関が原 たられば

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足軽

石田三成が、関が原で負けたのは、毛利一族を担いだからだと思います。

人望がないから、毛利を担げと、大谷吉継が助言をしたと言います。

しかし、先頭に立つ覚悟のない人物に、信を置く人はいません。

要するに、権力への意志がない人に、天下を語る資格はない、そう思います。

皆様の意見をお聞かせください。

ユーザーID:1493441026

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  • そうかな?

    豊臣秀頼を戦場に担ぎ出す事が出来なかったからだと思いますけど。

    もし豊臣秀頼が来ていたら、東軍に寝返った武将達はどうしたでしょうか?

    ユーザーID:7063157667

  • 「権力への意思にない人に天下国家を

    語る資格はない、貴女の言う通りだと思いますよ。これ今の時代の政治家にも言える事ですよね。トピ主のこの見方非常に面白いと思います。現在の政権党の実力者の言動や野党第一党の党首選び第二党の選挙協力構想第三党に前大阪市長が復帰すればどうなるか等トピ主の見方に立って考えれば興味は尽きません。更に更に都議会第一党は権力への意思があるのかどうかも気になりますよね。蘇我入鹿の時代から今の安倍さんの時代まで日本の権力闘争は基本同じパターンのような気がします。個人的に権力への強い意思が無いと天下は取れないと思います。ただ世間から尊敬されないと強い意志だけではダメですが。そういえば戦後タナボタで総理になった人も何人かいましたが強い印象は残っていませんよね。

    ユーザーID:7527293085

  • いや違います

    敗因は秀頼を西軍の大将として出陣させなかったことにつきます。

    光成は分をわきまえなかったことです。

    ユーザーID:0730774114

  • 神君に勝てる人はいない

    結果論ですが、神様家康様に勝てる人などいないのです。

    ユーザーID:5585151577

  • よくわからないが

    西軍の大将は、毛利でなくて豊臣ですよね。

    豊臣の家臣の毛利が権力を奪おうと思っていないのでは。

    「人望がないから〜」は、「たとえ西軍が勝っても、毛利の天下にはならない」という意味だと思いますが、単に、家康を阻止するために戦っただけですよね。

    ユーザーID:3309561480

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  • 紙一重

    石田のみっちゃんが、人望がなかった。確かに、所謂命をかけて『槍一本』で大出世した人達から
    見ると、戦ではなく、行政手腕で出世した人は、好まざる人だったでしょう。
    権力が武官から文官への過渡期だから、そういう軋轢は仕方ないでしょうね。

    やはり、小早川の秀ちゃんが、本来であれば、秀吉の跡継ぎだったのに、弟に跡継ぎを取られ、
    田舎の大名(本来は毛利だったけど、小早川が本家の身代わりに引き取った)に養子にされた。

    やはり、豊臣家の執行部を快くは思ってなくて、その裏切りがない、
    もしくはそのまま中立(戦いせず)だったならは、徳ちゃんの完勝はなくて、長期の戦い、
    もしきは、ひとまず、停戦ぐらいになったかもしれない。

    歴史は、どうしても、勝った側の理屈で解釈される。
    幕末とて、一歩間違えば、長洲、薩摩とも朝敵のまま、潰されていたかもしれない。
    徳川家中心の、天皇制国家になっていたかもしれない。

    ユーザーID:6813507764

  • 毛利を担がないとそもそも戦えない

    毛利が付くなら勝ち目があるかもと西軍に参加した人達も多いでしょうし、いなければそもそも戦いになるほどの味方を集める事は不可能だったと思いますよ。
     それに毛利本陣は戦う気だったが、先陣を切る事になって居た吉川が徳川と内通していて、毛利軍が参戦出来ないように足止めしていたのであって、徳川の調略が功を奏していて、戦う前に勝敗が付いていたと思います。

     せめて秀吉が元気なうちに、もう少し家康の力を弱められていればよかったんですけどね。

    ユーザーID:4703741496

  • キーパーソン

    真のキーパーソンはねね様だと思います。

    豊臣家の正室でありながら、徳川に付く。
    これって、反淀殿なのが明確です。
    ねね様が徳川に付いたことにより、豊臣家の子飼いの家臣が徳川に付いています。
    さらに見逃せないのが、小早川秀秋の寝返りです。
    そもそも小早川秀秋は、ねね様の甥です。
    関ケ原の前に、頻繁にねね様のところに訪れていたようだし。
    この時点で、ねね様から、徳川に寝返るように言われていたでしょうね。

    たらればで言えば、淀殿がねね様を追い出さなければ、豊臣家が勝っていた。
    豊臣家が勝っていれば、江戸時代のように、女性の地位が下がることはなかった。

    これは敬愛する、永井路子氏の書に書いてあります。

    ただ、豊臣が勝っていたら・・・
    今はどんな時代だったでしょうね。

    ユーザーID:6257312403

  • まったく関係ないと思います。

     タラ・ればの世界で話すなら関ヶ原の戦いは外交の戦いなのです。

     外交の結果を先頭と言う形で具象化されたものです。

     仮に、小早川が東軍につかず西軍として戦ったならば西軍圧勝でしょう。
     ただし東軍が負けたからと言って関ヶ原出家康が戦死するかと言うとそうでもない。
     おそらく逃げ切れたでしょう。
     秀忠軍は無傷、駿河なり江戸まで家康が逃れられれば再起のチャンスは大いにあったと家康も確信したでしょう。

