昭和30年代の話を聞かせてください

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  • 人前での授乳

    別トピックで「人前での授乳」というのがあって思い出しました。
    昭和30年代の田舎では、人前での授乳は当たり前のように行われていました。授乳用ケープなんていうのもありませんでした。
    農作業に行く時には赤ん坊を連れて行って、畑の脇に寝かせておき、授乳の時には畑の脇で授乳する。そこへ知り合いが通りかかっても、そのままで平気で会話するというのが普通の風景でした。

    その頃「唄子・啓助のおもろい夫婦」という番組があり、そのエンディングで、農地の中のあぜ道を夫がリヤカーを引き、その荷台に妻がすわり、授乳しているシーンがあり、赤ん坊が乳首をくわえる乳房がアップで写ったりしていました。懐かしい光景です。

    授乳ケープっていつごろから使われるようになったんでしょう。
    別トピックを見ると、今では、授乳ケープを使ってでも人前で授乳することに抵抗がある人が多いんですね。随分変わったなあと思います。(だったら授乳ケープって何のためにあるんだろう)

    ユーザーID:9906324834

  • トピ主です、ありがとうございます 3

    トピ主です。
    またレスが遅くなり申し訳ございません。
    まとめてで不躾ですが、元鬼太郎ファン様、食糧難様、Hさん様、なつ様
    私の質問に応えてくださりありがとうございました。
    そのまま冷や飯、蒸し器、こたつ、御茶漬…
    冷や飯は私結構好きなのですが、さすがに冬場冷たいままだと厳しいかも…
    でもそうか蒸し器!こたつもあるかあ〜!と納得しました。
    また電子レンジというご意見に、もうあったんだ!と驚きましたが
    ちょっと調べたら1965年から一般家庭向けに販売開始…とあるので、
    もしかしたらそれは昭和40年代の思い出かもしれませんね。

    おひつに移し変えるという言葉にものすごくときめきました。
    私は旅館やお店でしか見たことがありません。
    旅館でおひつもいまだと塗りやプラスチックで木はなかなか見ませんし。

    自主流通米という言葉は聞いたことがありますが、その背景に
    米が配給制だったことを知り驚いてます。米穀通帳という言葉も初めて聞きました。
    戦後のなごりだったのでしょうか…?
    他の食料の中でもお米は日本人の肝なのだなとしみじみ感じました。

    ユーザーID:2606780475

  • トピ主です、ありがとうございます 4

    ここからは個人間のレスになります。

    食糧難様
    手押しポンプ、都内の夫実家の側にまだあります。
    まだ水源として使用できるそうで夫実家は水道使用料を毎年支払ってるそうです。
    時々無断で勝手に使用してる人がいるそうです(笑)

    亥年のおばさん様
    風呂水を溜めるのに、井戸の汲み上げが150回!?
    お風呂に入るのだけで重労働だったのですね…頭が下がります。

    なつ様
    ちょうちんブルマー、映像でしか見たことありません。
    私の時代はぴったりした黒いブルマーでした。
    いまはハーフパンツで、これも流れのひとつなのでしょうね。

    こうして皆様のお話を聞いてみると何故すたれてしまったのかな〜と
    残念に思うモノや制度もありますね。

    私は、合理性や便利さだけを追求していくと無味乾燥なところに
    行き着いてしまうのではないかなと思うことが時々あります。

    でもこうして人生の先輩方から色々面白いお話を聞かせてもらえるのも
    PCや携帯など便利なツールがあってこそというのも事実なのですね。

    今後も多くの場所で、人と人と繋がりを大事にしたいと思います。
    ありがとうございました。

    ユーザーID:2606780475

  • 楽しい思い出は・・

    縁日ですね。月に三度、近所の商店街でありました。親に小遣いをねだり、50円貰えると、うれしかったですね。
    金魚すくいが遊びで、これはもって帰れません、5円でしたか。
    今も正月や祭りの屋台にある、ベビー○テラ、美味しくてね、よく買いました。
    卵の殻をいっぱい積み上げましてね。
    今も同じですね。つい、今も見つけると、買ってしまいます。

