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難問:日向国飫肥藩13代藩主伊東祐相の娘の名前

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地方歴女

難問だと思いますが・・・

日向国飫肥藩13代藩主、伊東祐相(いとう すけとも)の娘について
いろいろと文献(図書館・歴史館・ネット)を調べていますが分からないので
小町の皆さまのお力をいただければありがたいです。

伊東祐相には、6人(?)の娘があったと思われます。

1 間部詮実(まなべ あきざね)の正室:徽美
2 亀井茲明(かめい これあき)の正室:〇〇
3 本堂親久(ほんどう ちかひさ)の正室:〇〇
4 真田幸民(さなだ ゆきもと):継室:〇〇
5 亀井茲明(かめい これあき)の継室:〇〇
6 前田利鬯(まえだ としか)の正室:久

この6名の中に「瑠(りゅう)?」という名の娘が
いたのではないかと考えております。
〇〇の部分が不明のところです。

また「瑠(りゅう)?」が、伊東祐相の娘でない場合、
誰の娘で誰の妻になったのかを知りたいのです。

ご教示よろしくお願いいたします。

ユーザーID:9472138122

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  • 進展がありました。

    1 間部詮実(まなべ あきざね)の正室:徽美
    2 亀井茲明(かめい これあき)の正室:栄子(二女)
    3 本堂親久(ほんどう ちかひさ)の正室:雅子、または、田井
    4 真田幸民(さなだ ゆきもと):継室:宏子
    5 亀井茲明(かめい これあき)の継室:養子(三女)
    6 前田利鬯(まえだ としか)の正室:久

    ユーザーID:9472138122

  • ざっと調べてみました

    1 間部詮実(まなべ あきざね)の正室:徽美
    2 亀井茲明(かめい これあき)の正室:栄子
    3 本堂親久(ほんどう ちかひさ)の正室:雅子
    4 真田幸民(さなだ ゆきもと):継室: 宏子
    5 亀井茲明(かめい これあき)の継室:養子
    6 前田利鬯(まえだ としか)の正室:久

    お探しの瑠さんは伊東祐相の娘ではないと思われます。

    ユーザーID:0043047252

  • 興味深い且つ

    ロマン溢れるトピですね。知識を持ち合わせていないので直接答えられないのが残念ですが、何故瑠さんの出自及びその後を知りたいのかそちらの方に興味が湧きました。瑠さんの子孫なのかな?瑠さん歴史上何か偉大な事を成し遂げた人なのかな?はたまた絶世の美人だったのかな?この「何故」を考えるとこのトピが無限大に広がって行きますね。また日本の女性史を学ぶうえからも面白いトピですね。子供が女性だと大名家と言えど名前とその後が分からないという。私も楽しみにレスを待ちたいと思います。

    ユーザーID:3614590919

  • ググってみました

    2番〜4番までネットで検索したらあっさり出てきたけどこれじゃないのかな?

    2亀井茲明の正室→栄子
    3本堂親久の正室→雅子
    4真田幸民の継室→宏子
    5亀井茲明の継室→養子

    「瑠(りゅう)?」という名前はいないみたいですね。
    名前だけで誰の娘で誰の嫁になったかまで調べるのは難しいんゃないかな…
    「瑠」という名前はどこから出てきたのか、トピ主さんが伊東祐相の娘だと思った根拠とか教えてくれればもっと詳しい情報が出て来るかも。

    ユーザーID:1766203251

  • 小町ではなく…

    歴史系の質問サイトで聞かれた方がよいと思いますが・・・


    2 栄子
    3 田井
    4 軸子
    5 養子


    ただし、幼名がわからないのでそちらかもしれません。

    華族家系大系はごらんになりましたか?
    三百藩藩主人名辞典とかもあります。
    それもごらんになるといいですよ。
    あとは宮崎県の県立図書館とか博物館でお調べになるといいかもしれません。
    国会図書館の華族関係の時点なんかもいいかも。もしくは嫁ぎ先の方から調べるとか。