     東軍がてんでんばらばらに国に帰ったとすれば元西軍にそれぞれを征伐する力も大儀(逆賊ではないから)もありません。

     毛利にしたって農民の倅が出世した秀吉の息子に伝統的戦国大名が四民平等の概念の無い時代にリスペクトしているのは「お家が大事」であって忠義のためではありません。
     安全保障さえ得られれば家康と敵対する理由がないのです。

     華々しい戦闘が表面に出ますが外交という面で歴史的価値が高いと思います。

    ユーザーID:9770997254

  • なるほど

    私は三成びいきなので、偏った意見になるかもしれません。

    権力云々ではなく、秀吉の遺言に従わずに好き勝手をした家康を討ちたかっただけではと思います。豊臣家をないがしろにされることに我慢できなかったのではと。

    総じて人望があるとは言えませんが、大谷吉継や直江兼続や佐竹義宣などの友人もいました。
    豊臣家家臣の武断派が三成暗殺を企んだ際、「三成がいなくなっては世の中が面白くなくなる」と佐竹義宣が三成を助けています。

    また、臣下には島左近や渡辺勘兵衛といった勇猛果敢が武将がいて、関ヶ原では「尋常ではない」戦いをしたと言われています。

    目上の人間や配下には慕われていたが、同僚達には疎んじられていたという評価もあります。

    石田三成は全く人望がなかったわけではなく、また豊臣家への行く末を案じて関ヶ原の合戦を起こしたのだと思っています。

    ユーザーID:7117046797

  • 2017年8月23日 11:20 真田様まで拝見しました

    お返事ありがとうございます。

    権力への意志に関しては、頼朝に対する義仲、足利尊氏に対する新田義貞などが思い出されます。

    但し、義仲や義貞の弱さのようなものは、嫌いではありません。

    「秀頼を出陣させれば」は、よく言われることですが、可能性は、低かったように思います。

    与力するか否かは、当然、恩賞への関心からだと思いますが、幼い秀頼にその判断は可能ではなく、どうしても代理人が必要となります。

    代理人として振る舞う家康に対して、代理人としての(総大将の)輝元の、さらに代理人である三成では、初めから勝負はついていた、それくらいの違いがあるように思えます。

    西軍が勝ったとして、恩賞を与えるのは輝元か三成か、輝元と三成の対立が起きたとしたら・・・。

    権力への意志を持つ人物に味方する分には、そのような懸念は生じません。

    ユーザーID:1493441026

  • トピ主のコメント(4件)全て見る
  • 初めて知りました

    お返事ありがとうございます。

    >豊臣家が勝っていれば、江戸時代のように、女性の地位が下がることはなかった。

    このような意見があること、初めて知りました。

    楽しい話を聞かせて頂きました。

    他、そうも言えるなあ、そんな感じで、皆様のレスを楽しんで読ませて頂いています。

    ユーザーID:1493441026

  • トピ主のコメント(4件)全て見る
  • 領民に敬愛されていた事の証拠だろう思いました

    麦飯様

    お返事ありがとうございます。

    >石田三成は全く人望がなかったわけではなく、また豊臣家への行く末を案じて関ヶ原の合戦を起こしたのだと思っています。

    竹生島に遊びに行った際に、佐和山城跡まで足を延ばしました。

    麓に「石田三成公居館跡」の案内があり、領民に敬愛されていた事の証拠だろう思いました。

    秀吉が、死の直前に、三成に50万石を与えようとした話があると、何かで読みました(間違っていたら、ごめんなさい)。

    もし、その話を三成が受けていたら、三成が先頭に立つことも可能だったかも知れないと、そんな「たられば」を思ったこともあります。

    ユーザーID:1493441026

  • トピ主のコメント(4件)全て見る
  • 毛利を担がなければそもそも勝負にならない

    毛利を担がなければ、大親友の大谷吉継と徳川嫌いの真田一族ぐらいしか味方に付いてくれなかったのではないでしょうか?

    ユーザーID:9666546330

  • また、考えて見ます

    ひでぽん様

    >毛利を担がなければ、大親友の大谷吉継と徳川嫌いの真田一族ぐらいしか味方に付いてくれなかったのではないでしょうか?

    一番の難題だと、私も思います。

    でも、それでは、結果が見えている気もしたので・・・。

    そう言えば、三国志の曹操も、最初は、袁紹を担ぎましたね。

    その後は、小さいと言えども、自前の勢力を作って行きます。

    どこが違うのでしょうね。

    また、考えて見ます。

    宿題を頂きましたので、一旦、トピを締めたいと思います。

    レスを頂いた方々へ、ありがとうございました。

    ユーザーID:1493441026

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