戦時中の話を今頃ポツポツと・・・

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のりこ

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  • 聞かせてほしい

    戦争を知っている人に、あの頃のすべてを教えてもらいたいです。
    何も言わず亡くなった方のほうが多いのかもしれません。
    言えないのか言いたくなかったのか、もうご高齢な方ばかりになり、戦後生まれには、知りえないことが多すぎます。

    良くない過去を知らないと、いけないんです。どうしてあれだけ不幸な人の陰に隠れて、お金をもうけた人がいたのか、どこに空襲が落ちるか予測できていたのか、
    言わずに死なない人には、言ってもらって、不公平すぎる好景気だけは、避けてもらいたい。

    ユーザーID:0982211686

  • そういう時代

    それは人にも寄りますが、その中の一つに
    戦時中は一般的には「戦争反対ムード」ではなかったのです。
    多くの人が日本が戦争に負けるとは思っていませんでした。

    私が亡父から聞いた話だと、終戦着後の玉音放送で
    隣の奥さんが「日本が戦争に負けた!」と飛び込んできたそうです。
    その位衝撃的な事だったのでしょうね。

    当時の人はその戦争の事を大東亜戦争と呼びます。
    私の父もずっと大東亜戦争と言っていました。
    戦後に生まれた私たちは何て古臭い言い方なんだと
    父をからかいましたが、彼はずっとそう言い続けました。
    その意味は調べれば分かると思います。

    一転して戦後は「戦争反対ムード」になりましたね。
    これが当時の人がなかなか戦争の事を話さない理由の一つかと思います。

    私は父からよく主様がおばあ様からお聞きになったような話は
    沢山聞いて育ちました。当時の世相の話は晩年になってから。

    赤ちゃんののしめにも軍艦や戦車の絵柄が乗ったものが沢山あって、
    今も当時の世相を表すものとして残されていますね。
    当時はそういう時代でした。

    もう今の時代とは全然違うの世相だったから
    当時の事は口にだしてはいけないように思う人も
    多いんだよと父は言ってました。

    ここまでこの日本を復興させてくれた先達に感謝と敬意を払います。
    そしてこの豊かな時代が先々まで続く事を祈って。

    ユーザーID:5668278852

  • そのお話は

    そのお話は是非貴重ですので、できましたらメモ書きでもされてください。
    手記のようなものでも出版して欲しいです。
    戦争経験者の方々は、当時の体験を話したがりません。第二次世界大戦の体験談をお話しできる方々も少なくなりました。あの悲劇を繰り返さないためにも、是非そのお話をまとめられてください。
    お願いします。

    ユーザーID:1762892169

  • 肉親から聞くと

    年代的に親・祖父母とも戦争体験のある世代ですので、親から子供の頃から時折話を聞いて育ちました。祖母からも聞いたことがあります。親からも祖母からも九死に一生を得た別の体験を聞いてきました。

    昔は戦争で手足を失くされた方、重い火傷の痕が残る方等と日常触れ合う事もありました。体に残った辛さに蓋をして気丈に生きていらっしゃったその年代の方々も減っている昨今、戦争を身近に感じる事もなくなってきていますね。

    そして子供の疎開というのも辛い体験だったのでしょう。ただそれを口に出すのははばかられる。感謝すべき立場なのですから。肉親も様々な体験をしていても口にする人、しない人、色々です。

    もっともっと戦後生まれの親の元に育った世代も戦争体験を肉親から聞く事があれば、テレビ画面で流れる話を聞くより、実感として伝わってくると思います。

    ユーザーID:5049162776

  • 貴重なお話ですね。

    私も戦争を経験していない世代ですが、故郷が長崎ということもあり、子供の頃から学校でも家庭でも、原爆のことや戦争のことは嫌と言うほど聞かされてきました。
    自分が戦争を経験したと錯覚するぐらい、頭の中には戦時中の光景が浮かぶほどです。

    印象に残っているのは、母の友人が語ってくれた終戦後の旧満州からの引揚げの話でした。
    引揚船に乗ったときに白飯のおむすびをひとり1個配給されたそうで、「そのおむすびの美味しかったこと・・・。」と涙ながらに話してくれました。

