかイチゴ狩り。
    6.バスも走ってたけど市電が好きだった。トロリーバスもあったけど近くは走っていなかった。
    7.淀川の堤防から通天閣が見えた。日立の文字(マーク?)が見えていた。
    8.淀川の堤防でセリをとってすき焼きに入れて食べた。つくしも取っていた。
    9.近所に思い出せるだけで5軒駄菓子屋があった。多分歩いて5分圏内。
    10.電話番号で呼び出しは(呼)の文字が入る。
    11.よそで初めて見たカラーテレビはにじんでいた。
    12.5球スーパーが現役で動いていた。
    13.科学と学習、特に科学に憧れた。今はなれの果てで化学屋やってます。
    14.月刊少年漫画雑誌が消えた。

    ユーザーID:1510289240

  • シャンプーが無かった?

    昭和36年生まれです。
    私の小さな頃は もしかしたらシャンプーって無かったような気がします。
    父が固形石鹸をゴシゴシ頭になすりつけて洗ってました。
    S40年くらい?かな 大人はエメロンのブルー・ピンクのシャンプー、私は子供用のキンダーシャンプーとか買ってもらって使ってました。もちろんリンスの登場はずっと後。歯磨き粉も今はペースト状が当たり前ですが、当時 粉が主流だったような?
    あと面白いのが給食で、食パン、辛子バター、ハム、スライスきゅうりなどが出て「セルフサンド」というメニューだったのですが みんなサンドウィッチにしないで別々に食べていた、とか。当時の一般家庭の食生活が洋風なものに追いついて無かったそうです。
    ハンバーグやスパゲッティも一般家庭に登場したのはS40年以降だと思います。
    デパートのお子様ランチでしか食べられないものでした。

    ユーザーID:4745388307

  • 40年代寄りですが

    36年生まれですが、田舎だったので家には土間があり、かまどもありました。
    トイレはぼっとんの汲み取り、電球なくて真っ暗
    水道もなくて、裏に隣と共同の井戸があって底に金魚が泳いでました。
    たしか、変なものを混入されてもわかるようにだったと思います。

    テレビはありましたが、コンバーターとか言う機械がなくてNHKしか映らなかったので
    ウルトラQは親戚の家まで毎週見に連れて行ってもらってました。

    おやつは「はったい粉」に砂糖を入れてお湯で練ったのや、
    甘いけどちょっと苦い味のする5円のアイスキャンデーとかが記憶にあります。
    小学生になった頃は駄菓子屋全盛期で、おやつも、おもちゃも全部駄菓子屋さんで買ってました。
    メンコでもビー玉でも、その頃は勝負に勝った子が負けた子のをもらうのが当たり前の世界でしたね。
    今の子どもたちなら親が黙ってないけど、昔は負けてぐずぐず言う方が叱られました。
    小さい子には余ってるメンコでわざと勝たせてやって喜ばせる優しさもあったりして。
    そういえば、「みそっかす」「みそこ」は最近では聞かなくなった言葉ですね。

    ユーザーID:6782791326

  • 昭和35年生まれです。

    生まれてからずっと広島在住です。
    保育園時代お好み焼きが45円。卵持参でした。貴重品だったのかな?最後に入れて焼いてもらいました(笑)
    ポッキーチョコが販売され始めたのもその頃。60円くらいだったような。こづかいが10円だったので高価なお菓子のイメージがあります。私は10円ではかり売りの横綱あられを買っていました。ガラスのケースのふたを開けてスコップのようなもので紙袋に入れてもらうのです。一番たくさん買えたのが横綱あられだったので(笑)そう考えると横綱あられもポッキーも超ロングセラーのお菓子ですよね。
    紙芝居も来てたんですよ。えびみりんのうすいせんべいにお好みソースで目や口を書いて耳の形のせんべいを貼ってうさぎのせんべいを売るのです。幼い私は紙芝居が見たくて人をかきわけて前へ行こうとしたら姉が「うさぎのお菓子を買ってないから後ろよ!」と言って手を引っ張られました。子供心に切なかった思い出です(笑)
    いやだわ〜食べ物の事ばかりよく覚えてる〜。だからかしら、私未だに食い意地はっていやしいです…アハハ…。
    30年代というより40年前後ですかね、とっても懐かしいです。

