寝台特急列車富士が走っていたころ

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ぎんねこ

私の小学生時代の夏の思い出といえば、東京駅の銀の鈴付近の日本食堂で、父や母と兄と一緒に早めの夕食を取り、(ハンブルグステーキやミートソーススパゲッティ、五百円定食でした)午後六時半か七時ごろから、特急寝台車富士号に乗りこみ、九州の大分に帰省することでした。
小学一年生の私にとって、寝台車は画期的な乗り物で、二つ違いの兄と一緒に一階席寝台に二人で寝ていました。二階には母、三階には父が乗って寝ていました。確か寝台は乗った時点で、もうつくられていたと思います。
当然興奮で眠れなく、兄と長い時間話したり、途中の駅を覗いたり、夜遅くまで起きていたものでした。毎年、ブルートレインで帰省したものです。
ある年は、台風が来て、山口県のとのみという名の駅に十三時間停車したり、いろいろなことがありました。
新幹線が名古屋までしか通じていなかったころのお話です。

懐かしのブルートレイン、昭和の小学生時代にタイムスリップしたつもりで語り合いませんか。

ユーザーID:1274442509

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  • 21世紀初頭にはまだ走ってました。

    当時海外駐在でしたが年末年始帰国し、年末から年明けまで大分の私の実家、2日に移動して神奈川の女房の実家に行く移動に使いましたよ。

    当時2歳の娘と女房が1段目、私が2段目、その頃はもうB寝台3段は無くなってたかな?

    下関あたりでお弁当買って食べたけど夜食かな?
    熱海か小田原で降りて平塚まで在来線に乗り換えたように思います。

    ユーザーID:7270332961

  • 働いてましたけど

    年末やお盆休みの前は、仕事が5時前に終わると、定時のチャイムと共にロッカー室に駆け込み、横浜から鹿児島行きのみずほに乗ってました。

    新幹線は博多まで通ってましたけど、少しでも早く実家に帰りたかったのと、寝ている間に着くのと、昼間に何時間も座ってるだけ(退屈)という違いがありましたから。

    夕食は弁当、朝食はパン。
    旅のお供は本とパイの実とチェルシーでした。(キヨスクで選ぶとどうしてもこうなる)

    一度だけ同じ敷地内で働いている人たちと一緒になったことがあります。
    (会社近くの同じ旅行会社で手配するからね)
    共通の知り合いがいて、話がもりあがりました。
    そのときは、なにかトラブルがあって二時間以上遅れたんですが、少しずつ盛り返していって、私が降りる駅では遅れは二時間切っていて、特急料金の払い戻しがなくて少しがっかりしました。

    寝台列車から降りた人たちが顔を洗ったりするような、八角形か十二角形の洗面台も九州新幹線が鹿児島まで通ってから、撤去されました。

    ユーザーID:6538456364

  • ザ、昭和

    私は、幼稚園の頃、東京から鹿児島の往復ではやぶさに時々乗っていました。
    寝台車なつかしいです。母と寝台車の一番下に互い違いに寝たのを覚えています。

    又、どこの駅だか忘れましたが、私が体調を悪くして車内にお医者さんが来てくれた事がありました。今ならあり得ない、良い時代だったのですね。

    ユーザーID:2392152985

  • 乗ったことはないのですが…。

    自営業をしている家庭で育ちました。

    扱っている品物が九州の産地が多かったので、季節ごとに九州各地から問屋さんが何人かお見えになりました。

    大きな鞄に新商品やおすすめの商品をたくさん詰めて、そんな鞄をふたつみっつ持って、我が家にやって来ていました。

    お土産の九州のお菓子とともに楽しみだったのが、富士の切符を持って来てくれること。
    問屋さんたちは東京駅で下車する時に駅員さんに頼み込んで、切符を貰って来てくれたのです。

    大分、下関、門司、小倉など、子どもにはそれがどこなのかも分からないけれど、遠い九州の駅名に思いを馳せたものです。

    いつしか問屋さんたちも得意先を時間をかけて回ることもなくなり、季節ごとにカタログとお菓子を送ってくるだけになり、また、商売自体も両親の代で畳むことになり、問屋さんとのお付き合いもなくなりました。

    でも、未だに「富士」という寝台特急の名前を聞くと、乗ったことはなくてもはるばると九州からやって来てくれた問屋さんたちのこと、半年に1回程度しか会わないのに、切符1枚のことを覚えていてくれた問屋さんたちのことを思い出します。

