昭和30年代の話を聞かせてください

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こもごもこ

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  • 信じられないと思いますが、

    私は、山手線内側、皇居まで徒歩30・40分のところに住まいしております。

    さて、本題に、近所に材木屋さんがあったからでしょうか、30年代初めには、材木を積んだり,空の荷馬車が通っておりましたよ。
    馬フンを踏むと、背が伸びると、信じられており、よく踏みましたね。藁ですので乾いております。

    次には、これこそ信じていただけないかなと思いますね。
    小学校の夏休みの宿題というか、課題というか、蝿取りがありました。
    蝿叩き、紙袋、割り箸をもって、捕まえ、紙袋に入れて、忘れましたけど、後日持参したのかな。

    ま、蝿は多く、家庭の食卓にも、蝿帳(蚊帳の食卓版ですね)があり、かぶせてましたね。
    店屋には、蝿取り紙がぶら下がっておりました。

    運動会では、運動靴(ズック)の変わりに、地下足袋の簡易版が、近くの文房具屋さんで売られており、
    使いました。終わることには、糸もほつれていましたね。
    運動会で、ヨーチンを腿に塗っている子もおりました。
    スゥーとして早く走れるとか。
    私はしませんでしたが。

    ユーザーID:7905660594

  • だんだん思いだしてきた

    団塊爺さま、私も思い出しました。運動会の地下足袋。それにまつわる運動会の嫌な思い出も。

    運動会の日は給食がなく、普通は親が特別に豪華な弁当を持参して、子供と一緒に運動場で食べるのですが
    私は家の事情で一人寂しく自分で持参した弁当をぼそぼそと食べていました。
    高学年になると、それが嫌で先生の許可をもらい家まで昼食を食べに帰りました。

    我が家は校区から一番遠い地域で子供の足で急いでも30分はかかり、急いで食べて又戻るのはきつかったです。
    その時の地下足袋の底の薄い、直に地面を踏むような感触が、とぼとぼと一人歩く私に一層侘しさを募らせました。

    あと、時代が前後してそうですが、ダイハツ・ミゼットという車が走り、テレビの「私の秘密」や「お笑い三人組」など
    の番組も見ていました。
    当時は停電が頻繁にあり、ロウソクの灯で夕食を食べるのが子供心に面白く、パッと電気がつくと
    なぁーんだもう点いたのかと残念に思ったり・・・
    もう、きりがありません。懐かしい思い出。

    ユーザーID:2624172205

  • 昭和30年代(参考になれば)

    小生の歩んだ「昭和30年代」をホームページに纏めてあります。
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~L-Wood/Edokko.htm

    ユーザーID:3618553579

  • 私も、だんだん思い出してきた!

    こもごもこさん、良いトピを立てて頂いて、本当に有難うございます。

    思い出したこと・・・

    団魂爺さま、私の記憶にある蝿張は箱型で
    周りは網で出来ていて、風通しがよい物でした。

    母はコテというパーマをかける道具を使い、自分でパーマをかけていた。

    いつも着物を着て、割烹着をしていた。

    掃除する時は、頭に日本手ぬぐいをかぶっていた。

    洗濯は、固形石鹸、洗濯板、木のたらい・・・手は、あかぎれ。

    セーターをほどいては、毛糸をやかんの蒸気に当てて、
    伸ばして編みなおしていた。

    猫がこたつで、一酸化炭素中毒で、のびていた。
    のびて死にそうになった猫を、泣きながら団扇で扇いだ。

    シバタ大サーカスというのを見た。

    練炭に網をのせ、お餅を焼いて
    お醤油と砂糖を混ぜてつけて食べた。

    鼠捕りの籠があった。

    蚊帳があった・・・中に入る時蚊が入らないように急いで入った。

    楽しい思い出です。

    ユーザーID:2998937215

  • あのころのカレー

    母の作るカレーが好きでした。当然、肉はごく少量しか入っていませんが、
    現在とは違う独特の風味がありました。
    色はまっ黄色な感じで冷めてもおいしかったです。
    アツアツよりむしろご飯かカレーだけ熱いほうが好きでした。

