幕末、維新の功労者は?

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  • 皆外国の脅威を認識していた

    もともと朝敵などどこにもいないのに主導権争いで創り出し、
    「勝てば官軍」(勝った方が官軍)という言葉も出来た。

    ユーザーID:5884458359

  • とりあえず

     がちゃがちゃやってる連中に不平不満ももらさず生活してた庶民

    ユーザーID:7358073328

  • 単なる攘夷派では無かった

    吉田松陰の偉い点は、単純な排外思想に凝り固まった攘夷派ではなく
    欧米の知識、特に政治システムなんかをよく研究していた点にあるでしょう。
    ナポレオンやリンカーンが庶民の家の出身であることを知った彼は
    「草莽崛起」なる言葉を好んで使用しました。草莽とは名も無き民
    と言う意味です。

    彼の薫陶を受けた高杉晋作は上海に公用出張した折、西洋列強が
    清国の領土を「租借」している実態をよく観察しました。
    後に「長州戦争」で西洋列強が、賠償として彦島の租借を主張したのを
    頑として拒絶します。彼の上海での経験が役に立ちました。
    カネを惜しんでこれを受け入れていたら、彦島は香港のようになったかも
    知れません。夭折したのが惜しまれます。

    ユーザーID:1272724189

  • 勝てば、官軍!

    歴史は、全て、『勝った者』からの視線で語られる。

    トピ主さんが例の挙げられた人物も、『勝った側』の人物です。

    もし、戊辰戦争で、薩長側が負けていたならば、『国賊』と

    なっていたかもしれません。

    土方歳三らが、新幕府(?)側の要職に就いていた可能性も

    あります。

    歴史上では、功労者と反逆者は、紙一重です。

    ユーザーID:1907755422

  • 逆説的にみれば

    明治維新の軍事的衝突が、日本の軍隊の近代化につながったと思います。

    初めのころの戦国時代さながらの戦いから、双方とも西洋から莫大な銃器を購入して軍備を強化し、実戦により、近代戦を学んだと思います。

    長州の奇兵隊同様に、旧幕軍も農民兵や猟師も戦闘に参加しました。これが後の徴兵制につながったと思います。
    一般民の兵隊ができれば、武士は不要になります。最後は旧武士集団の西郷軍と旧武士と一般民の混合部隊が衝突し、旧武士集団が消滅しました。

    民衆も平々凡々と生きていたわけではありません。地方では一揆が頻繁に起きております。

    ユーザーID:0990587614

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  • 維新は正しいことだったのかしら?

    維新の功労者っていわれても、勝てば官軍ってやつですよね。
    でもわたし、小学生の頃から先生には言えないことがあったんです。
    尊皇攘夷をふりまわしてさんざん暴れまわったくせに、いざとなったらイギリスと組んで幕府を倒すって矛盾じゃない?最初から幕府の言ってることのほうが正しかったんじゃないの?ってね。
    薩長ヒーローの歴史観の先生がまともに答えられないのは分かりきってたんで、なにも言いませんでした。が、わたし、ひっそり井伊直弼が一番賢くてまともで目先のきく人だと思ってました。
    このとき、幕府が政権を握ったままなら、その後の戦争への突入も違った形になったのではないかと思ってて、なんでも力任せのドンパチで政権とったから、勝手に戦争を拡大していってのでは?と、やはり今でも思うんです。
    歴史好きの小町さんたちは、そんな風に思われる方ないんでしょうか。

    ユーザーID:8006733561

  • 私は

    15代将軍 徳川慶喜だと思う。

    ユーザーID:9109534006

  • 矛盾ではないと思います

    薩摩は「薩英戦争」、長州は「下関戦争」で実際に西洋と戦って歯が立たないことが分かったのです。

    その前には、ロシアの軍艦が対馬に居座り、母港化をしようとしました。このときも日本は追い出すことができず、イギリスの軍艦に助けてもらい、ようやく追い出しました。

    ユーザーID:0990587614

  • 総合で勝海舟に一票かな

    西郷隆盛は元々、島津斉彬の門人とも言うべき存在で佐幕派でしたが、倒幕に転じたのは他ならぬ勝海舟のインスパイアからでした。薩長同盟の立役者坂本龍馬も勝海舟の弟子です。薩長の黒幕がイギリスだと見抜いた上で英国行使パークスに「江戸を火の海にすることも辞さない」と胃ってブラフをしかけたのも勝だと言われています。自分をあれほど嫌って冷遇していた徳川慶喜の為、助命工作を事実上成功させ(最悪の場合は亡命工作まで考えていたとか)八面六臂の大活躍。幕末の日本の一時期は間違いなく勝海舟の描いた筋書き通りに旋回していたと思います。