    遊びは、メンコ、ベーゴマ、型抜き、釘刺し、ゴムとび、缶蹴り、、stc
    学校の帰り、友達を連れ帰り、カバンを放り投げ、次の友達の家へ。。
    大勢が集まりまして、外遊びでした。
    裏道で、三角ベース等野球、ローラースケート。。
    都心に近いところでも、裏道はまだ、車は少なかったですね。

    傘の修理屋さん、鋳掛屋さん、ラオ屋さんは一度だけ、三河万歳も一度だけ、見ましたね。
    30年代初めには、正月には、獅子舞は、毎年来てました。
    松飾も、長い竹。。
    正月が終わると、竹馬です。
    その後に、物干し竿。。

    思い出しますね。

    ユーザーID:9647313419

  • 弁当箱


    全部は読んでないので。

    この話はもうでたかもですが。

    今日主人と懐かしい中学時代の話をしました。

    中学は給食でなく弁当でしたが、アルミの弁当箱でした。

    男の子はわりと深いアルミの弁当箱で女の子は薄いアルミの弁当箱でした。

    おかずは一品だけです。

    おかずない時はご飯を二段にして真ん中に海苔に醤油をつけご飯に敷き詰めその上にご飯!そして炒り卵とかおかかを敷き詰めて母がよく弁当を作ってくれました 。

    お茶はアルミ弁当箱の蓋につぎ蓋でお茶を飲みました。


    主人は田舎育ちでよくたくあんの漬け物を毎日入れて貰ったそうでボリボリ音がして恥ずかしかったそうです。

    またよく梅干しが真ん中にあり日の丸弁当でした。

    ユーザーID:9908820824

  • 戦後が大きいです

    昭和22年生まれです。

    東京大田区の町工場地帯で育ちました。
    爆撃による更地というか、工場の残骸などが沢山あって、今の子どもたちには考えられないような、
    風景の中で遊んでいました。

    だから、自動車に乗るとか、テレビが来た、冷蔵庫が来た、
    といったことを「何もないところから発展」と捉えていたのですが、
    もっと大人になってから、親たちの世代はそこそこ豊かな生活だったのが、
    戦争で無くしてしまって、それを作り直したのだ、と知りました。

    何もないところからの発展を、ロープで上がっていくようなイメージで例えたとすると、
    昭和30年代の高度経済成長の初期は、
    ゴムひもが縮むことで引っ張り上げられた、とでも言えるかと思います。

    今考えても、渋谷の宮益坂を都電が上がっていたことが不思議に思えます。
    変わっていないのは、地下鉄銀座線の駅ですね。
    天井が低いのは当時のままです。

    ユーザーID:3913389597

  • 東京オリンピック直前

    東京オリンピック(昭和39年=1964年)の直前に、首都高速道路(羽田線・昭和37年)、国産旅客機YS−11(2号機・聖火を輸送した・昭和38年)、東京モノレール(昭和39年開業)と、いっぺんに出来ました。

    東京モノレールの開業は東京オリンピック(昭和39年10月10日開会式)直前の昭和39年9月17日だそうです(調べた)から、たぶんその半年ぐらい前だったろうと思うので、新聞社が「高校生を対象に、YS−11とモノレールに乗る」という企画があって、それに応募しました。

    確か、土曜日で良い天気の日でしたが、学校があるので学校に一眼レフ(交換レンズとも)を持ちこんで、そのまま午後には参加です。

    YS−11は試作2号機ですから、航空会社は運用していない機体です。

    実に、素晴らしい思い出になっています。

    ユーザーID:3913389597

  • 運転免許

    私は昭和40年生まれですので、母に聞いた話です。
    昭和34,5年に母が運転免許を取りました。当時は国産車と外車の免許が異なっており、祖父のアメリカ車に乗って練習しようと考えていた母は、フォードで教習を受けたそうです。
    その後、現在の運転免許に切り替わったとき、外車で免許を取っていた母には、中型二輪の免許もくっついてきました。
    小柄で自転車にも乗れなかったのに。。。。