    おそらく現在のほうが本物なのでしょうが、あれはあれで懐かしく思いもう一度食べたいと思っています。
    何かの香辛料の風味が強く出でいたのだと思いますがそれが何かはわかりません。
    以前ここでトピを立てたことがあるのですが、解決しませんでした。

    レシピをご存知の方いましたら是非教えてください。

    ユーザーID:0790050246

  • 水洗トイレ

    昭和29年生まれです。地方都市に育ちましたが、その頃はどの家庭でもまだまだ
    トイレはくみ取りで水洗トイレはほとんど普及していませんでした。
    ある日小学校の友人と水洗トイレ完備の団地に住む同級生の家に遊びに行き友人が
    トイレを借りました。用を足したと思ったらあわててトイレから飛び出してきま
    した。曰く「水が止まらない!」
    ことほど左様に当時の田舎では水洗トイレは馴染みの薄い存在でした。

    ユーザーID:0148867065

  • エコロジーだった あのころ

    >団塊爺様 
    白い地下足袋は「はだし足袋」ですね。私もこれをはくと速く走れるからとはかされました。

    神田は学生の街でした。
    大学生はほとんど学ランと学帽かぶって手に書物を持っているイメージがあります。

    買いものは母とよく行きました。
    今思うと当時はずいぶんエコロジーだなと思います。

    味噌、醤油、油は容器をもって乾物屋さんで、
    砂糖も砂糖専門店みたいなところで量り売りです。
    炭屋は 夏は氷屋になりました。
    魚屋は 薄い木の皮のきょうぎで魚をくるっとまとめて、新聞紙に包んで
    渡してくれました。
    八百屋では野菜をそのまま買い物かごに入れてくれて、上からつるしたかごの中からお金を出し入れしてました。 
    豆腐屋には鍋を持って行き「豆腐一丁 さいの目にきって」と頼むと
    さいの目にきって鍋に入れてくれるなど、
    売り手と買い手の会話がありました。

    夏は打ち水をして、風呂上がりに浴衣を着て家の前の縁台で
    近所の子たちと夕涼みを兼ねて花火です。
    家の軒先につるした風鈴の涼しい音と鉢の中の金魚に植木。
    暑い夏でしたがエアコンがなくても涼しかったような。

    ユーザーID:3259934373

  • やはり、共通の思い出ですね

    レス、ありがとうございます・

    運動会の地下足袋も、二種あったような、
    しっかりして底がゴムのものと、布のものと。

    蝿張は、かぶせる物で、ちょうど傘を反対に開いたような、
    木綿製の網ですね。

    ご飯も冷めぬように、藁でできた、名前は忘れましたが、
    中にお櫃ごと入れておりました。
    冷めますよね。
    東北で赤ちゃんを入れておく、ずんどこ?と言ったかな、
    そんなものです。

    神田は、学生街、本屋街ですね。
    今もですが、食事を摂るところが多いですね。
    その昔、おそらく、30年前後ですが、
    外食券食堂と言うものがありまして、
    その券を持参しないと、食事ができない建前。
    券の変わりに少し上乗せ料金ですかね。
    物珍しく、食べてみたく、一度だけ、
    母にせがんで食べました。
    外食券は、お米の配給券です。
    家には、すみ込みも従業員もおりまして、
    お米屋さんが、その手続き、つまり、転居の届をしてくれておりました。

    野菜のカツギヤさん、その他、洋服のカツギヤさんも見えてました。

    ユーザーID:6510050803

  • ご飯のことなど

    団塊爺さんのおっしゃる「藁でできたお櫃を入れるもの」は関西では「ふご」と言います。
    お櫃のふたを開けると、炊きたてのご飯の湯気がふわ〜とあがり、木の香りも混じったようで
    風情があってよかったです。
    当時のおかずで多かったのは、菜っ葉とお揚げの炊いたん、魚の炊いたん、おひたし、黄色いカレー
    他どんなものを食べていたんでしょうかね。年に数回のすき焼きは大の楽しみでした。
    白米に麦が混じっていたのを覚えています。その後、ビタミンだと言って、黄色いお米が混ざって
    いた覚えがありますが、どなたかご存知ですか?そう言えば米穀通帳というものもありましたね。

