武蔵語源?

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むさいむしゃ

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武蔵の語源って諸説あって、本当の事は定かでない。でも、元々相模と一緒に、ムサとか、サシとか呼ばれれてて、前者の例だと、ムサ上→相模、ムサ下→武蔵となったとしています。でも、上総、下総、上野、下野の例から、上下はいづれも前に置かれているので、ちょっとって感じ。後者だと、サシ(焼き畑の意か?)で、サシ上→相模、身の(中)サシ→武蔵と言う事らしい。これも上下が後、しかも身のって苦しい。ちなみにサシ下って下総の猿島郡のこと?私見では、相模の枕詞、サネサシに注目したい。核サシ(相模)に対して、実ノサシ(武蔵)即ち、武蔵は核(さね)をくるむ実の如き、相模にとって重要な後背地と言う訳。その後、サシの意が忘れられて、武蔵は、ムサの国となる。荒地が多く、武蔵野はむさ苦しい草ボウボウだった。そしてサネサシはムサ上に。(より京に近いムサ、上ムサは言いづらかった?)そして、防人の例からも、武蔵は早くから強兵の産地の武者所、宛字も武蔵になった。なんとも御都合主義の私見でしたがどうでしょうか?

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    >上総、下総、上野、下野の例から、上下はいづれも前に置かれているので

    前というのが何なのかよくわかりません。

    上総、下総、上野、下野、いずれも京に近い方が「上」で遠い方が「下」ですよ。上野と下野の間には両毛線という鉄道路線がありますよね。

    鉄道の上り下りは東京中心ですけど。


    それと、「上野=コウヅケ←カミツケヌ=上毛、下野=シモツケ←シモツケヌ=下毛」と「毛:エミシ=毛人」に由来しているそうです。

    武蔵と関係ありますかね?

    ユーザーID:3639246514

  • サシが〜

    サシがポイントですね。私見ですが 旧国割で観ると それぞれの国府もしくは国分寺がサシにあたると考えます。 従って相模の国と武蔵の国の関係は隣接する間柄だけ、武蔵の国のサシは名の如く府中。千葉房総半島には香取神宮をサシとしたので上総としたと思います。全国的に大きな地域がまとまったのは中世 戦国大名によるもので それまでは 国府・神宮・寺などがサシで一定の地域で相互流通のあるところで[上下]がついたと考えます。相模と武蔵は間に多摩丘陵があり 頻繁な交流はなく独立した旧国であったと考えます。

    ユーザーID:3055734063

  • ミヤコからの距離感

    上下、上中下、は地図上の遠近ではありません。 ミヤコからいにしへの旅行手段であった船旅の先着順で上下なり上中下が決まってきたものです。

    例えば、ミヤコから美濃への旅程は地図上では近いですが、当時の事情を鑑みると越前の方が近いというか先に辿り着くかも知れません。

    上総、下総も船旅も考慮に入れて考えた方が無難かと。

    聞いた話ですが、沖縄地方の方に京文化が残っているのも船旅だと直行するから、だとか、、、、と。 途中、山あり、谷ありで辿り着く文化には時間が掛かります。 京より山あり、谷あり、川ありでない方が京の文化に近い関係があった筈です。 

    するってーと、ミヤコから武蔵に下向する場合はどの道順で通っていたのでしょうか? 半分は船旅では無かったでしょうか? 一番安全で近い港から南に下って武蔵に辿り着いた可能性も無きにしもあらず。

    以上、全くのまた聞きです。 

    ユーザーID:9740711829

  • 大和歴史から芋づる式に 苦し紛れかも

    大和歴史で重要なのは、大和朝廷から派遣を送った先であるところの「埼玉(さきたま と 発音)」であるらしい。さきたま古墳群が有名だが、そのなかの「稲荷山古墳」から出てきた劔に刻まれてた文書がその事柄の決め手らしい。

    そこまでは、調べたことがあるのだが、ある説によると「武蔵」の定義は荒川と利根川に囲まれた、湿地帯であり、その地は上記のさきたま古墳のあたりらしい。湿地大で在るから「蒸さくるしい」。要するにこの地は蒸すらしい。この蒸すが鈍ってムーサになったという。

    そこまではわかるが、ムーサからムサシへの移行したのは小生には不詳である。

    ユーザーID:1714704869

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