昭和30年代の話を聞かせてください

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トピ主のみ5

こもごもこ

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  • 携帯のない時代でよかったな

    携帯(メール)がない時代でよかったなぁ☆とつくづく思います。
    恋愛に関しても、携帯がなかったからであろう生まれた二人のドラマも沢山あっただろうし、また、その二人に良い距離感が保てて続いたお付き合いもあったでしょう。
    ナチュラルでしたよね。
    すごく便利で簡単な反面、いろんな人間関係に、影響してますものね。
    昔の歌(歌詞)は生まれ方が違うから、今のとはやっぱり違う…、カバー曲が流行るのもわかる気がする…。

    ユーザーID:3269895951

  • 追加です。多少40年代が入っているかも。

    学校のトイレの怪談で一番ポピュラーだったのは、赤い手と青い手が出てくる、と言う話でした。
    当時は溜める式トイレだったので、真っ暗な穴に赤い手・青い手に引きずり込まれたらどうしようかと、恐怖も半端ではなかったです。

    デパートには、必ず食堂があり、一家一緒に入って和洋中華を注文することが出来ました。
    最初に券を買うんです。
    ソフト・クリームにはスタンド式の台が、バニラアイスクリームには角っぽいスプーンとウェハースが必ず付いて来ました。
    美味しかったと記憶しています。
    スパゲッテイは、ミートソースにグリンピースが乗ってました。

    こたつの火で、タイツの先っちょをよく焦がして叱られました。

    昭和は遠くなってしまったんですねえ。

    ユーザーID:5102455489

  • 昭和35年生まれです

    内風呂の、すのこの下に『カマドウマ』がウロチョロしてましたっけ。

    どなかかのレスにも有りましたが、その頃は水洗便所は少数派。
    なので、近所に汲み取り屋さんが時々来ました。
    運悪くお客様が来ていて、きどった店屋ものなんかとっていた日にゃ、最悪で‥‥。
    ケーキだって あの匂いの中では、美味しくないし。
    当時の窓枠は木製で鍵も木枠にくっついていて、真鍮製だったかな?
    ぐるぐる回す式の。窓を閉めても、とても外部の匂いは防ぎようがなかったです。

    あと、ケーキと言えば、誕生日とクリスマスだけは、近所のケーキ屋さんでケーキを買って貰えました。
    私が4月生まれなので、ちゃんと苺が乗っかってました。
    所が、妹は6月生まれなので、上にメロン・中身は黄桃がサンドしてありました。
    妹は「お姉ちゃんだけ、なんで苺なの?」と文句タラタラ。
    今はいい時代になりましたね。

    車も少なかったので、排気ガスを「いい匂いがするね」とわざわざ吸ってました。今では考えられないですね。

    ユーザーID:5102455489

  • 昭和34年生まれです。

    父が新しい物好きだったせいか、田舎にも関わらず生まれたときから
    テレビ・冷蔵庫・洗濯機があったそうです。

    テレビは、ブラウン管の画面の下に細い4本の足がついていました。
    直接画面を見ると眼が悪くなるとかでカバー(?)が掛けてありました。
    近所の人が、相撲やプロレスを見に来たそうです。
    (私が物心付いた頃には、来ていたことはなかったですが…)

    冷蔵庫は確か木製だったような気がします。
    扉には取っ手が付いていて、中にはサナがあってその上に氷をのせて
    冷やしていたような記憶があります。
    (毎日、氷やさんが届けてくれていたのではないかな?)

    洗濯機は、洗いのみの一層式で洗濯層の横にローラーがついていて
    洗濯物を挟んでローラーのハンドルを回して絞るようなものでした。

    つい数年前まであったのですが、当時の扇風機は3枚羽根でした。

    皆さまの懐かしいレスを拝見して、亡母と話したことを思い出しました。

    ユーザーID:3880649781

  • のんびりした時代

    昭和35年生まれです。11歳まで都内で育ちましたが、まわりは瓦屋根の木造家屋がほとんどでした。私の実家は和洋折衷の不思議なつくりで、応接間というのがあり、親戚や知人などの訪問客が絶えずありました。応接間はそういうお客さんのお酒やたばこの匂いがついていました。昔は予告なしに皆突然、やってくるのが当たり前でした。別に用事があるというわけではなく、ただ話しに来るんです。中には長々と話し込む人もいましたが、大体の人は、一通り話が済むとかえって行きました。郊外に引っ越してから、行き来に不便になったためか、そういうお客さんは来なくなりました。今から考えるとのんびりした時代ですよね。