    ユーザーID:9384324237

  • 三丁目の夕日か、おしんか

    私が6歳の時だから、既に40年代に入っているのですが
    「三丁目の夕日」や「おしん」に出て来る、
    出稼ぎの住み込みの女性がうちにやって来ました。

    中学を出てすぐ田舎から出て来て、いきなり住み込みで働くのです。
    うちは店で、ちょうど「三丁目の夕日」の様な格好の家でした。

    彼女は家事一切を任され、その為に習い事にもうちの親がお金を出して行かせていました。
    当時は普通の事だったみたいです。

    今考えると、高校生の年齢でまだ子供だったんだなと思います。

    ユーザーID:6343676131

  • アラカン世代さま、食糧難さま

    そうですか、やはり街中でも馬糞は落ちていたのですね。おぼろげな記憶ではおじさんが
    一人で、馬をひいて歩いていたのは覚えています。
    それから10円札ですが、今のお札より横幅がせまく柄がなにやら重厚な色合いであった
    ように覚えています。
    食糧難さま、東京でも今川焼きと言っていたんですね、今では京都でも今川焼きの名は
    目にしません。皮が現代の回転焼きより香ばしくって大好きでした。
    夏になると衛生掃除と言って、町内中が揃って家の大掃除をする日があって、子供たちも
    駆り出されてお手伝いをした思い出もあります。畳をすべて除けて町内から配られるDDTを床下に撒いて
    いました。大騒動でした。昭和何年頃まで続いていたのか忘れてしまいました。

    最近年のせいか、子供の頃を懐かしむことが多くなり、大小さまざまな事が思い出されていた
    矢先、このトピを見つけ嬉しくなりました。こもごもさん有難うございます。
    皆様のいろんな思い出を楽しみにしています。

    ユーザーID:2624172205

  • 昭和35年生まれです。

    ロバのパン(ロバで屋台を引いた蒸しパン屋さん)が来てました。
    あの音楽を聞くと、胸高鳴ってお金掴んで走りましたね。

    同じく、ポン菓子やさん。
    来たを解ると、10円と米1合を掴んで飛び出しました。

    今スーパーで売ってるポン菓子が、砂糖がけ?になってるのに、どうもなじめません。

    朝だか夕方には、「豆腐売り」「アサリ売り」「イワシ売り」さんがリアカー引いて来てました。
    親が鍋持って買いに行ってました。
    「いわし〜、取れ取れのイワシ〜♪」というのはまだ覚えてますね。

    小さい頃のお菓子って、ほんとに種類少なくて、よく覚えてるのは
    マーブルチョコレート、あたり前田のクラッカー、明治のアイス(黄色いカップと赤いカップ)とかかな。

    卵は1個10円とかのバラ売りでした。

    近所の田んぼでよくレンゲを摘みました。
    汚い溝川で、カエルも捕まえました。

    牛乳は瓶牛乳で、電子レンジとかないので、暖める時は鍋に水張って、
    牛乳瓶を入れて火にかけてました。
    一度親が熱い湯に牛乳瓶を入れて、即瓶が割れて牛乳が流れてしまい、
    大泣きしたことを、今思い出しました。

    ユーザーID:7608124610

  • 昭和30年代東横線編

    アラカン世代様のお話に刺激されて、記憶にある東横線ですが、祐天寺から自由が丘までは地上か切りとおしを走ってました。都立大学駅は地上駅で島式、今のバス通りから渋谷よりが駅で、切符売り場は踏み切り南側の小建物でした。

    目黒通りは東横線の渋谷よりを鉄橋で越えた後二つのT字路でクランク状に曲がっていました。今でも当時の道路跡があります。駅の北側に富士館という映画館ができ新東宝を中心に上映していました。高田浩吉の伊豆の佐太郎を見ました。

    東横線(3両連結)は渋谷〜田園調布間の折り返しが結構あり、私は都立大学から田園調布までわざわざ行って始発電車に乗って楽しみました。

    都立大学駅近くから呑川柿の木坂支流を探検してさかのぼり、ついに水源が野沢の福田首相宅の近くであることを突き止めました。この探検で今の駒沢公園が出来る前、未整備の西部劇風の断崖絶壁がある、絶好の遊び場を発見しました。

    現在学芸大学駅と都立大学駅との中間、南側にある立派なゴルフ練習場は、当時電車の修理工場でした。近くの舗装はしてあるが穴ぼこだらけの道路がオリンピック前には広くなって環七となり、ビックリでした。

    ユーザーID:3944764304

  • 思い出がいっぱい

    男のくせに”きいちのぬりえ”が好きでした。

    不二家のパラソルチョコレートが美味しくて、グリコアーモンドチョコレートは高くて子供には買えなかった。

    番頭はんと丁稚どん、お笑い三人組、琴姫七変化、隠密剣士が大好きで、霧の頓兵衛にあこがれたなぁ。

    アメリカが打ち上げるマーキュリーやジェミニはまるで夢のような話で、宗谷が氷に閉じこめられたときは子供もみんな心配しました。

    自家用車も電気冷蔵庫も無かったけれど、何であんなに幸せだったんだろう。

    ユーザーID:4996530599

  • 住まい

    38年生まれですが・・・

    生まれた時の家は5歳まで住んでたんですが、
    二階建て木造で、ドアが二つ。うちは一階。
    よそさまがお二階。父によると、「昔の大阪は
    住宅難で一つの家を分けてた」そうです。