    ユーザーID:2624172205

  • 夏休みの思い出

    毎日プール、花火ばかりの絵日記と
    楊枝と割り箸を接着剤で止めた工作
    ラジオ体操でもらう判子
    プールの消毒液の臭い
    手の中で震えるセミ
    打上10連発やロケット花火
    にゅろにょろ出てくる蛇花火
    ちょっと怖いネズミ花火
    最後は決まって線香花火
    井戸水でスイカを冷やして
    真っ赤なトマトをじゅるじゅるすすって
    かんしゃく玉にゴムパチンコ
    銀玉鉄砲は当たっても痛くないし
    ”大波小波で風吹きゃ回れ回れ”と縄跳びして
    ”東郷さんはえらい人”でつかまり鬼して
    自転車に三角乗りして
    宝物はホンチ箱
    三角ベースに空き缶ぽっくり
    型屋の粘土に色を付けて
    紙芝居で梅ジャム食べて
    町内のイチジクに詳しくて
    グミや柿にも詳しくて
    笹舟もつくれたし
    爆発するまで2B弾を持っていられた

    ユーザーID:7105985401

  • 昭和30年代食べ物編

    昭和29年に小学校入学でしたが、まだまだ食べ物は豊富にはありませんでした。小学校の給食は余り美味しくなかったけど、楽しみでした。
    脱脂粉乳はまずかったけど、有難く飲みました。マカロニサラダとかクジラの竜田揚げとか出ました。給食がまずいと言って残す人も多く、私はもらって食べました。残す人の家は別にお金持ちでもないのに、何故残すか不思議でしたが、オーおれがもらうぜと言って食べました。
    給食袋に食器とさじを入れて登校し、持って帰って親に洗ってもらい、翌日使いました。

    家のご飯は朝はパン食もありました。近所のパン屋さんへ朝7時ごろ食パン2斤買いに行きました。陳列ケースのケーキが美味しそうだったなー。
    食パン1斤は20円でした。ミルクパンが出たら30円だった。
    朝、パンでない時はご飯とみそ汁と漬物、小学校で家の献立を発表する時、ご飯、味噌汁、漬物、と書くのがとても恥ずかしかった。よその家はすごかったなー、ホントかなー。

    月に一回ぐらい千葉の浦安からお婆さんが行商で、海産物を売りに来ました。家でトイレを借りていました。行商の人はトイレはこうするのだと分かり、印象的でした。

    ユーザーID:3944764304

  • 22年生まれです。

    都市部の生まれですので給食は1年生からありました。脱脂粉乳はどうしても飲めずに先生に医者から証明書(飲めないという)をもらって来いと言われました。

    家には木製の冷蔵庫があり氷屋さんが毎朝配達してくれました。その氷で夏中、「渡辺のジュースの素」を飲み続け太りました。テレビでは大村昆ちゃん、花紀京、芦屋小雁、佐々十郎などのお笑いを楽しみました。
    フラフープとホッピングが流行っていて毎日学校へ持って行きました。
    ミルクのみ人形も流行っていて皆持っていたようです。ミルクを飲ませるとすぐオシッコをするのでおむつもつけていました。懐かしい!

    ユーザーID:3824085838

  • あまりきれいではなかったけれど

    懐かしい時代ですね。どの世代にとっても子供の時代に対してノスタルジーがあるでしょうが、世の中があまりにも大きく変わっていますからね。昭和30年代はまさに「戦後」でしたよ。
    国電の車両はチョコレート色。床も油をひいた木でしたね。窓もガタガタして隙間風が吹き込んだものです。
    駅のあちこちに、「啖つぼ」というものがあって、狙いを定めて「ペッ」とやっている大人が大勢いました。今では考えられないでしょう。
    魚屋の店先には蝿がぶんぶん舞っていましたし、どこの家にも蝿取り紙がぶら下がっていたのではないでしょうか。
    便所には手洗い用の水を入れた容器がぶら下がっていて、下の金具を押すと申し訳程度に水が流れるという今の感覚なら不潔極まりないようなものが使われていました。
    エアコンなどありませんから、夏はみんな汗だくでしたね。