     何人か挙げられていた大村益次郎も大好きなのですが、彼は純粋な軍事技術者であり過ぎ外向性や政治的な感覚は持ち合わせていなかった為暗殺されてしまったのが残念です。

    ユーザーID:5402841207

  • ヨコです。ひこわん様へ

    私は先祖代々東北系ルーツの人間なので、実はひそかにひこわん様と同じことを考えておりました。
    もちろん当時の江戸幕府がもう耐用年数を超えていて、そのままあり続けることは難しかったのだろうとは思うのですが、幕府系の官僚が新政府にいたことが実はとても大事なことだったのではないかしらと日本史選択の文系高校生だった当時思ったものでした。

    永井荷風の「断腸亭日乗」にも「明治以降日本人の悪くなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のように痛嘆せらるるなり」という一節があるそうですね。荷風さんのような江戸系知識人はこう見ていたんだなと。

    ユーザーID:9848223859

  • 一番幸せだった人

    一番の功労者に徳川慶喜公を上げている人が多いが、別の視点から見ると、一番幸せな人だったと思う。

    十五人の将軍の中で一番長生きし、75、6歳まで生きたはずだ。
    一年で将軍職から開放されて、悠々自適の人生を全うしたと思う。
    勝海舟より長生きしたはずだ。
    徳川将軍で次に長生きしたのは、神君家康公。

    維新の英雄たちのほとんどは、最後は悲惨だった。
    竜馬、大久保利通、大村益次郎、西郷隆盛、吉田松陰、江藤新平、前原一誠、伊藤博文etc.

    悲惨だから英雄なのかもしれない。

    ユーザーID:0990587614

  • toraさん、ありがとうございます

    いや、そういうことは知っているんです。
    ただ、そうであるなら、井伊直弼はやる前からわかっている賢者。
    薩長はやってみなけりゃわからないバカ。と、思ってしまうのです。
    だから、勝ち目のない対米戦争にもつれ込んでしまったのは、そういうベースがあったのかなと。利口な方に国のハンドル握っていてほしかった。
    ちなみに、わたし薩長とも彦根とも縁もゆかりもないです。

    ユーザーID:4037794589

  • エドさん、ありがとうございます

    私は関西のとある田舎の出身ですが、関東から関西にかけて豊かなのは、戦後復興が太平洋ベルトからだったと理解していましたが、実は戦前にも明治維新後の制裁的な予算配分で東北が発展から取り残されていったと、なにかで読んだことがあります。
    明治維新って大昔というほど昔でもなく、今の諸問題を考えていくとどうしてもそこまでは遡及しないとならないくらいの昔ですね。私が謝ることでもないんだけど、エドさんたちのご先祖様には大変気の毒な歴史でした。
    そうですか。新政府内部にも幕府派が活躍できたのですね。少しほっ。
    高校では、国を思う知識階級の厚い層があったから成功したみたいに教わった気がするけど、外憂に曝されてるときに内乱起こすことのどこが愛国なのか疑問に感じ、開国vs開国じゃ論点ないやないけ。
    関ヶ原以来天下とるチャンスが巡ってきただけのことじゃないかと。
    幕府のダメなとこ、そうですね、耐用年数ですね。

    ユーザーID:2869942640

  • よこですが。

    ご承知かもしれませんが、制裁は予算配分だけじゃないですよね。
    一例では県名が福島県となったことや県庁所在地が福島市なのも「制裁」でしょう。
    会津の武家屋敷?にいまだに(10年前に見た)山口県知事から花が来るのも、
    長州のうしろめたさなのでしょうか。