    当たり前の話ですが、わが国の戦争経験者はいずれはいなくなります。
    もちろんこの先同じ過ちを繰り返さないという前提ですが。
    戦争のことを思い出したくもなく、なかなか語ってくれない人ももちろんいます。
    のりこさんの御祖母様のお話は、本当にありがたいですね。

    自分が経験していないことを伝えるのは難しいことですが、今度は私達の子供の世代に語り継がなければならないのですよね。
    毎年8月が近づくと、子供たちには少しずつ戦争の話をするようにしています。
    まだまだ伝えなければならないことはたくさんありますが、それが私達の使命かなと思っています。

    ユーザーID:6466472587

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  • おばあちゃん

    今の世の中が
    戦前に似てきたと思ってあなた方に警告しているんだと思いますよ。
    戦争をしないという当たり前のことを当たり前に守るには私達がどうしたらいいかを
    考えて欲しいのでしょう。

    ユーザーID:0524230950

  • 聞いた事があります

    亡くなった曾祖父
    生きていたら110才くらいかな。
    海軍だった曾祖父は、子供だった祖父と大叔父を置いて招集され遠く
    ボルネオまで行ったそうで味方の船が撃破され人ごと沈みゆくのを
    何回も見たそうです。
    曾祖母は爆撃の中、生まれたばかりの大叔母を背負い逃げ惑ったそうですが
    爆音で大叔母は即死だったと聞きました。

    87の祖父は、空襲で亡くなった人を穴に埋める役目だと言ってました。
    川に浮いた遺体を集めるんだそうです。
    わずか当時15歳の子供がですよ。
    想像すら困難な事です。
    85の祖母は学校帰りに空襲を受け、低空飛行のパイトットの首に巻かれた
    マフラーの柄まで分かったそうです。
    相手が子供でも戦争なら容赦はなかったと聞き、震えました。
    一緒に帰宅した祖母の友人は腰を抜かし歩けなくなり
    祖母が引っ張って路地に避難したと聞きました。

    戦後すぐは、食糧難でやっと仕入れた米され奪われ幼い兄弟姉妹の
    飢えをどう凌ぐか胸が痛かったと祖父母の話しです。
    白米は貴重で、いつもは水っぱい芋ばかりだったそうです。

    本当にこんな悲惨な事が、まだ地球で形を変えても起こっている事に
    慄然とします。
    本当に争いのない痛みのない世界になって欲しいと思います。

    ユーザーID:7683336545

  • 本当そう思います。

    トピ主さんは私の子供位の年代でしょう。

    あいにく私は子供には縁がありませんでしたが、、、。

    甥っ子は「おじいちゃんは戦争の話ばかりしてた」と父亡きあと言ってました。

    本当にあの時代を生き抜いた人達、生きれなかった人達の事を思うと遣りきれない思いです。

    これからの時代を担う若い方達が、戦争の悲惨さをずっと語り継いでほしいと思います。

    世界から戦争と言うのは大昔の出来事になる日がくると良いのですが、、、。

    ユーザーID:3418166461

  • できればメモか録音を

    私の祖父母がトピ主さんのおばあさんと同世代です。

    私の祖父母も、85を超えたぐらいから
    今まで話さなかった原爆の時に火の中を逃げ、若者が死んでいった様子を見たことや
    戦中戦前の話をぽつぽつ話し出しました。
    もちろん真剣に聞いていましたが、
    今は存在しない地名が多かったこともあり(戦後公園になったので)、
    かなり忘れてしまいました。
    そして、縁起でもない話で申し訳ないのですが、
    私の祖父母は彼岸の人となってしまいました。
    メモすらとらなかったことを後悔しています。

    せめて、トピ主さんはできるだけ記録に残してください。
    おばあさまの一言一言が歴史の証言です。

    ユーザーID:3465291532

  • その隣県とは、私の住む町のことだと思います

    私の住む富山県は大空襲に遭い、何もかも失ったと聞きました。
    毎年夏には、その時の犠牲者を悼み花火大会が開かれます。多分、製造業が多く、狙われたようです。原爆の模擬爆弾が落とされた痕も何か所か残っています。本当に他人事ではなく、後から聞いても恐ろしいと思いました。つくづく平和な世の中に生まれて感謝しています。
    そして、その当時、大変な思いをした方々の事を忘れてはいけないと思いました。