    ユーザーID:0643505603

  • 『天国と地獄』の世界でした >kochiさん

    当時の横浜は黒澤明監督の映画そのままです。
    京急日ノ出町、黄金町のガード下は返還前の香港九龍にそっくり!
    伊勢佐木町から野毛に向かう吉田橋近辺はたくさんの露天で賑わっていました。

    露天はすべて川沿いのハモニカハウスに移されて廃れたし、
    場外売り場もきれいに整備されたし、
    ガード下のハウスも浄化されたし、
    返還後は九龍も更地!になったし、
    当時の面影が残っている処はもう無いと思います。

    ユーザーID:2651597243

  • 昭和30年代の都会って「仁義なき戦い」の世界?

    当時の田舎で育ったんで、都会の状況が分かりません。ここに書き
    込んでいる人に30年代の都会育ちの人がいるようなんで、教えて下
    さい。
    統計データを見ると、昭和30年代では、今より人口が少ないのに、
    殺人事件数は今の2.5〜3倍程度となっています。

    田舎では、今より密なコミュニティの中、近所はすべて顔なじみ、
    よそ者が来ればすぐ目立つ、という状況で、今の3倍もの殺人事件
    が起きていたなんて考えられません。

    都会ではどうだったんでしょうか。
    映画の「仁義なき戦い」のモデルとなった広島抗争が起きたのは
    昭和30年代前後です。ああいった状況が全国の都会で起きていた
    のでしょうか。
    もちろんほとんどの人は平和に暮らしていたのでしょうが、危ない
    地域とか、危ない人とかあったんでしょうか。

    「そう言えば、近所のあの危なそうな人が、急に行方不明になった
    なあ」なんてことが、実際に身近で経験したりしたことがあります
    か?

    ユーザーID:9906324834

  • 貧乏でも古き良き時代

    昭和35年田舎の生まれ。後日我家は貧乏と思っていたのですがどこも似たり寄ったり。貧乏でも和やかな良き時代だった。本当に懐かしい。
    親はお父ちゃん、お母ちゃんで、パパ,ママなんて言う子どこにもいない。父の姉夫婦が近所に住んでいて、唯一白黒テレビのある家。近所中の人が集まってプロレス見てた。近所に土木工事に出稼ぎで来てる二人組みがいて、我家の五右衛門風呂に毎日入りに来てた。母が二人のことをヨゴラとヒゲと呼んでいてプロレスのある日は一緒に見てた。五右衛門風呂はもちろん裏の山でかいた松の落ち葉と薪で沸かしたもの。竹筒の先に小さな穴があって、それで噴いて薪に火がつくようにした。5歳で私も風呂焚きの手伝いしてた。蛍が田んぼや川の横を一杯飛んでて捕まえて、でも次の朝には死んでしまう。毎朝行商のおばさん達が次々とリヤカーに野菜を一杯積んで町まで歩いて売りに行く。あのもぎたての生暖かいトマト、キュウリ等、魚屋夫婦も朝取れた魚を午前中に売りに回って来て、美味しかったなあ。農家の人たちは白い頬かむりに絣のもんぺ、あぜ道でお茶飲み赤ん坊には男集居る前で平気で乳飲ませ、仄々した時代。あのころに戻りたい。

    ユーザーID:1344295634

  • その頃のピアノ

    昭和33年製のピアノがウチにあります。
    中古で譲っていただいたものです。

    紹介で譲っていただいたので
    元の持ち主のことはわかりません。
    ウチのピアノはYAMAHAのU1Aというもので
    高級品ではなさそうですが
    それでもきっと高価なものだったんだと思うんです。
    このピアノを最初に買った人はどんな人なんだろう、
    どんな暮らしをしていたんだろうと気になります。

    昭和30年代初めにピアノをお持ちだった方いらっしゃいますか?