    ユーザーID:5884458359

  • 幕府も薩長もなにも分かっていなかった

    尊皇攘夷を最初に唱えたのは、御三家のひとつ水戸の徳川斉昭です。
    井伊直弼を暗殺したのも水戸の浪士です。

    東北を佐幕とひとくくりにするのも、いかがなものかと思います。
    東北は大きく3つに分かれておりました。
    譜代藩(幕閣の構成員で政治を担当):会津、庄内など
    外様藩(政治的に蚊帳の外):仙台、米沢、盛岡、弘前、秋田など
    外様藩も奥羽越列藩同盟を離脱して朝廷軍に入った:秋田、弘前
    最後まで戦った:仙台、米沢、盛岡などです。
    外様藩は、政治的には蚊帳の外で、幕府からの支配だけを受けていたので、幕府の支配下にはいるのを嫌っていた。
    薩長を中心とした朝廷軍が東北に攻め入ったのは会津藩と庄内藩の成敗のためです。
    会津藩は藩主が京都守護代のときに長州藩士をいじめので、長州藩から恨みを買っていた。
    庄内藩は大政奉還後に江戸の警備を担当していたが、薩摩藩士が江戸で狼藉をはたらくので江戸から追放したため、薩摩藩から恨みを買っていた。
    これら両藩の復讐のための戦争です。仙台藩や米沢藩を中心とした東北の各藩も最初は朝廷軍として会津、庄内藩征伐に出兵しております。

    ユーザーID:0990587614

  • 徳川家の人達

    江戸城を無血開城した人々に1票します。

    ユーザーID:2310827735

  • ひこわんさま

    ひこわんさま。
    >維新は正しいことだったのかしら?
    正しいよ、世界が、小さくなって封建体制がもう使い物にならない、時期だからね。
    まあ、封建体制を壊す(変える)のは、徳川家がやってもいいけど、封建体制のトップがそれは無理でしょう。
    「お前が言うな」ってね、誰もついてこないよ。

    トピずれだけど。
    >その後の戦争への突入も違った形になったのではないかと思ってて
    基本的には同じだよ。歴史の勉強をして、時代の流れを見れば明白ね。

    19Cから20C中ごろまでは、自国の経済圏を広げる(他国を排除する)のが時代の流れだからね。
    今から見れば、戦争になるのは当然だよな、としか思えないね。
    まあ、戦争は外交(政治)の一部だけど、昔は戦争のマイナスが少なかったからね。

    ユーザーID:4128176967

  • 徳川将軍の復権を目指す勢力は皆無でした。

    慶喜公謹慎ののち、田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を継承しました。
    しかし彼を将軍職に!!と復権を目指す勢力は、東北にすら皆無でした。
    本来「征夷大将軍」とは天皇から任命される一官職に過ぎず、「王政復古の大号令」により幕府制度が廃絶された以上、日本国を統治する主体は、天皇を頂点とする明治新政権しか存在しなかったのです。
    ちなみに上記の大号令により「摂関制度」も廃絶されたので、理論的には幕府も摂政・関白も存在しなかった古代律令制が復古したことになりますが、「五箇条の御誓文」により、新政権は単なる復古ではないことを表明しました。

    ユーザーID:1899565177

  • 長州藩第13代藩主。毛利敬親氏

    藩主・毛利敬親の慧眼と、時代を見る目と、進取の気性が明治維新を導いた。

    明倫館の教育プログラムを見れば、毛利藩がいかに進取の気性に富み、すばらしい見識や世界観を持っていたかが分る。

    それは、ひとえに藩主・毛利敬親氏が、素晴らしい人物だったからです。

    西郷隆盛、坂本龍馬、吉田松陰、久坂玄瑞。高杉晋作などはもちろん立役者だが、

    毛利藩主、毛利敬親氏の先進的・自由な教育風土の中から、有能な進取の気性に富む人材がたくさん、生まれていった。

    版籍奉還から廃藩置県を先導して決めた、毛利敬親の慧眼あってこその明治維新だったと思う。

    ユーザーID:7059482506

  • 勝海舟に一票!

    私も勝さんに一票です。
    江戸城無血開城といっても、慶喜は逃げても最後まで抵抗した徳川幕臣はたくさんいたわけです。
    そういう抵抗派を説得したり買収したり、新撰組や会津藩のような過激派を上手いこと追い出して無血開城をお膳立てしたのも勝さんです。
    彼がいたからこそ、新政府ができたんだと思いますね。

    ユーザーID:4019205716

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