    あと、既製服が少なくて、母は自分の洋服は自分で作っていました。

    両親の実家には電話は戦前からあったと聞いていますが、私が子供の頃、昭和40年代半ばの代々木でも、近所に電話のない家はありました。
    我が家にいつも電話を借りにくるお宅がありました。
    のんびりした時代でした。

    ユーザーID:1757690555

  • 昭和33年生まれです

    皆さんのお話を読ませていただいているうちに昔がよみがえってきました。
    日ごろはすっかり忘れていました。

    おもいつくかぎり「ないないづくし」でしたね。

    夏は暑かったから外で夕すずみ。
    近所の人もみな夜出ていた。
    外で将棋している人や。
    子どもたちも外でござをひいてままごと遊び。

    ともかく家の中にいてもなにもないからよく外にでていた記憶があります。
    外に出れば誰かしらでていて遊べたし。

    水汲みは子どもの仕事。
    ポンプでくみ上げるの。

    学校では冬は石炭を小さい子どもが朝当番だとバケツにつめて教室に運んだ。重たかった。
    ミルクは脱脂粉乳。あれは本当辛かった。

    今みたいにはきこみ式のタイツがなくて
    ももまでの長い靴下を腿のところでバンドでとめているだけなのでずれることがしばしば。
    タイツがでたときは画期的と思った。

    いろいろ尽きません。とりあえずここまで。
    不便だったし辛いことも多かったけれど、なんだか懐かしいです。

    ユーザーID:6263535596

  • お豆腐やさん

    親の転勤(転職?)で琵琶湖の傍から東京に引っ越してきました。
    ほとんどのものが移動販売(自転車やリヤカーに積んだもの)だったのが、お店で買うようになりました。
    中でもお豆腐やさんの豆腐、揚げは作りたてが暖かいものと知りました。

    実は先日45年ぶりで子供の頃いた町を歩いたら、お店がまだあったのです。1昨年廃業したそうですが、大きくなったねぇと誉められました?。
    なんだか誉められたのが久しぶりのような気がして妙に嬉しかったのは、懐かしさ?歳のせい?

    トピ主さん、本当にありがとうね。

    ユーザーID:7483878389

  • 今は、スカイマークタワーですが、

    東京タワーの建設中、友人のオヤジに車で連れて行っていただきました。
    丁度、展望台辺りを作っている段階かな。
    帰り、築地に差し掛かりますと、
    嫌に渋滞してるなと、ふと見ると、
    目の前に橋が競りあがってました。

    また、神宮絵画館前に池で、
    夏になるとプールをしておりました。
    絵画館で着替え。網の袋に衣服を仕舞い、
    フックにかけるだけ。
    池は、やはり池、ゴツゴツした感じでした。

    切手収集が流行っておりまして、
    そのころ、飯田橋に逓信博物館がありまして、
    よく切手を買いにいきましたね。

    田舎(関東圏)に行きますと、農耕馬を飼っており、
    乗せてもらうのが楽しみでした。
    冬は、下駄スケートもしましたね。
    ほどなく、耕運機、テーラーって言いましたかね、
    入りまして、また、ゴトゴトと乗るのも、楽しかったですね。

    田舎の生活でうらやましかったのは、
    家族一人ひとりに、箱膳です。
    蓋を返して、食事を載せ、
    食べ終わり、洗いまして、
    箱膳に仕舞う。
    してみたかったですね。

    田舎の有線電話も懐かしい思い出です。

    ユーザーID:7905660594

  • 運動会で足袋

    昭和35年生まれです。運動会には「運動会用の足袋」がありました。
    体育会系で足の速い人は必ずとよい程、履いていました。
    なんだか、カッコ良く見えて、自分も速く走れる気がして、母に、おねだりしたものです♪
    運動会が近くなると、学校周辺の文房具屋さんや、学校指定の体操着を扱う、お店で売ってました。

    ユーザーID:3464743052

  • その頃のピアノ

    昭和33年製のピアノがウチにあります。
    中古で譲っていただいたものです。

    紹介で譲っていただいたので
    元の持ち主のことはわかりません。
    ウチのピアノはYAMAHAのU1Aというもので
    高級品ではなさそうですが
    それでもきっと高価なものだったんだと思うんです。
    このピアノを最初に買った人はどんな人なんだろう、
    どんな暮らしをしていたんだろうと気になります。

    昭和30年代初めにピアノをお持ちだった方いらっしゃいますか?