    ユーザーID:2000339907

  • 運動会で足袋

    昭和35年生まれです。運動会には「運動会用の足袋」がありました。
    体育会系で足の速い人は必ずとよい程、履いていました。
    なんだか、カッコ良く見えて、自分も速く走れる気がして、母に、おねだりしたものです♪
    運動会が近くなると、学校周辺の文房具屋さんや、学校指定の体操着を扱う、お店で売ってました。

    ユーザーID:3464743052

  • 今は、スカイマークタワーですが、

    東京タワーの建設中、友人のオヤジに車で連れて行っていただきました。
    丁度、展望台辺りを作っている段階かな。
    帰り、築地に差し掛かりますと、
    嫌に渋滞してるなと、ふと見ると、
    目の前に橋が競りあがってました。

    また、神宮絵画館前に池で、
    夏になるとプールをしておりました。
    絵画館で着替え。網の袋に衣服を仕舞い、
    フックにかけるだけ。
    池は、やはり池、ゴツゴツした感じでした。

    切手収集が流行っておりまして、
    そのころ、飯田橋に逓信博物館がありまして、
    よく切手を買いにいきましたね。

    田舎(関東圏)に行きますと、農耕馬を飼っており、
    乗せてもらうのが楽しみでした。
    冬は、下駄スケートもしましたね。
    ほどなく、耕運機、テーラーって言いましたかね、
    入りまして、また、ゴトゴトと乗るのも、楽しかったですね。

    田舎の生活でうらやましかったのは、
    家族一人ひとりに、箱膳です。
    蓋を返して、食事を載せ、
    食べ終わり、洗いまして、
    箱膳に仕舞う。
    してみたかったですね。

    田舎の有線電話も懐かしい思い出です。

    ユーザーID:7905660594

  • お豆腐やさん

    親の転勤(転職?)で琵琶湖の傍から東京に引っ越してきました。
    ほとんどのものが移動販売(自転車やリヤカーに積んだもの)だったのが、お店で買うようになりました。
    中でもお豆腐やさんの豆腐、揚げは作りたてが暖かいものと知りました。

    実は先日45年ぶりで子供の頃いた町を歩いたら、お店がまだあったのです。1昨年廃業したそうですが、大きくなったねぇと誉められました?。
    なんだか誉められたのが久しぶりのような気がして妙に嬉しかったのは、懐かしさ?歳のせい?

    トピ主さん、本当にありがとうね。

    ユーザーID:7483878389

  • 昭和33年生まれです

    皆さんのお話を読ませていただいているうちに昔がよみがえってきました。
    日ごろはすっかり忘れていました。

    おもいつくかぎり「ないないづくし」でしたね。

    夏は暑かったから外で夕すずみ。
    近所の人もみな夜出ていた。
    外で将棋している人や。
    子どもたちも外でござをひいてままごと遊び。

    ともかく家の中にいてもなにもないからよく外にでていた記憶があります。
    外に出れば誰かしらでていて遊べたし。

    水汲みは子どもの仕事。
    ポンプでくみ上げるの。

    学校では冬は石炭を小さい子どもが朝当番だとバケツにつめて教室に運んだ。重たかった。
    ミルクは脱脂粉乳。あれは本当辛かった。

    今みたいにはきこみ式のタイツがなくて
    ももまでの長い靴下を腿のところでバンドでとめているだけなのでずれることがしばしば。
    タイツがでたときは画期的と思った。

    いろいろ尽きません。とりあえずここまで。
    不便だったし辛いことも多かったけれど、なんだか懐かしいです。

    ユーザーID:6263535596

  • 運転免許

    私は昭和40年生まれですので、母に聞いた話です。
    昭和34,5年に母が運転免許を取りました。当時は国産車と外車の免許が異なっており、祖父のアメリカ車に乗って練習しようと考えていた母は、フォードで教習を受けたそうです。
    その後、現在の運転免許に切り替わったとき、外車で免許を取っていた母には、中型二輪の免許もくっついてきました。
    小柄で自転車にも乗れなかったのに。。。。