    とても不潔な時代でしたが、そんな中でみんなたくましく育っていったのですね。ある意味では感慨深いものがあります。決して戻りたいとは思いませんが。

    ユーザーID:2494027862

  • 2度目の就職は30年4月、

    職員数10人ぐらいの小規模の法人でした。月給は6000円でした。月1500円の3畳間借り生活、自炊はできませんでした。残業をしても残業手当は出ませんでしたが夜食を近所のそば屋から取り寄せてくれました。ふだんは自分で食べられなかった高価なカツ丼、おいしかった記憶があります。一食分節約できたのでうれしかったです。

    ユーザーID:7625518352

  • 童謡「雪」の替え歌で。

    >年上の女さま。
     >テレビでは、大村崑ちゃん、花紀京、芦屋小雁,佐々十郎、などお笑いを楽しみました。
     ★この番組は「やりくりアパート」ではないでしょうか。(崑ちゃんの「ミゼット、ミゼット」で有名な。)もし、この番組をよく知っておられたら、童謡「雪」の替え歌で、この番組の出演者の名前が出てくる歌をご存知ないか、と思いまして。以下に書いてみます。
    「♪ゆうきや、コンちゃん(大村崑)、アラレや、佐々ヤン(佐々十郎)ふっても,ふっても、たこさん(茶川一郎)つもる。横山エンタツ、ラッパを吹けば、どこかで小雁が泣いている。」この替え歌、ご存知ないですか?

    ユーザーID:1609037286

  • 懐かしさがこみあげます。

    Hさんありがとうございます。ご指摘のとおりです。思わず歌ってしまいました。横山エンタツからのくだりは覚えていませんでした。しばらくは何かと口ずさむことになりそうです。他には「ますらお派出夫会」とか「金五楼のおトラさん」が好きでした。楽しい小学生時代でした。

    ユーザーID:3824085838

  • 「タミーちゃん」がうらやましくて・・・

    昭和30年生まれです。
    42年にリカちゃんが発売されました。リカちゃんは、「バービーや、タミーなどアメリカの着せ替え人形」のようなドールハウス付き人形を企画した・・・ということです。37年に日本製タミーが発売されました。私の友人が、その「タミーちゃん」を持っていました。当時は、幼児用の人形はありましたが、小学生が着せ替えをするような、あのサイズの人形はありませんでした。人形も服も見たこと無いほどかわいらしい・・・
    もう、うらやましくてうらやましくて・・とても言葉では表現できません。私もお金持ちの家に生まれたかったとつくづく思いました。
    クラスに多美子という名の子が居て、「たみちゃん」と呼ばれていました。それで、日本名の「たみーちゃん」だとずっと思っていました。

    ユーザーID:2629656934

  • 映像と音声が1秒ずれていた

    東京発のテレビ番組で、映像の動きよりも 音声が約1秒遅れていた。この原因は、私が後年、電電公社に入社してそのわけがわかった。詳細は技術的なので省略します。

    1963/11/23(日本時間)、世界初の衛星中継されるも、その最初の映像が不幸にして「アメリカのケネディ大統領暗殺事件」を伝える報道だった。翌日、新聞に大きく掲載され、私の父(今年84)は、

    「これは 大変なことになった・・・」

    と、その新聞を数年間保管していた。

    後年、これまた私が電電公社で、アチコチ転勤している間のある無線中継所の上司が、

    「あのケネディ事件は、たまたま俺(その上司)が中継当番の時だったよ・・・びっくりしたよ」

    と聞いた。

    当時のテレビ番組は、現代はアニメーションになっているマンガも、昔は「実写版」だった。「鉄腕アトム」「河童の三平」「悪魔くん」なども昔は実写版(特撮)でした。

    実写版では 鉄腕アトムが空を飛ぶときは、よく見ると「ピアノ線に吊るされた 少年が 鉄腕アトム役」として特撮された。今思うとものすごい撮影(制作)技術だったと思います。