    ユーザーID:9423248299

  • 是非記録に残して欲しいです。

    私達は、平和ボケしています。

    是非伝えて欲しいです。


    戦時中、苦労した先輩方が、戦後の日本の高度成長を支えました。
    尊敬の念を持ってしかるべきなのに、今では家族から邪険に扱われている人達が、沢山いらっしゃいます。

    他の方々の話も併せて伺って、是非後世に残して欲しいです。

    ユーザーID:4332658695

  • 今のうちに

    私の祖母は戦争で苦労した話はそんなにしません。時々聞きますが近い身内で戦争で亡くなった方がいなかったことや、食べ物にそをわなに困る地域ではなかったことや、空襲にあまり合わなかった?みたいです。92歳です。
    戦争の時の話よりも、近所中で有名な「いじわるばあさん」である姑にいびられて苦労した話を100回くらい聞かされています。

    亡くなった祖父は満州に渡り、シベリア捕虜にもなっています。祖父からは時々その話を聞いていたけど、もっと聞きたかったなと今になって思います。もちろん祖父が昔の辛い記憶を話すのがしんどくないなら。私は祖父が大好きで尊敬していて、戦争以外にも本当に子供の頃から苦労人だったので、祖父の歴史やバックグラウンドを知りたいと思います。たまにシベリア捕虜の体験談などが新聞に載っていると読みます。

    ユーザーID:7067161096

  • 話したくないことがあったみたい

    同居していた祖父は戦地に赴いていたらしく、年に数回戦友会の集まりのお知らせも届いていました
    小学校の頃の『身近な人に戦争体験を聞こう』的な宿題などでお願いすると色々話してくれましたし、戦後の街が復興していく話も楽しく聞かせてくれました
    (商店街福引で1等の砂糖スコップ1杯分を当てた話などはいつもワクワクしました)

    祖父が一度だけぼそっと漏らした話があったのですが、今まで聞く内容とは全然違いすごく印象的でした
    その時の祖父の雰囲気から詳細を聞くことはしませんでしたが、それは私自身が大人になってからも学校で歴史を習ってからは余計に、ずっと気になる内容でした


    同居していた家に住めなくなり1時間ほど離れたところに、祖父も一緒に引越しました
    そのご近所さんに祖父の戦時中の部下だった方がいらして、2人とも将棋が好きということもありちょくちょくやっていたみたいです
    我が家にも何度も来られていましたので、顔見知りでした

    祖父が亡くなった後、元部下の方から戦時中の話を聞きました
    人としての倫理観を崩さざるを得ないことをやっていたようです
    というか、やらざるを得なかった面もあったし、気持ちが高揚していてそれが正しいと思っていた部分もあったそうですが・・・
    元部下の方は祖父との思い出として話してくださいましたが、この方も辛い気持ちを抱き続けてらしたみたいです
    話した後「話して僕の方が助けられる気がしました」と仰っていました


    その話はまさに私が一度だけ聞いた話の本質でした
    戦時中の苦労話も時には面白く語ってくれていましたが、話したくないことも心に秘めていたようです
    戦争体験を訊ねる度に思い出させていたのかもな、と思い心が痛みました

    ユーザーID:4955172294

  • 記録してください。

     私は、両親が戦争体験者です。すでに鬼籍に入りましたが。

     小さい頃から戦争の話を聞かされました。敵だけじゃなく、味方にまでいじめられたそうです。

     惨めで辛くて、学校にも通えなくて生きるために泣く泣く働いたそうです。

     おばあちゃん、とても辛くて思い出したくなかったと思います。それと、「お母さんの名前」を呼ぶようになったら死期が近づいている証拠です。できるだけ寄り添ってあげてくださいね。

     なんでもいいです。記録をとってください。「歴史の生き証人」です。これが一番大事です。

     亡くなってしまったら、戦争がなかったことになります。

     歪められた事実もたくさん存在します。どんな媒体でもいいです。記録を残し、次の世代に受け継いでいくことが私たちができることです。

     二度と悲惨な戦争が繰り返されないように努力することが生きている人間としての役割だと思います。

     貴重な話を聞けて良かったですね。

     

     

     