    あと、既製服が少なくて、母は自分の洋服は自分で作っていました。

    両親の実家には電話は戦前からあったと聞いていますが、私が子供の頃、昭和40年代半ばの代々木でも、近所に電話のない家はありました。
    我が家にいつも電話を借りにくるお宅がありました。
    のんびりした時代でした。

    ユーザーID:1757690555

  • 東京オリンピック直前

    東京オリンピック(昭和39年=1964年)の直前に、首都高速道路(羽田線・昭和37年)、国産旅客機YS−11(2号機・聖火を輸送した・昭和38年)、東京モノレール(昭和39年開業)と、いっぺんに出来ました。

    東京モノレールの開業は東京オリンピック(昭和39年10月10日開会式)直前の昭和39年9月17日だそうです(調べた)から、たぶんその半年ぐらい前だったろうと思うので、新聞社が「高校生を対象に、YS−11とモノレールに乗る」という企画があって、それに応募しました。

    確か、土曜日で良い天気の日でしたが、学校があるので学校に一眼レフ(交換レンズとも)を持ちこんで、そのまま午後には参加です。

    YS−11は試作2号機ですから、航空会社は運用していない機体です。

    実に、素晴らしい思い出になっています。

    ユーザーID:3913389597

  • 戦後が大きいです

    昭和22年生まれです。

    東京大田区の町工場地帯で育ちました。
    爆撃による更地というか、工場の残骸などが沢山あって、今の子どもたちには考えられないような、
    風景の中で遊んでいました。

    だから、自動車に乗るとか、テレビが来た、冷蔵庫が来た、
    といったことを「何もないところから発展」と捉えていたのですが、
    もっと大人になってから、親たちの世代はそこそこ豊かな生活だったのが、
    戦争で無くしてしまって、それを作り直したのだ、と知りました。

    何もないところからの発展を、ロープで上がっていくようなイメージで例えたとすると、
    昭和30年代の高度経済成長の初期は、
    ゴムひもが縮むことで引っ張り上げられた、とでも言えるかと思います。

    今考えても、渋谷の宮益坂を都電が上がっていたことが不思議に思えます。
    変わっていないのは、地下鉄銀座線の駅ですね。
    天井が低いのは当時のままです。

    ユーザーID:3913389597

  • 弁当箱


    全部は読んでないので。

    この話はもうでたかもですが。

    今日主人と懐かしい中学時代の話をしました。

    中学は給食でなく弁当でしたが、アルミの弁当箱でした。

    男の子はわりと深いアルミの弁当箱で女の子は薄いアルミの弁当箱でした。

    おかずは一品だけです。

    おかずない時はご飯を二段にして真ん中に海苔に醤油をつけご飯に敷き詰めその上にご飯!そして炒り卵とかおかかを敷き詰めて母がよく弁当を作ってくれました 。

    お茶はアルミ弁当箱の蓋につぎ蓋でお茶を飲みました。


    主人は田舎育ちでよくたくあんの漬け物を毎日入れて貰ったそうでボリボリ音がして恥ずかしかったそうです。

    またよく梅干しが真ん中にあり日の丸弁当でした。

    ユーザーID:9908820824

  • 楽しい思い出は・・

    縁日ですね。月に三度、近所の商店街でありました。親に小遣いをねだり、50円貰えると、うれしかったですね。
    金魚すくいが遊びで、これはもって帰れません、5円でしたか。
    今も正月や祭りの屋台にある、ベビー○テラ、美味しくてね、よく買いました。
    卵の殻をいっぱい積み上げましてね。
    今も同じですね。つい、今も見つけると、買ってしまいます。

    遊びは、メンコ、ベーゴマ、型抜き、釘刺し、ゴムとび、缶蹴り、、stc
    学校の帰り、友達を連れ帰り、カバンを放り投げ、次の友達の家へ。。
    大勢が集まりまして、外遊びでした。
    裏道で、三角ベース等野球、ローラースケート。。
    都心に近いところでも、裏道はまだ、車は少なかったですね。