    40年代初めの頃の記憶・・・
    ・買い物は市場で、買い物かご持って。
     ビニール袋なんて、あまり見かけませんでした。
    ・テレビが真空管だったので、スイッチを切ると
     画面がすうっと小さな四角形が消えていく
    ・缶ジュースの自販機なんてなくて、てっぺんに
     ガラスのボウルがついててその中にオレンジジュースが
     噴水のようになってたコップ式自販機。
    ・コーラの瓶の自販機はありましたが、それは子供
     ながらに「大人しか飲んじゃいけない」と思っておりました。
    ・卵しか売っていない専門店があり、新聞紙で上手に
     ラッピング(?)してくれました。無駄がなかったなあ。

    とにかくごみが出ない暮らしでしたね。

    ユーザーID:7436494507

  • 昭和25年生まれ

    資材置き場だった横浜駅西口広場の開発の目玉として、大手デパートに出店を打診をしたら、
    あのデパートには断られて、高島屋が来てくれました。
    横浜市民には有名な話なので、ずいぶん後になってあのデパートが出店しても、今頃来たかとみんな冷めた目で観てました。
    デパートが出店を渋るくらい貧相な街だったと、世田谷出身の母親に聞きました。
    当時の横浜はスカーフが主な貿易産品で、鶴ヶ峰付近に捺染工場があって、帷子川は絵の具色。
    あの頃建てた横浜市庁舎が、今でも現役なのは感心します。

    ユーザーID:4244998276

  • 都会の子供時代

    29年 東京生まれです。
    都会の真ん中(神田)で育ったため上下水道は完備でトイレも水洗でした。
    けれど小学校には校舎と離れた汲み取り式の便所があって怪談の場所に・・

    教室の机やイスは木製で、机は上板をあげて教科書などを中に入れました。
    学校には「小使いさん」(用務員のおじさん)がいて壊れた机やいすを修理してくれました。
    冬は石炭のだるまストーブで その上に金属製の弁当箱を乗せて温めました。
    遊びは鬼ごっこ(手つなぎ鬼、かげ鬼、)すいらいこっぱ、馬跳び、ゴムとび
    ろー石で地面に○を書いて片足とびなどをして放課後は終了時まで校庭で遊びました。

    夏は林間学校というのがあって 私達は花小金井駅で電車を降り田舎道を歩き
    多摩川近くの区の施設での宿泊学習。
    当時その付近の多摩川で泳いだのです。
    蝉の声と涼風を受けスイカを食べた後は昼寝でした。

    家にテレビは無く、近所の家に行き「チロリン村とくるみの木」を見ました。
    勉強、遊びでクタクタで夜は8時に就寝。

    布団の中で耳を澄ますとたまに通る車の音以外音も少なく
    上野駅から汽笛の音が聞こえてきました。

    ユーザーID:3259934373

  • なつかしいな

    昭和38年生まれなので、30年代から40年代半ばの思い出になってしまいますが・・・。

    生まれてから小学校に上がるまでは東京でした。
    幼稚園の頃の記憶と言うと、家の前や近くの道がどんどんアスファルトに舗装されていったことでしょうか。

    夕方になるとやってくるお豆腐屋さん。あの「ぷぅ〜ぴぃ〜・・・」というラッパの音が夕方の空に響く・・・なぜかノスタルジックになる風景です。母にアルミのボウルを渡されて、「お豆腐屋さ〜ん!」ってお豆腐屋さんを呼び止めると、お豆腐屋さんが自転車、あるいはスクーターの後ろの木の箱からチャポンチャポンといわせてお豆腐をボウルに入れてくれました。

    あの頃は時代が変わっていっていた頃なのでしょう、道路だけではなく、近所の木造の建物が取り壊されて『近代的』な建物に変わっていきました。よく取り壊し中の家に子供達が宝物探しと称して入って遊んでました。

    その後、神戸に引越し。
    東京では見かけなかった紙芝居屋さんが公園にやってきて、感激しました。駄菓子屋さんも学校のすぐ近くにあってよく買いに行きました。ちょっとした文房具もそこで買っていました。

    ユーザーID:7282212626

  • 幸せだったな〜

    昭和28年生まれです。
    生まれた家には防空壕がありました。

    4歳くらいで引っ越して来た今の家の前には、
    どぶがありました。雨が降るとざりがにが泳いでいました。

    白黒テレビを買ったのが早かったので、
    近所の人たちが見に来ました。

    東京オリンピックを小学校で、先生に引率されて
    駒沢競技場に見に行きました。

    スポーツ少年団に入っていました。

    ララミー牧場の「解説」ではじめて「淀川長治さん」を
    見ました。

    松島トモ子さんが少女雑誌のカバー写真になっていたので、
    ああいう「やせぎすで目の大きな少女」が憧れでした。
    私自身は「やせぎすで目が小さくて目立たない少女」でした
    (でも中学2年頃からは、ちびでぶでした)。

    中学一年の頃、「ビートルズ」が来日し、
    先生から「武道館のコンサートには行かないように」と
    コンサート前日あたりから、「お達し」がありました。
    でも、こっそり行った人も居たと思います。
    確か、テスト前なので、余計に「行かないように!」と
    先生は脅かしていたようです。

    書いていて懐かしいです。

    ユーザーID:2350491011

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