    ユーザーID:2000339907

  • 貧乏でも古き良き時代

    昭和35年田舎の生まれ。後日我家は貧乏と思っていたのですがどこも似たり寄ったり。貧乏でも和やかな良き時代だった。本当に懐かしい。
    親はお父ちゃん、お母ちゃんで、パパ,ママなんて言う子どこにもいない。父の姉夫婦が近所に住んでいて、唯一白黒テレビのある家。近所中の人が集まってプロレス見てた。近所に土木工事に出稼ぎで来てる二人組みがいて、我家の五右衛門風呂に毎日入りに来てた。母が二人のことをヨゴラとヒゲと呼んでいてプロレスのある日は一緒に見てた。五右衛門風呂はもちろん裏の山でかいた松の落ち葉と薪で沸かしたもの。竹筒の先に小さな穴があって、それで噴いて薪に火がつくようにした。5歳で私も風呂焚きの手伝いしてた。蛍が田んぼや川の横を一杯飛んでて捕まえて、でも次の朝には死んでしまう。毎朝行商のおばさん達が次々とリヤカーに野菜を一杯積んで町まで歩いて売りに行く。あのもぎたての生暖かいトマト、キュウリ等、魚屋夫婦も朝取れた魚を午前中に売りに回って来て、美味しかったなあ。農家の人たちは白い頬かむりに絣のもんぺ、あぜ道でお茶飲み赤ん坊には男集居る前で平気で乳飲ませ、仄々した時代。あのころに戻りたい。

    ユーザーID:1344295634

  • 昭和30年代の都会って「仁義なき戦い」の世界?

    当時の田舎で育ったんで、都会の状況が分かりません。ここに書き
    込んでいる人に30年代の都会育ちの人がいるようなんで、教えて下
    さい。
    統計データを見ると、昭和30年代では、今より人口が少ないのに、
    殺人事件数は今の2.5〜3倍程度となっています。

    田舎では、今より密なコミュニティの中、近所はすべて顔なじみ、
    よそ者が来ればすぐ目立つ、という状況で、今の3倍もの殺人事件
    が起きていたなんて考えられません。

    都会ではどうだったんでしょうか。
    映画の「仁義なき戦い」のモデルとなった広島抗争が起きたのは
    昭和30年代前後です。ああいった状況が全国の都会で起きていた
    のでしょうか。
    もちろんほとんどの人は平和に暮らしていたのでしょうが、危ない
    地域とか、危ない人とかあったんでしょうか。

    「そう言えば、近所のあの危なそうな人が、急に行方不明になった
    なあ」なんてことが、実際に身近で経験したりしたことがあります
    か?

    ユーザーID:9906324834

  • 『天国と地獄』の世界でした >kochiさん

    当時の横浜は黒澤明監督の映画そのままです。
    京急日ノ出町、黄金町のガード下は返還前の香港九龍にそっくり!
    伊勢佐木町から野毛に向かう吉田橋近辺はたくさんの露天で賑わっていました。

    露天はすべて川沿いのハモニカハウスに移されて廃れたし、
    場外売り場もきれいに整備されたし、
    ガード下のハウスも浄化されたし、
    返還後は九龍も更地!になったし、
    当時の面影が残っている処はもう無いと思います。

    ユーザーID:2651597243

  • のんびりした時代

    昭和35年生まれです。11歳まで都内で育ちましたが、まわりは瓦屋根の木造家屋がほとんどでした。私の実家は和洋折衷の不思議なつくりで、応接間というのがあり、親戚や知人などの訪問客が絶えずありました。応接間はそういうお客さんのお酒やたばこの匂いがついていました。昔は予告なしに皆突然、やってくるのが当たり前でした。別に用事があるというわけではなく、ただ話しに来るんです。中には長々と話し込む人もいましたが、大体の人は、一通り話が済むとかえって行きました。郊外に引っ越してから、行き来に不便になったためか、そういうお客さんは来なくなりました。今から考えるとのんびりした時代ですよね。