    傘の修理屋さん、鋳掛屋さん、ラオ屋さんは一度だけ、三河万歳も一度だけ、見ましたね。
    30年代初めには、正月には、獅子舞は、毎年来てました。
    松飾も、長い竹。。
    正月が終わると、竹馬です。
    その後に、物干し竿。。

    思い出しますね。

    ユーザーID:9647313419

  • トピ主です、ありがとうございます 4

    ここからは個人間のレスになります。

    食糧難様
    手押しポンプ、都内の夫実家の側にまだあります。
    まだ水源として使用できるそうで夫実家は水道使用料を毎年支払ってるそうです。
    時々無断で勝手に使用してる人がいるそうです(笑)

    亥年のおばさん様
    風呂水を溜めるのに、井戸の汲み上げが150回!?
    お風呂に入るのだけで重労働だったのですね…頭が下がります。

    なつ様
    ちょうちんブルマー、映像でしか見たことありません。
    私の時代はぴったりした黒いブルマーでした。
    いまはハーフパンツで、これも流れのひとつなのでしょうね。

    こうして皆様のお話を聞いてみると何故すたれてしまったのかな〜と
    残念に思うモノや制度もありますね。

    私は、合理性や便利さだけを追求していくと無味乾燥なところに
    行き着いてしまうのではないかなと思うことが時々あります。

    でもこうして人生の先輩方から色々面白いお話を聞かせてもらえるのも
    PCや携帯など便利なツールがあってこそというのも事実なのですね。

    今後も多くの場所で、人と人と繋がりを大事にしたいと思います。
    ありがとうございました。

    ユーザーID:2606780475

  • トピ主です、ありがとうございます 3

    トピ主です。
    またレスが遅くなり申し訳ございません。
    まとめてで不躾ですが、元鬼太郎ファン様、食糧難様、Hさん様、なつ様
    私の質問に応えてくださりありがとうございました。
    そのまま冷や飯、蒸し器、こたつ、御茶漬…
    冷や飯は私結構好きなのですが、さすがに冬場冷たいままだと厳しいかも…
    でもそうか蒸し器!こたつもあるかあ〜!と納得しました。
    また電子レンジというご意見に、もうあったんだ!と驚きましたが
    ちょっと調べたら1965年から一般家庭向けに販売開始…とあるので、
    もしかしたらそれは昭和40年代の思い出かもしれませんね。

    おひつに移し変えるという言葉にものすごくときめきました。
    私は旅館やお店でしか見たことがありません。
    旅館でおひつもいまだと塗りやプラスチックで木はなかなか見ませんし。

    自主流通米という言葉は聞いたことがありますが、その背景に
    米が配給制だったことを知り驚いてます。米穀通帳という言葉も初めて聞きました。
    戦後のなごりだったのでしょうか…?
    他の食料の中でもお米は日本人の肝なのだなとしみじみ感じました。

    ユーザーID:2606780475

  • 人前での授乳

    別トピックで「人前での授乳」というのがあって思い出しました。
    昭和30年代の田舎では、人前での授乳は当たり前のように行われていました。授乳用ケープなんていうのもありませんでした。
    農作業に行く時には赤ん坊を連れて行って、畑の脇に寝かせておき、授乳の時には畑の脇で授乳する。そこへ知り合いが通りかかっても、そのままで平気で会話するというのが普通の風景でした。

    その頃「唄子・啓助のおもろい夫婦」という番組があり、そのエンディングで、農地の中のあぜ道を夫がリヤカーを引き、その荷台に妻がすわり、授乳しているシーンがあり、赤ん坊が乳首をくわえる乳房がアップで写ったりしていました。懐かしい光景です。

    授乳ケープっていつごろから使われるようになったんでしょう。
    別トピックを見ると、今では、授乳ケープを使ってでも人前で授乳することに抵抗がある人が多いんですね。随分変わったなあと思います。(だったら授乳ケープって何のためにあるんだろう)

    ユーザーID:9906324834

  • ちょうちんブルマー知ってますか

    34年生まれです。当時の女子の体操着は「ちょうちんブルマー」でした。私の三級下の学年から普通のブルマーになり、とてもうらやましかったのを覚えています。また、私もタミーちゃんが宝物で、大きな箱(菓子箱程度)の中に、タミーちゃんと着せ替えを持って友達の家に遊びに行ってました。当時のタミーちゃんの値段は千円でした。