    ユーザーID:6525844918

  • 生き抜くこと

    ただひたすらに生き抜くことに必死だった年代ですね。
    恐らくですが、ようやく話せるくらい落ち着いたのでしょう。

    私の母が80代半ばです。
    母も戦争を体験しています。
    ただし、東北の出身なので直接空爆を受けたわけではない。
    疎開してくる子を引き受ける側だったようです。

    その母は昔からサツマイモを毛嫌いしていました。
    私たちのおやつにはサツマイモを上手に調理してスィートポテトや様々なスィーツに変身させてていきょうしてくれていましたが・・・・。
    大人になってから母に美味しいと有名な芋羊羹をてみやげにしたことがあるんですが「なぜこんなものを・・・・」と絶句されたのは今から30年くらいまえだったかしら。

    こんなモノ扱いされたのが悲しかった記憶が有り、それいらい芋系スィーツは避けていました。

    そんな母は最近になって「サツマイモをみると、戦争当時のつらさを思い出すからつらかった。食べるとより一層思い出すから絶対口になどしたくなかったのよ。」と話してくれました。

    果樹園を営んでいた母の実家でも、戦争中には食べるにこまったそうです。
    芋がたべられるだけでもありがたいんだと大人から窘められながら芋を食べ続けさせられた。
    それを思い出すと芋はのどを通らず苦しかったんですって。

    そんな母は語るだけでなく、スィートポテトを食べてくれるようになったの。
    昨年の事です。
    栗きんとんを手作りしていったんです。
    アンをサツマイモで作ってね。

    食べてくれました。

    「サツマイモってこんなに美味しかった?」という母に「私が作ったからよ」とふざける私に話してくれた戦時中の想いで。

    戦争の体験って、きっとたくさんの時を経ないと昇華できないんだろうな。

    トピ主様のおばちゃまは、ようやくトラウマから解放されたのかな。
    いま、まさに幸せだからこそ思い出しても平静でいられるようになったんじゃないかしら。

    ユーザーID:9348947428

  • 祖父もそうでした。

    数年前、祖父が鬼籍に入りました。

    その前の約10年ほどの間、祖父は、毎日延々と書斎を整理しておりました。
    「手伝ってくれんか」と言うので、私もよく手伝いました。

    書斎に何があるのか、祖父以外の人は知りませんでしたから、金の延べ棒が有ったりしてとても驚きました

    祖父が私にこれをお願いと渡したのは、膨大な新聞のスクラップや写真でした。
    驚いて見る私に、その記事が書かれた当時、祖父がどこで何をしていたのか詳細に語ってくれました。
    満州のこと、満鉄のこと、ロシア兵に捕まりシベリアで過ごした数年間…。引き上げが叶って日本に戻って苦労したこと…

    祖父の話はいつまでも尽きませんでした。

    祖父が昼寝中、祖母に、祖父からこのような話を聞いたよ、と伝えると、その当時祖母が何をしていたのか、と言うことを、祖母がまた語ってくれました。

    ユーモアを交えながら二人が話す当時のことを聞きながら、私は必死で涙をこらえていました

    祖母はこうも言いました。
    最近テレビでは、戦争関係のドラマをよく流している。以前、祖父はあれらのものを見ると当時の辛い記憶がよみがえるからと絶対に見なかった。
    でも最近突然見るようになった。夫婦で話しているんだよ。あんなものではなかった、もっともっと過酷だったね、と。

    めーよには話しておきたくなったんだと思う。祖父の話を聞いてあげて欲しい。と。


    このレスを書いていてまた思い出して涙が出ます。

    >みなさんのまわりの戦争経験者の方もそうでしょうか

    戦争が終わってから自分や上司が戦争犯罪を訴追される危険があったので、戦後も長い間、当時のことは主に戦友会でのみ話していたようです。

    後日母に聞いても、祖父母は、戦争中のことは絶対に話そうとしなかったらしいです。

    ユーザーID:5366214383

  • そういうおじいちゃんおばあちゃん多いとおもいます

    話せないほど辛かったんでしょうね。

    うちの祖父母も戦争のことになると寡黙でした。
    中学生ぐらいのとき、迷彩柄の服が流行って、私もほしいと家で話していたら
    「戦争のことを思い出して辛くなるから、それだけはやめてほしい」と、はじめて、頼まれました。