    ユーザーID:0643505603

  • 昭和34年生まれです。

    父が新しい物好きだったせいか、田舎にも関わらず生まれたときから
    テレビ・冷蔵庫・洗濯機があったそうです。

    テレビは、ブラウン管の画面の下に細い4本の足がついていました。
    直接画面を見ると眼が悪くなるとかでカバー(?)が掛けてありました。
    近所の人が、相撲やプロレスを見に来たそうです。
    (私が物心付いた頃には、来ていたことはなかったですが…)

    冷蔵庫は確か木製だったような気がします。
    扉には取っ手が付いていて、中にはサナがあってその上に氷をのせて
    冷やしていたような記憶があります。
    (毎日、氷やさんが届けてくれていたのではないかな?)

    洗濯機は、洗いのみの一層式で洗濯層の横にローラーがついていて
    洗濯物を挟んでローラーのハンドルを回して絞るようなものでした。

    つい数年前まであったのですが、当時の扇風機は3枚羽根でした。

    皆さまの懐かしいレスを拝見して、亡母と話したことを思い出しました。

    ユーザーID:3880649781

  • 昭和35年生まれです

    内風呂の、すのこの下に『カマドウマ』がウロチョロしてましたっけ。

    どなかかのレスにも有りましたが、その頃は水洗便所は少数派。
    なので、近所に汲み取り屋さんが時々来ました。
    運悪くお客様が来ていて、きどった店屋ものなんかとっていた日にゃ、最悪で‥‥。
    ケーキだって あの匂いの中では、美味しくないし。
    当時の窓枠は木製で鍵も木枠にくっついていて、真鍮製だったかな?
    ぐるぐる回す式の。窓を閉めても、とても外部の匂いは防ぎようがなかったです。

    あと、ケーキと言えば、誕生日とクリスマスだけは、近所のケーキ屋さんでケーキを買って貰えました。
    私が4月生まれなので、ちゃんと苺が乗っかってました。
    所が、妹は6月生まれなので、上にメロン・中身は黄桃がサンドしてありました。
    妹は「お姉ちゃんだけ、なんで苺なの?」と文句タラタラ。
    今はいい時代になりましたね。

    車も少なかったので、排気ガスを「いい匂いがするね」とわざわざ吸ってました。今では考えられないですね。

    ユーザーID:5102455489

  • 追加です。多少40年代が入っているかも。

    学校のトイレの怪談で一番ポピュラーだったのは、赤い手と青い手が出てくる、と言う話でした。
    当時は溜める式トイレだったので、真っ暗な穴に赤い手・青い手に引きずり込まれたらどうしようかと、恐怖も半端ではなかったです。

    デパートには、必ず食堂があり、一家一緒に入って和洋中華を注文することが出来ました。
    最初に券を買うんです。
    ソフト・クリームにはスタンド式の台が、バニラアイスクリームには角っぽいスプーンとウェハースが必ず付いて来ました。
    美味しかったと記憶しています。
    スパゲッテイは、ミートソースにグリンピースが乗ってました。

    こたつの火で、タイツの先っちょをよく焦がして叱られました。

    昭和は遠くなってしまったんですねえ。

    ユーザーID:5102455489

  • 携帯のない時代でよかったな

    携帯(メール)がない時代でよかったなぁ☆とつくづく思います。
    恋愛に関しても、携帯がなかったからであろう生まれた二人のドラマも沢山あっただろうし、また、その二人に良い距離感が保てて続いたお付き合いもあったでしょう。
    ナチュラルでしたよね。
    すごく便利で簡単な反面、いろんな人間関係に、影響してますものね。
    昔の歌(歌詞)は生まれ方が違うから、今のとはやっぱり違う…、カバー曲が流行るのもわかる気がする…。

    ユーザーID:3269895951

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