    なにより、女子の名前はなかなかわかりません。
    頑張って調べてください。

    ユーザーID:1384608914

  • 興味本位

     すみません当方、飫肥藩という藩があることさえ、このトピまで知らなかった興味本位です。誰かと思ったらこの藩の最後の当主だったのですね。

     昔、ラサール石井が時代劇とかやってたなぁと覚えていたのですが、この伊東祐相がモデルだったのですね。

    しかも歌舞伎で有名な曽我物語、曾我兄弟の仇討ちで討ち取られた方、工藤祐経はこの日向伊東家の先祖! 江戸時代では外様ゆえ小藩ながら、この家系は源平の時代から切れること無く存続した、ものすごい名門ですね。天正遣欧使節団の伊東マンショはこの一族の出か! 明治時代の海軍大将、伊東祐亨も!

     そもそも発祥は静岡県の伊東だったのか。頼朝の時代に側近として活躍、そこで工藤から伊東に改称、のち子孫が日向に移ったのですね、勉強になりましたありがとう。

     なおこれを調べているうちに『伊東家の歴史館』というHPがありました。すでにご存知かもしれませんが。。伊東家の歴史館 でネット検索してみてください。詳しそうなのでトピ主の期待に添えるかもしれません。または一周回ってそのHPの編者だったりして(笑)

    ユーザーID:6895825371

  • 瑠は謎

    伊東祐相の子供

    祐帰 1855-1894 
    徽美(越前鯖江藩八代藩主 間部詮実・正室)
    真宏院 宏子(信濃松代藩十代藩主 真田幸民・継室)1864-1899 
    栄子(子爵 亀井茲明・正室)1867-1875 
    雅子(常陸志筑藩主 本堂親久・正室)
    養子(夫:子爵 亀井茲明・継室)1869-1926 
    久(加賀大聖寺藩十四代藩主 前田利鬯・正室)

    でした。養子の名前がわかりません。養子という名前の可能性もなくはないでしょうけど、付けませんよね。それにしても既婚の栄子の没年が合っているのか疑問です。そう載ってあったのですけど。

    養子の名が瑠だったのでしょうか?? 謎です。

    ユーザーID:9399696326

  • いませんでした

    調べたらすぐに出てきましたが、

    1 間部詮実(まなべ あきざね)の正室:徽美
    2 亀井茲明(かめい これあき)の正室:〇〇→栄子
    3 本堂親久(ほんどう ちかひさ)の正室:〇〇→雅子
    4 真田幸民(さなだ ゆきもと):継室:〇〇→宏子
    5 亀井茲明(かめい これあき)の継室:〇〇→養子
    6 前田利鬯(まえだ としか)の正室:久

    でした。(家系リストに載っていました)
    ただ、養子さんが名前なのか、養子なのかは?ですね。
    でも「養子(夫:子爵 亀井茲明)」とあったので名前っぽいです。
    他の養子の人は(養子)になっていたので。
    「瑠」さんは見当たりませんねー

    ユーザーID:3480890735

  • 瑠の名は

    養子(夫:子爵 亀井茲明・継室)1869-1926 

    の養子は三女と載ってある所がありました。生まれた年と没年も判明しており、写真もあったので、養子という名前のようです。

    ところで瑠の名はどういう経緯で出てきたのでしょう。

    ユーザーID:9032296024

  • 聞いたことがあるようなないような

    数年前に伊東祐相について研究している人の話を聞いたことがあります。
    まったく興味がなかったので内容は覚えていないのですが、
    確か子どもたちについてもお話しされていたように記憶しています。

    その研究されている方の名前も分かりませんが、
    役所の文化財課の人は市町村を越えて横の繋がりを持っているので
    日南市や宮崎市の文化財課に問い合わせてみてはどうでしょうか?

    ユーザーID:4398299719

  • どうやって調べるのですか?

    逆に教えてください。

    インターネット百科事典には徽美と久しか載っていません。
    それ以上調べるにはどういう資料を探すものなのでしょうか?