    ユーザーID:3422350471

  • トピ主です、ありがとうございます 1

    お久しぶりです、トピ主です。
    レスが遅れてしまい申し訳ございませんでした。

    コメントが伸びていて正直驚きました。
    小町は勝手に30〜40代が多いと思っていたので
    昭和30年代のお話がこんなにたくさん聞けるとは思いもしませんでした。
    皆様の思い出話が皆キラキラ輝いているように感じました。
    それら全て、ひとつひとつ丁寧に楽しく読ませて頂いています。
    本当にありがとうございます。

    私自身といえば、昭和40年代後半生まれですが関東のド田舎育ちです。
    田舎ゆえに昭和30年代の面影がかろうじて息づいているような環境だったようです。
    皆様の思い出話から馬糞、天井から吊るす蝿とり紙、駄菓子屋、田んぼや畑や小川があって
    夕方までトンボをたくさん採ったり…と幼い頃の楽しかった記憶がぱっと蘇りました。
    さすがに肥溜めまでは見たことないのですが(笑)
    そういえば、小学校で「運動会は足袋がいい」と推奨する先生もいました。
    これが小学校高学年になると、周辺の田んぼにヘリコプターで農薬散布日はマスク着用で登校…等
    時代の移り変わりを感じる思い出に変わっていきます。

    ユーザーID:2606780475

  • トピ主です ありがとうございます 2

    ちなみに夫の実家は都内にありますが
    東京五輪の年に建てられたままの、古い家屋です。
    遊びにいく度、昭和の世界にタイムスリップするようで
    ノスタルジーな気分に浸れます。
    義母曰く昔はその家の二階に下宿人を住まわせていたと聞きましたが
    下宿人も現在ではあまり聞きませんね。

    懐かしい話題の中、皆様にひとつ質問してもよいでしょうか?
    ものすごく些細な事かもしれませんが
    炊飯器に保温機能がなかった時代はご飯を温めるときはどうしていたのでしょうか?
    蒸し器でしょうか?それとも冷や飯をお茶漬けですか?
    くだらなくて申し訳ないですが、ご存知の方がおられたら教えて下さると嬉しいです。

    またこの質問は別として、引き続き皆様の思い出話をお聞かせ下さい。
    どうかよろしくお願い致します。

    ユーザーID:2606780475

  • 「冷や飯」のまま食べました

    私の昭和30年代の電気炊飯器と言えば、当時は「赤いボタンのスイッチ」が1個ついているだけで、操作は極めて簡単。

    「押すだけ」

    でした。我家では後年になってタイマーを併用し、夕食後に炊飯器をセットし、翌朝5時頃に作動するようにタイマーをセットして「赤ボタン」を押していました。(操作していたのは もちろん母で私は傍らで見ていました)

    家族4人でしたから、たいていは1回炊飯すれば 朝・昼・夕 の3食分でして、朝は暖かいご飯ですが、昼・夕は冷えています。ですから冷えたまま、ちょっと固くなりかけた「冷や飯」の状態で食事しました。私は冷えて固くなったご飯のほうが歯ごたえあって好きでした。

    ただ、私は病弱でいつも食欲がなく、「ふりかけ」をかけたり、お茶つけにして 嘔吐をこらえ、泣きながら食べてました。ですから学校給食は嫌でしたね。

    「ゲゲゲの女房」で時々食卓風景が出ますね。我家もちょうどあの光景そのものでしたよ。飯台のまわりに正座して食事したものです。病弱で食欲ないから おかずなくても 貧乏とも感じなかったですね。

    ユーザーID:3422350471

  • 昭和30年代ご飯編

    何回かレスさせて頂きましたが、食べ物に関する話が多かったと自己分析していました。そこへ再びご飯の保温のお話ですので、つい罷り出てきました。

    ご飯はガスのコンロで、お釜で炊いておりました。朝と夕方と大体は二回炊きました。余ったご飯はお櫃に入れて保存し、冷めたら蒸かし器で蒸かしました。冬ならこたつの隅に入れておいて、少しは暖かかったのを食べました。冷や飯をお茶づけにすることは無かったと思います。