    ご飯の保温は、電子レンジを使っていました。でも、なんだか変なにおいがして私はあまり好きでなかったです。

    ユーザーID:8881232638

  • 米穀通帳が使われていた

    サザエさんの古い話を読んでいると私が生まれた昭和32年にはまだ米が配給制だったようです。
    そして60年代まで配給制が続いてその後も米屋から米を買うときは米穀通帳なるものが必要だったらしいです。ネット上で写真がありますが全然記憶にありません。1969年に自主流通制度が出来て米屋さん以外でも米が売られるようになったらしい。そう言えば当事「自主流通米」という単語がニュースで出てくるようになりました。

    ユーザーID:1691527919

  • 昭和26年生まれです。

    ご近所のほとんどの家が貧しいという状況でした。

    でもそのなかでもわが父は新し物好きで、テレビがご近所の中では一番に入ったので、狭い我が家はご近所のご主人たちがあつまり、みんなでプロレスをみて興奮していましたね。

    冷蔵庫がない時でしたが、氷をいれたボールの中でハウスのぜライスを母が作ってくれたのがいい思い出です。

    でもなんか毎日が進歩の日々で、あれよあれよという間に冷蔵庫が、掃除機が、そうして電話機も我が家に入り込んできました。もちろん、ご近所の取次ぎもしましたよ。

    子供たちはみんな青っ洟をたらし、着る服はつぎがあてられていましたよ。でもみんな明るかった。笑い声が絶えず、子供たちは外で遊びまくっていました。

    そろばん教室に通う子供がたくさんいました。そういえば、あの貧しさの中でもわたしはピアノの教室に通っていました。家にはピアノはなく、近所のお年寄りの家のピアノを練習に使わせていただきました。そのうち、オルガンが我が家に届きました。

    父はオートバイで仕事に通っていました。母は家で編み物教室を開いていました。母はよく内職もしていました。

    それが私の小学生の記憶です。

    ユーザーID:2630158152

  • 30年生まれです

    私が生まれたのは父が当時勤めていた会社の社宅です。社宅と言っても木造の長屋で、何とそれが数年前までまだあったので見に行ってきたんですが、こ、こんなところに住んでいたのかというようなお粗末なものでした。

    四畳半の茶の間の次が三畳間ぐらいの土間の台所で薪を燃やすようになったかまどがまだついていました。母が薪を燃やしてご飯を炊いていたのを覚えています。

    魚を焼くときは玄関の前に七輪を持ち出してウチワでばたばた扇ぎ、通りかかった近所の人が「お魚ですか、おいしそうですね」と声をかけて行きました。

    父が冷蔵庫を買ってくれたのですが、台所には置くスペースがなくて四畳半の畳の上に置いてありました。まだ冷蔵庫は珍しくて近所の人たちが見に来ました。

    夏になると六畳間に蚊帳を釣り、窓や戸を開け放って親子四人並んで寝ました。時々蚊帳の外に蛍が来てとまっていてきれいでした。

    少し大きくなると「お使い」に出されました。買い物籠を持ち、百円札をにぎりしめて近所の八百屋さんへ行きました。時々犬がお金と買い物リストを入れた買い物籠をくわえてお使いに来ていました。

    ユーザーID:0559412500

  • 縁日のだっこちゃん人形

    昭和30年都内の生まれです。バスと都電が走っておりました。弟にトロリーバスもあったと言われましたが、これはよく覚えていません。

    昭和三十何年だったかまでは覚えておりませんが、だっこちゃん人形というのがすごく流行って、縁日の露店で売っておりました。欲しかったのですが、結構高かったので、買ってもらえませんでした。

    あと、東京オリンピックの為に道路整備とか進んでいたけど、信号設置が追いつかず、年から年中追突事故がある交差点がありました。今ではちゃんと信号がついています。

    家にお風呂がなく、銭湯通いしておりました。今は跡形も無くタワーマンションになってしまいましたが、富士山のペンキ絵と鯉の九谷焼の仕切り壁が見事でした。

    ファミレスは無かったけれど、父がよく家族を銀座や赤坂のレストランに連れて行ってくれました。何だか今よりずっと良い生活をしていましたね。

    ユーザーID:5742378344

  • いっぱいあって書ききれない!