    ユーザーID:1159861314

  • 調べている理由ですが・・・

    早速のレス、ありがとうございます。
    伊東祐相の娘では、出てこないのが現状のようです。

    さて、調べている理由ですが
    当時全国的に流行していた『天然痘』に対し『牛痘種痘(ワクチン接種)』を
    幕末の儒学者『安井息軒』が、飫肥藩に勧めました。

    『牛痘種痘』は
    ・牛痘種痘をすれば牛になる。牛の角が生えてくる。
    ・赤い色が天然痘を避ける。
    ・疱瘡の神は住吉大社を祀るべし。
    ・牛痘種痘は「詭術(インチキ術)」で、「危言妄説」。
    ・万里を隔てた野蛮な国の獣臭い苗を求めて、日本の貴人に植えるとは実に嘆かわしい。
    などの風評があったため、それまで実施されていませんでした。

    それで、最初に藩主の娘『瑠姫』に『1850年7月17日』に種痘したという
    記録があったことによります。

    引き続きよろしくお願いいたします。

    ユーザーID:9472138122

  • 分かったことがあります。

    江戸後期の老中『水野忠邦』の娘『周・・のち・・甫』の娘が
    『瑠姫』らしいです。

    引き続きよろしくお願いいたします。

    ユーザーID:9472138122

  • レスします。

    通りすがりの者様
    >どうやって調べるのですか?
    >逆に教えてください。
    >インターネット百科事典には徽美と久しか載っていません。
    >それ以上調べるにはどういう資料を探すものなのでしょうか?


    「日向伊東氏 − Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜」で

    真宏院 宏子(真田幸民室)
    1867-1875 栄子(夫:亀井茲明)
    雅子(本堂親久室)
    養子(夫:亀井茲明)
    残り四人の名前も分かります。

    また、関係者の名前をググると
    「二女」とか「三女」とか「田井」とかいう文字が
    表示されるページを見ることもできました。

    桃様
    >栄子の没年が合っているのか疑問です。

    そうですね、これを見る限りでは、わずか8歳ですね。

    ユーザーID:9472138122

  • 調査の手段

    皆様、レスをいただき、ありがとうございます。
    まとめてではありますが御礼申し上げます。

    さて、調査の仕方について、ご助言等いただいておりますので
    今までの調査について述べさせていただきます。

    1宮崎県内の文化財担当者(学芸員)を直接訪問し、
     説明を受けたり資料をいただいたりしております。(約1か月前)

    2県立図書館に直接行き、
     伊東家の資料を閲覧させていただいております。
     (12代藩主までの資料しかありませんでした。)

    3在京の某大学の研究機関(研究者)に電話で問い合わせております。

    4インターネット上の関係サイトをググっております。

    5ここ「小町」様で質問をさせていただいております。(現在)

    上記以前から約1年間ほどいろいろと調べているところです。

    ユーザーID:9472138122

  • 幼名かもしれない

    1850年に種痘された姫をお探しなら、長女の徽美しか生まれてないと思うんですが。
    1833年生まれで、1868年に亡くなってますね。
    母親が水野忠邦の娘なら、正妻の子なので記録が無いことは考えられないですし。
    徽美の幼名が瑠姫だと推測します。

    ただ、安井息軒は1850年頃には江戸にいたんじゃないかと思うんですが。

    ユーザーID:0043047252

  • 伊東祐相
    正室:甫(父:遠江浜松藩初代藩主 水野忠邦)

    と出てきますよ。妻になった年は1834年です。子供は無かったようですね。種痘を安井息軒が飫肥に種痘法を伝えたのが1950年で、1850年7月17日は正室になってから16年後ですね。

    継室の子供も分かっている生年で1番早いのが1955年ですね。

    ユーザーID:9032296024

  • 徽美は1833年生まれ

    徽美の生年月日もわかったので書いておきます。

    徽美きみ:天保4年(1833)9月16日誕生〜慶応4年(1868)8月12日

    1950年7月の時は満16歳ですね。正室の甫の子なんでしょうか??

    ユーザーID:9032296024

  • 他にできそうな事

    1.日南市の図書館や市役所に行く。
    2.国会図書館に行く。
    3.地元紙(宮崎日日新聞)に取り上げてもらって情報を集める。

    良き情報を集まりますように!!