    そんな風に頼まれたのは一度切りです。

    多分、私達の想像を超えた辛さがあるとおもいます。
    そんなおじいちゃんおばあちゃん世代の想いは汲んであげたいとおもっています。

    ユーザーID:4164612884

  • 叔母さん。

    私を幼い頃から実の娘のように可愛がってくれた叔母さん。
    頭が良くて、お料理もお裁縫もプロみたいに上手で、いつも穏やかで本当に優しかった叔母さん。

    その叔母が「満州から引き揚げてきた」という事実を知った時は驚きました。
    え、満州引き揚げって、教科書に載ってるあの満州?

    満州引き揚げ者の過酷な体験は本やドラマで知ってはいました。が、私の中では遠い昔の歴史の一コマで、まるで現実味がなかったのです。
    子供のころ、叔母さんはロシア語が話せると聞いたことがあり、不思議に思ったのですが、謎が解けました。

    赤ん坊を連れた叔母は、お乳も出ない身体でやっと実家にたどり着き、祖母(叔母さんの母)は「良く生きて帰ってきた」と泣いたそうです。
    あの優しい笑顔の陰に、そんな苦労があったなんて知らなかった。
    晩年は息子一家に囲まれて幸せで良かったね。
    たくさん可愛がってくれて、本当にありがとう。

    ユーザーID:1037470333

  • 大変な時代だったのね

    亡くなった母も戦争の話を時々してくれました。
    闇市で芋を買ってきてと頼まれて、子供なら検問されることがないので
    真夜中に電車を降りて暗い山道を芋を運んで帰った話
    空襲で人がたくさん亡くなった話
    炊き出しや遺体焼場で受付にかり出された話とか
    その時代に生きているとそれが日常だったんでしょうね

    それから高度経済成長で発展して
    今は皆がケータイ持ってお店に行かなくても何でもできる時代
    激しく移り変わる時代を走ってきたんだと思います

    若い人に、「ちょっと昔はケータイなんかなかったのよ」
    と言うと、「ええっ!?」とびっくりされます

    ユーザーID:9645409070

  • 「伝えておかなくちゃ」と

    あまり思い出したくない、話したくないことだったが、高齢になって来たので天国に召させる前に、後の世代にも語っておきたい、機会を逃さぬうちにということなのではと思います。

    貴重なお話、書き留めて市に寄贈など考えれば世の役に立ち、お祖母さんも話した甲斐があったと思われるかも。

    ユーザーID:4806116610

  • 私の祖母

    もう10数年前に亡くなりましたが、私の祖父母も戦争体験者でした。
    祖父は徴兵されて戦地にも赴いています。
    私の知っている祖父はお酒好きで、少しぼんやりした人でした。
    今でも馬に乗った軍服姿の祖父の写真があります。

    祖母は雑炊や麦めし、小麦粉のお団子が嫌いでした。
    白いご飯が食べられず、麦やあわやひえ、いも類ばかり食べていたので、もう見たくもないと。
    今は雑穀ブームなのでもてはやされますが、祖母は嫌がってました。

    祖父は早くに亡くなったので、あまり戦争の話はしませんでしたが、祖母はたまにポツリポツリと言ってましたね。
    もっと話を聞けば良かったと大人になってから後悔しています。

    ユーザーID:6611215246

  • 離れた地域の人はどこまで知っていたのだろうか

     原爆の情報は厳しく統制されていて、広島に落とされた翌日の新聞では単に新型爆弾という呼び名で、爆弾の威力に関してなんだかよくわからない情報が書かれていました。長崎への爆弾投下は、翌日の新聞の記事になりませんでした。

     原子爆弾という言葉が新聞に初めて登場したのは8月11日で、それも単に米国がそういう爆弾を使ったという声明を伝えているだけで、その威力に関しては、なんだかよく分からない内容です。

     8月14日(終戦前日)になって、原子爆弾が落とされたという情報が新聞に出ますが、壕の中に入っていれば真上で爆発が起きても大丈夫といった、原爆の威力を過少に表現した内容です。

     原爆に関しては、終戦後に色々と分かったというのが実際で、終戦前に「次は原爆がここに落ちるぞ」と、落とされた現地から離れた場所の一般人が恐れたというのは、私にはちょっと信じがたい話です。