    ユーザーID:7427961673

  • トピ主さん

    寝台特急富士は当初日豊線の終点西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)まで走っていたことをご存知ですか?日本一長距離の寝台列車だったのですよ。
     大学時代東京から西鹿児島まで富士で旅行したことがありましたが大分まではまだいいのです。大分から先の西鹿児島までが遠いのなんの。
     トピ主さんの乗られた当時の富士は三段ベッドの頃ですね。その後二段ベッドになりましたよね。たまに動画サイトで富士のラストランを見ています。
     駅弁も懐かしいですね。今でも下関駅の幕の内弁当忘れられません。下関で機関車交換があるので約五分停車していましたね。
     寝台特急富士青春の思い出の夜行列車です。

    ユーザーID:3644882802

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  • 昭和四十五年ぐらいのころです

    私が小学一年生のころは昭和四十五年です。確か東京駅で、ファンタグレープの瓶を買い飲んでいたら、白いレースのジャケットにこぼしてしまい、親に怒られました。大丸で、一つだけみやげを買ってやると母に言われ、三百六十度ぐるっとまわる扇子を買ってもらいましたが、列車に置き忘れてなくしてしまいました。
    当時の寝台車は、三階まであるB寝台で、一階の座席が一番高価で、三階がいちばん安かったと思います。又揺れは三階は大きいので、父親が寝てくれました。二階三階には、はしごを使って、上りました。
    八角形か円の洗面台覚えています。朝山口県を走っているころ、顔を洗い、食堂車でお味噌汁の朝食を母と食べていました。
    下関のあたりで午前中十一時近かったと思います。旅のお供は、チキン弁当。まだ東京駅で売られているようですが、チキンライスにから揚げがついて結構いいお値段でした。食べ盛りの私はたんぱく源を意識して食べていました。
    日本食堂の思い出も、懐かしく感じます。今だったら大丸やグランスタで高価なお弁当買っているかもしれないけれど、列車の食事、駅での食事をささえたのは日本食堂でした。懐かしい企業です。

    ユーザーID:1274442509

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  • 懐かしぃ〜

    小学生の頃、夏休みに宮崎の母の実家に行くのに何度か乗りました。

    兄と二人で大興奮、二段ベッドに登ったり降りたり、列車の中を探検したり。
    同じような年頃の子たちと仲良くなってベッドの上でトランプしたり。

    また時間にゆとりが出来たら乗りたかったなぁ。

    ユーザーID:4168366640

  • 日豊線

    日豊線の小さな駅が父の郷里だったため、どこで乗り換えたか、途中で在来線に乗り換えるのですが、それが結構遠かった覚えがあります。今だと在来線の特急には、ソニックが通っていて、昔の様相はないのですが、別府や大分しか、富士は止まりませんでした。
    ちょうど父の実家の前を富士は通過します。子供心に特急だと思うと、速く感じられわくわくしたものです。
    帰りは別府駅から乗車して、親戚との別れをしみじみとしたものでした。

    現在は新幹線で半日ぐらいで帰省できますが、便利になったものですね。
    私の日豊線の最南端は、宮崎までです。鹿児島までは、まだ行ったことないですね。

    ユーザーID:1274442509

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  • 合格発表で上京

    平成初期の高校生の話でもよいでしょうか。

    地元大分から、東京の大学受験と合格発表のために富士に乗りました。
    特に合格発表時、確か昼前に東京駅に着き、それから大学へ移動。
    そして合格発表を見ました。

    その大学に進学し、東京で就職もして長くなりましたが、当時は上京時のワクワク感がありました。

    ユーザーID:1978317554

  • 鹿児島

    母の実家が鹿児島だったので、
    昭和50年代の小学生の頃、いろいろな乗り物に乗って帰省しました。

    ブルートレインは、はやぶさ、富士、さくら に乗ったのを覚えています。

    さんふらわあ というフェリーで帰省したこともあります。

    兄弟だけで、飛行機に乗った時は、ジュニアパイロット という名前があったような。

    暖房の出る吹き出しのところ?に、プラスチック?ポリ?(ペットボトルはまだなかった)ボトル入りのお茶を置いて
    温めていたのを何故かよく思い出します。
    時間がゆっくり流れていました。