    ユーザーID:4966669390

  • 逆方向から

    トピ主様のレスから察するに、九州の方とお見受けしました。
    伊東氏方面から調べておられるようですので、嫁ぎ先から調べるのも一手かも。
    ・・・と思ったら、嫁ぎ先がかなり離れているので厳しいと思われますが・・・

    本題とは、ほぼ関係ないのですが、嫁ぎ先を見ると、
    伊東家:飫肥藩5万1千石に対し、
    真田家:松代藩10万石
    前田家:大聖寺藩10万石
    亀井家:津和野藩4万3千石
    間部家:鯖江藩4万石
    本堂家:志筑藩1万110石
    となり、本堂家だけがやや異質な感じがします。

    ユーザーID:1837135929

  • 平部きょう(山に喬)南の日記

    トピ主です。
    皆様、ご協力(ご教示)ありがとうございます。

    さて、「平部きょう(山に喬)南:飫肥藩家老」著『六鄰荘日誌』
    ※19歳から66歳までの47年間にわたる日誌に

    嘉永三年 
       七月
    二日長倉平右衞門以下留守詰ノ人々國許ヨリ
    来ル〇十七日瑠姫君種痘ノ事役人中ヨリ幾度
    モ言上ニ及ヒシカ■榮松院太夫人許容シ玉ハ
    サリシカ近頃ニ至リ漸ク御承引アリテ今日竹
    内玄同ヲ田町邸ニ召サレ牛痘ヲ種ヘシメラル

    ※■は「モ?」「氏?」に似た表記です。
    (小さい文字なので「カナ」だと思います。)

    との記載があったことに寄ります。

    引き続きよろしくお願いいたします。

    ユーザーID:9472138122

  • 少々ズレますが

    トピ主さんご紹介『六鄰荘日誌』の■は
    「トモ」と読むのでは。

    「幾度モ言上ニ及ヒシカトモ」=「幾度も言上に及びしかども」と
    解釈してよろしいかと思います。

    ユーザーID:5719995417

  • 略字なのが

    追加情報を読んで探してみました。

    <母>
    栄松院・為 安芸広島藩七代藩主 浅野重晟の娘

    <正室> 
    甫 水野忠邦の娘 文政4年(1821)-天保15年(1844)
    甫との結婚 天保4年11月23日(1834)

    <娘>
    久は、1841年生まれである前田利鬯の正室でしたが、1862年には離縁されています。という事は1850年に生まれている可能性も?

    子供の名前は全員継室の下に連ねてあって、正室・甫と結婚したのは徽美が生まれた1833年の翌年なので、徽美も甫の子ではないのでしょうね。

    1850年に生まれているのが確実な徽美と、生年が不明の雅子と久の3人は接種の可能性があるかもしれませんね。

    後、瑠姫君の瑠の字が旧字体の璢でなく略字で書かれ、栄松院は榮松院と旧字体なのが、少し引っかかります。

    ユーザーID:9032296024

  • 色々な情報ありがとうございます。

    トピ主です。

    2016年12月4日 22:18 香様

    >少々ズレますが
    >トピ主さんご紹介『六鄰荘日誌』の■は「トモ」と読むのでは。
    >「幾度モ言上ニ及ヒシカトモ」=「幾度も言上に及びしかども」と
    解釈してよろしいかと思います。


    情報ありがとうございます。

    さて、■の文字ですが、ここ(小町様)の表示の関係で、
    横(左⇒右)書きにしておりますが、
    私の見た日誌(直筆ではありませんが)は縦書きでした。
    よって、■は一文字ではないかと思った次第です。





    ユーザーID:9472138122

  • 色々な情報ありがとうございます。

    2016年12月5日 12:19 桃様

    詳細な情報ありがとうございます。

    さて、私ごとですが、所(諸)用を抱え込んでおりまして
    諸々が落ち着きましてから、ゆっくり再考(考察)したいと思います。

    ほかの皆様からのレスもありがたく拝見させていただいております。

    引き続きよろしくお願いいたします。

    ユーザーID:9472138122

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