     おばあさんは、実体験と戦後に知った情報がごちゃまぜになってそういうことを言われているということはありませんか。

     つまり、認知症症状の始まりなのではないかと、残念ながら私は思ってしまいます。

    ユーザーID:6852678327

  • 全く話を聞いたことが無いです。

    父は被爆者です。
    当時14歳。
    8月6日のその時は建物内にいたため熱傷などはありませんでしたが
    自宅は爆心地から3km以内なので被爆しております。

    父は昔から饒舌で、幼少期や戦時中の話は結構聞いたのですが、
    原爆の話については全く聞いたことが無いです。

    ただ、父の叔父は骨も残さず焼死したのだと、
    それだけは聞きました。

    ユーザーID:3431754771

  • 結果的に「空襲がなかった」だけ

    私の両親も両祖父母も戦前からずっと京都市内で暮らしていて、ついに空襲爆撃にあわないまま終戦に至ったけれど、父の生家は建物疎開の為に終戦時には半壊状態だった、と聞いています。
    その頃には建物を取り壊すための人手が足りず、遅々として取り壊しが進まなかったことが「半壊ですんだ」理由らしい。

    いま、ふとその話を思い出して、ざっと調べてみると、
    「なぜあの時期に、あの場所の建物を取り壊す必要があったのか」
    いろいろと疑問がわいてくる。

    戦後しばらくして建て直し、いまもその家屋は建っていて、人が住んでいます。

    金沢市内でも建物疎開(と称する強制取り壊し)は行われており、全国各地の市街地においても同様であったようです。


    祖父母は私が10歳になるまでに鬼籍に入ったので、離れて暮らしていたこともあって戦時中の話は聞いたことがありません。
    父は、戦時中はまだ子供だったけれど、たまに戦中終後に見聞きしたこと、それについて思ったことを話すことがあります。
    たいがい人間の汚く、狡く、残酷な部分が透いてみえるような話です。
    (いやですねぇ、私もそういうところに目がいく性質だから)

    母の話は、ほぼ食べ物にまつわる話。
    戦中戦後以外の思い出話でも、いつも食べ物の話がでてくるのだけど。

    つらい思い出を言葉にすることですこしでも心の重荷がおろせるのなら・・・聴きましょう。
    どんな言葉を掛ければいいのかわからないし、ただ聴くことしかできないけれど。

    ユーザーID:9894316284

  • 貴重なお話ですね

    そういえば私が中学生の頃、先生が私たちにこう言ってました。

    「皆のお爺さんお婆さんを大事に。昔の色々な話を聞いておくとよい。自分たちが実際体験した話だけでなく、そのまたお爺さんお婆さんが教えてくれた昔話も覚えているかもしれない。そうすると、ものすごく昔の貴重な話が聞けるよ」と。

    確かにそうだな〜と思いながら、私自身はなかなかそんな機会がなく祖父母はとうにいなくなってしまいましたが。

    トピ主さん、そして小町をご覧の皆さま、可能でしたら是非今生きておられる方のそのまた祖父母のお話を聞いてみてください。

    ユーザーID:3455470573

  • 今年初めて知りました

    祖父母が戦時中に広島にいたことは知っていましたが、それ以上はあまり話してくれませんでした。
    今年祖母が亡くなり、初めて戦中に呉市にいた事を知りました。
    「えっ?この世界の片隅をリアル体験してたの?」と。

    祖父から見ると曾孫にあたる兄の子供達が、自分のルーツを知りたがり兄が祖父の戦中の手記を文章に起こしました。
    そこで徴兵されて広島にいたこと。原爆投下翌日に救助に入り原爆ドーム付近に滞在し、二次被爆していたことを知りました。

    今年、祖母の慰霊も兼ねて広島と呉に旅行に行きました。
    オバマ大統領の影響もあるのでしょうが、海外からのお客様がたくさんいらっしゃってました。
    お互いがお互いの国を訪ねることが平和の礎になればと願うばかりです。