    昭和22年生まれです。
    あの頃はTVが一般家庭にはなく、繁華街の広場の一角に備え付けられたTVを大勢の人が見に来ました。
    唯一TVのある町内の自転車屋さんに集まって、テレビを見ましたが、私が最初に見たTV番組はプロレスで、力道山が活躍している頃でした。
    TVが普及し始めたのは、当時の皇太子の結婚式がきっかけでした。

    子供の遊びは、縄跳び、まりつき、一寸飛び。紙芝居は5円玉を持って見に行きました。
    おままごとは野草を摘んだりして、お金は新聞紙を切ったものでしたね。
    人形遊びは切り抜き人形で、その後セルロイド製のキューピーちゃんが出てきましたね。

    正月には獅子舞がきましたし、飴細工も良く来ました。
    「きんぎょ〜や、きんぎょ!」「なっと、なっとう〜!」「卵はいらんかね〜」と、行商も多かったですね。
    夜になると「やきい〜も!石焼きい〜も!」

    アルミのお鍋を持って、町内のお豆腐屋さんに良く買いに行きました。
    お風呂の水は井戸から汲み上げて、毎回150回も汲み上げるのは子供の役目でした。
    残り湯で、洗濯や雑巾がけをしました。
    水道が出始めた頃「ひねるとジャー」と言っていたものです。

    ユーザーID:6607688026

  • 思いつくままに書きますと

    鉄道ではSLが普通に走っていましたし、

    カラーテレビはなく 白黒TVも無い家が多かった。

    電話も無い家が多く近所の家からの「呼び出し」も普通。

    当然、内風呂の無い家も多かった。

    木造の長屋も普通にありました。

    今は、ほとんど無くなった市電も 多くの都市にありました。

    国内線の飛行機はプロペラ機が普通だった。

    100円札が多く流通していた。

    ユーザーID:0646738792

  • ご飯の保温

    もち論、炊飯器は、まだ有りませんでした。いなか(母親の実家)では、「かまど」でご飯を炊いていました。農家でしたので稲の籾殻が沢山あり、火種になります。そして、「蒔き」で炊いていました。
    うちの家では、都市ガスが引いていたので、お釜で、ご飯を炊き、炊き上がると、すぐに「おひつ」に移します。「おひつ」は、木で出来た桶のようなものです。保温力があります。木の香りが良いです。夕飯は、家族全員で、ちゃぶ台を囲んで食べるので、ご飯は残る事は、先ずなかっったですが、たまに残ると「おひつ」をかき分けて、冷やご飯のお茶漬けですね。

    ユーザーID:1609037286

  • 昭和30年代ご飯編

    何回かレスさせて頂きましたが、食べ物に関する話が多かったと自己分析していました。そこへ再びご飯の保温のお話ですので、つい罷り出てきました。

    ご飯はガスのコンロで、お釜で炊いておりました。朝と夕方と大体は二回炊きました。余ったご飯はお櫃に入れて保存し、冷めたら蒸かし器で蒸かしました。冬ならこたつの隅に入れておいて、少しは暖かかったのを食べました。冷や飯をお茶づけにすることは無かったと思います。

    小学生のころは親に言われて米を研ぎ、お釜に仕掛けて火を付けて炊きました。水は目分量でしたが、意外とうまく炊けました。炊けた後に食べ残しのコッペパンなどをご飯の上にのせておくと、蒸かしたてのパンとなってファンタスティックだったなー。

    水は昭和33年に水道が通ってからもずっと井戸水でした(今でも使っている)。オリンピックの年(昭和39年)に井戸ポンプを入れるまで、手押しポンプで頑張りました。今は水道も使っていますが、井戸水は夏は冷たく、冬は暖かいので洗車には最適です。冬場は手が冷たい時は井戸水に手を入れると暖かくなります。

    ユーザーID:3944764304

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