    小学生のころは親に言われて米を研ぎ、お釜に仕掛けて火を付けて炊きました。水は目分量でしたが、意外とうまく炊けました。炊けた後に食べ残しのコッペパンなどをご飯の上にのせておくと、蒸かしたてのパンとなってファンタスティックだったなー。

    水は昭和33年に水道が通ってからもずっと井戸水でした(今でも使っている)。オリンピックの年(昭和39年)に井戸ポンプを入れるまで、手押しポンプで頑張りました。今は水道も使っていますが、井戸水は夏は冷たく、冬は暖かいので洗車には最適です。冬場は手が冷たい時は井戸水に手を入れると暖かくなります。

    ユーザーID:3944764304

  • ご飯の保温

    もち論、炊飯器は、まだ有りませんでした。いなか(母親の実家)では、「かまど」でご飯を炊いていました。農家でしたので稲の籾殻が沢山あり、火種になります。そして、「蒔き」で炊いていました。
    うちの家では、都市ガスが引いていたので、お釜で、ご飯を炊き、炊き上がると、すぐに「おひつ」に移します。「おひつ」は、木で出来た桶のようなものです。保温力があります。木の香りが良いです。夕飯は、家族全員で、ちゃぶ台を囲んで食べるので、ご飯は残る事は、先ずなかっったですが、たまに残ると「おひつ」をかき分けて、冷やご飯のお茶漬けですね。

    ユーザーID:1609037286

  • 思いつくままに書きますと

    鉄道ではSLが普通に走っていましたし、

    カラーテレビはなく 白黒TVも無い家が多かった。

    電話も無い家が多く近所の家からの「呼び出し」も普通。

    当然、内風呂の無い家も多かった。

    木造の長屋も普通にありました。

    今は、ほとんど無くなった市電も 多くの都市にありました。

    国内線の飛行機はプロペラ機が普通だった。

    100円札が多く流通していた。

    ユーザーID:0646738792

  • いっぱいあって書ききれない!

    昭和22年生まれです。
    あの頃はTVが一般家庭にはなく、繁華街の広場の一角に備え付けられたTVを大勢の人が見に来ました。
    唯一TVのある町内の自転車屋さんに集まって、テレビを見ましたが、私が最初に見たTV番組はプロレスで、力道山が活躍している頃でした。
    TVが普及し始めたのは、当時の皇太子の結婚式がきっかけでした。

    子供の遊びは、縄跳び、まりつき、一寸飛び。紙芝居は5円玉を持って見に行きました。
    おままごとは野草を摘んだりして、お金は新聞紙を切ったものでしたね。
    人形遊びは切り抜き人形で、その後セルロイド製のキューピーちゃんが出てきましたね。

    正月には獅子舞がきましたし、飴細工も良く来ました。
    「きんぎょ〜や、きんぎょ!」「なっと、なっとう〜!」「卵はいらんかね〜」と、行商も多かったですね。
    夜になると「やきい〜も!石焼きい〜も!」

    アルミのお鍋を持って、町内のお豆腐屋さんに良く買いに行きました。
    お風呂の水は井戸から汲み上げて、毎回150回も汲み上げるのは子供の役目でした。
    残り湯で、洗濯や雑巾がけをしました。
    水道が出始めた頃「ひねるとジャー」と言っていたものです。

    ユーザーID:6607688026

  • 縁日のだっこちゃん人形

    昭和30年都内の生まれです。バスと都電が走っておりました。弟にトロリーバスもあったと言われましたが、これはよく覚えていません。

    昭和三十何年だったかまでは覚えておりませんが、だっこちゃん人形というのがすごく流行って、縁日の露店で売っておりました。欲しかったのですが、結構高かったので、買ってもらえませんでした。