    ユーザーID:0395840360

  • 原爆。。

    祖父が広島の被服工廠で被爆しています。私が小学生の時、夏休みの宿題で「戦争の頃の話を聞いてくる」というのがあって、祖父に被爆の時のことを聞きました。

    ちょうど軍隊の朝礼の時で、祖父は爆心地を背にした形で立っていたそうです。何か光ったというか白くなって、次に気がついたらみんな倒れていて祖父が持っていた鉄でできた銃がぐんにゃり曲がっていたそうです。そういった話を聞いた後、祖母や母は「こんな話聞いたの初めてだね」って言ってました。祖父とお風呂に入ると背中にすごいケロイドがありましたが、詳しい話を聞いたのはその時が最初で最後になりました。たぶん子供に聞かせたい話ではなかったんだろうなと思います。

    ただ、「電気技術者」様がお書きになっています通り、祖父が広島にいると知っていた祖母でもその時は詳しいことは全くわからなかったそうなので、離れた地域の方がどの程度知っていたのかなという点は私にもよくわからないです。東京大空襲でも近所のお年寄りの話では情報が統制されていて、日本橋側から深川(被害がよりすごかった)に渡る橋も封鎖されていたと聞いたことがあるので。

    でも、そういったことも含めて、当時を実際に知る人のお話ってものすごく貴重だと思います。

    ユーザーID:1818141330

  • 月日の流れ

    戦後長らくの日本での話。

    NHK第一の午後、毎日やっていた「尋ね人の時間」。 「中支、なになに連隊の何々中尉殿、ご無事でしたら、ご連絡下さい」。 「ビルマ戦線のなになに中隊の皆さん。 ご連絡を!」等々。 あれの録音盤は無いのでしょうか?  

    東京都庁の壁にかかっていた布地に書かれた「引揚者の皆さん、ご苦労様」の文字。 省線電車から見えました。 

    大概の学校の在校生・卒業生名簿。 名前と住所が黒枠の箇所の多かった事。 そして見る「南洋諸島・戦死」、「満州・戦病死」、「生死不明」等のルビ。

    そして世間で実に多かった夫と死別した方々。 テテ無し子も同じく多かった。 社会問題でした。  「戦争孤児」です。 泣けてきます。  

    欧州諸国もひどかった。 特に独逸。市街戦が行われた多くの町々。 逃げた先の近くの河が赤く染まった話など珍しく無かった。 今でも記念集会が開かれております。 避難所の村の教会が爆撃を喰って全員焼死とか、、、。 

    私たちは其の生き残りです。 

    ユーザーID:0129772419

  • 原爆の噂はあったかもしれない

    >原爆に関しては、終戦後に色々と分かったというのが実際で、終戦前に「次は原爆がここに落ちるぞ」と、落とされた現地から離れた場所の一般人が恐れたというのは、私にはちょっと信じがたい話です。

    以前読んだ戦争体験記にも、「次はここに原爆が落ちるかもしれない」と危惧している一般人の描写があったように思います。原爆の実際の威力などははっきり伝わっていなくても「強力な爆弾が広島に落ちた」程度の認識が、一部の人にはあったかもしれません。

    実際、二重被爆した方は6日に広島で被爆した後9日に長崎に戻り、仕事場の同僚に広島原爆の報告をしてる最中に2度目の被爆をされてるので、もしトピ主さんのおばあさまの土地にも、広島から生還された方が終戦日までに戻ってこられていていろいろお話をされ、噂が広まっていたとしたら無い話でもないかなと思います。

    私も是非おばあさまの体験記をまとめてネットや書籍で発表してもらいたいです。読みたいです。

    ユーザーID:3183632634

  • 覚えておきたいのは楽しかったことだけ

    現在103歳になる私の祖父は戦争に行ったはずですが、戦争の話はしたことありませんでした。今はもう認知症のため、存命ですが話を聞くことはかないません。
    そんな祖父に教えてもらった話として唯一覚えてるのは、ちょっとした自慢話でした。物理だか化学だかをやってた祖父は軍人でも研究職だったらしく、ある日直接の上官ではないけれど、階級の上の人が来た時にわざわざ馬から降りて「○○くん、元気にやってるか?」と声をかけてくれた、という細やかな自慢話です。
    大陸にも行ってるので、色んなことを見聞きしてるはずですが、話してもらえませんでした。
    もしかしたら、辛かったことは思い出したくなかったのかもしれません。

    ユーザーID:2147926709

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