    あと、東京オリンピックの為に道路整備とか進んでいたけど、信号設置が追いつかず、年から年中追突事故がある交差点がありました。今ではちゃんと信号がついています。

    家にお風呂がなく、銭湯通いしておりました。今は跡形も無くタワーマンションになってしまいましたが、富士山のペンキ絵と鯉の九谷焼の仕切り壁が見事でした。

    ファミレスは無かったけれど、父がよく家族を銀座や赤坂のレストランに連れて行ってくれました。何だか今よりずっと良い生活をしていましたね。

    ユーザーID:5742378344

  • 30年生まれです

    私が生まれたのは父が当時勤めていた会社の社宅です。社宅と言っても木造の長屋で、何とそれが数年前までまだあったので見に行ってきたんですが、こ、こんなところに住んでいたのかというようなお粗末なものでした。

    四畳半の茶の間の次が三畳間ぐらいの土間の台所で薪を燃やすようになったかまどがまだついていました。母が薪を燃やしてご飯を炊いていたのを覚えています。

    魚を焼くときは玄関の前に七輪を持ち出してウチワでばたばた扇ぎ、通りかかった近所の人が「お魚ですか、おいしそうですね」と声をかけて行きました。

    父が冷蔵庫を買ってくれたのですが、台所には置くスペースがなくて四畳半の畳の上に置いてありました。まだ冷蔵庫は珍しくて近所の人たちが見に来ました。

    夏になると六畳間に蚊帳を釣り、窓や戸を開け放って親子四人並んで寝ました。時々蚊帳の外に蛍が来てとまっていてきれいでした。

    少し大きくなると「お使い」に出されました。買い物籠を持ち、百円札をにぎりしめて近所の八百屋さんへ行きました。時々犬がお金と買い物リストを入れた買い物籠をくわえてお使いに来ていました。

    ユーザーID:0559412500

  • 昭和26年生まれです。

    ご近所のほとんどの家が貧しいという状況でした。

    でもそのなかでもわが父は新し物好きで、テレビがご近所の中では一番に入ったので、狭い我が家はご近所のご主人たちがあつまり、みんなでプロレスをみて興奮していましたね。

    冷蔵庫がない時でしたが、氷をいれたボールの中でハウスのぜライスを母が作ってくれたのがいい思い出です。

    でもなんか毎日が進歩の日々で、あれよあれよという間に冷蔵庫が、掃除機が、そうして電話機も我が家に入り込んできました。もちろん、ご近所の取次ぎもしましたよ。

    子供たちはみんな青っ洟をたらし、着る服はつぎがあてられていましたよ。でもみんな明るかった。笑い声が絶えず、子供たちは外で遊びまくっていました。

    そろばん教室に通う子供がたくさんいました。そういえば、あの貧しさの中でもわたしはピアノの教室に通っていました。家にはピアノはなく、近所のお年寄りの家のピアノを練習に使わせていただきました。そのうち、オルガンが我が家に届きました。

    父はオートバイで仕事に通っていました。母は家で編み物教室を開いていました。母はよく内職もしていました。

    それが私の小学生の記憶です。

    ユーザーID:2630158152

  • 米穀通帳が使われていた

    サザエさんの古い話を読んでいると私が生まれた昭和32年にはまだ米が配給制だったようです。
    そして60年代まで配給制が続いてその後も米屋から米を買うときは米穀通帳なるものが必要だったらしいです。ネット上で写真がありますが全然記憶にありません。1969年に自主流通制度が出来て米屋さん以外でも米が売られるようになったらしい。そう言えば当事「自主流通米」という単語がニュースで出てくるようになりました。

    ユーザーID:1691527919

  • ちょうちんブルマー知ってますか

    34年生まれです。当時の女子の体操着は「ちょうちんブルマー」でした。私の三級下の学年から普通のブルマーになり、とてもうらやましかったのを覚えています。また、私もタミーちゃんが宝物で、大きな箱(菓子箱程度)の中に、タミーちゃんと着せ替えを持って友達の家に遊びに行ってました。当時のタミーちゃんの値段は千円でした。

    ご飯の保温は、電子レンジを使っていました。でも、なんだか変なにおいがして私はあまり好きでなかったです。

    ユーザーID:8881232638

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