    ユーザーID:9327381596

  • 日豊本線はね

    盲腸線みたいなものですよ、大概の列車は大分か宮崎まで、鹿児島行くなら鹿児島本線の方がずっと早いし(笑)。

    ブルートレイン時代も鹿児島行きは鹿児島本線経由で日豊本線は宮崎止まりではなかったかと思います。ずっと単線ですしね(笑)。

    ユーザーID:3667908160

  • 乗ったことは無いが

    バイト行くので下関駅を利用してたのですが、そこでよくブルートレイン見かけました。
    うどん屋があってそこでうどん買う人とかいっぱい見ました。
    後、高校時代宇部駅から寝台特急富士を眺めた記憶ありますね。

    ユーザーID:1973712675

  • 弁当のお茶

    昭和のころの弁当のお茶というと、注ぎ口のついて、ふたがコップになるプラスチック容器のもので駅弁のお供で売られていました。中身は熱い日本茶でした。駅員さんが注いでいたんでしょうか、確か、二十円とか、三十円とか安かった思い出があります。なんであんなに安かったんだろうと思います。
    今だったら、衛生を考えて、ペットボトルですよね。便利な世の中になったものです。
    東京駅で、弁当を夕飯に買うこともあったのですが、親のほうは幕の内弁当を買っていましたね。
    私が、洋食の作法を覚えたのは、銀の鈴近くの日本食堂でした。父に習って、五百円のハンバーグステーキでナイフやフォークの使い方を覚えました。五歳のころだったと思います。初めて、ミートソーススパゲッティを食べたのも日本食堂です。チーズを掛けてあるのが珍しかった思い出があります。
    今から七年前、まだ日本食堂が営業していたころ、亡くなった母と、ハヤシライスを思い出に浸りながら、食事しましたっけ。
    家族との東京駅での食事の思い出がある老舗でした。

    ユーザーID:1274442509

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  • 一度も乗ったことはありませんでした

    [さくら]と[はやぶさ]なら乗ったことがある。

    葬式テツの撮りテツを東京駅で最終日にやったことがあった。

    戦前の新鉄道唱歌にも出てくるように最初は東海道本線の蒸気機関車にひかれた特急で、戦後は新幹線ができる以前の東海道が電車特急の時代に、東京―宇野間と東京―神戸に1往復ずつ走っていた。ほかの電車特急の多くは大阪までだったが距離をより長く走っていたわけだね。
    新幹線が最初にできたのは名古屋までではなく新大阪だったが、東海道本線に走っていた電車特急で[こだま]は新幹線に、[つばめ]と[はと]が同時に全線電化された山陽本線の特急に移ったが、[富士]はブルートレインの仲間入りをした。日豊本線経由で西鹿児島行は最後まで残っていた24間以上走る列車だった。途中で宮崎までに短縮されたことで24時間以上運転される列車はわが国の旅客列車からはなくなった。それ以前に急行の桜島(鹿児島本線経由)・高千穂号やながさき・させぼ号など24時間以上運転の列車はあったけどね。
    最近、御殿場線でイベント列車で富士号が走ったらしい。さくら号もみずほ号もはやぶさ号も、つばめ号も含めてみんな新幹線に行ってしまった。東京発鹿児島中央行というのができたらそこに富士の愛称を復活させたい。乗りとおす人があまりいないかもしれないが。

    とのみ…富海駅だな。偶然にも同じ字が入って海と組み合わせの駅で止まっていたとは。

    50年ぐらい前の本でも、いずれ寝台車はなくなるという予言みたいなことが書かれてあったが、本当にそうなってしまったんだな。

    ユーザーID:3608364760

  • 思い出の寝台特急は「あさかぜ」

    平成の初頭より山口県の実家に帰省するために幾度となく使っていました。便利で快適でこれほど楽しい列車の旅はありませんでした。

    仕事が終わって横浜駅で夫と待ち合わせ、お弁当と飲み物、軽い朝食を買い込んで乗り込むワクワク感。車中のお楽しみは4コマ漫画雑誌。松本清張の文庫本も必ず持ち込みました。「あさかぜ」の寝台で読む「点と線」は何度目でも面白かった。
    夫は下段で私は上段という決まりでしたが、向かいのベッドに人がいた記憶はあまりありません。今思えば寝台列車衰退の兆しはそんなところにも見てとれました。

    朝7時台に柳井駅に着くと、父が車で待っていてくれました。8時には実家で2度目の朝食です。新横浜もしくは東京駅から新幹線で広島まで行き、それから在来線に1時間以上ゴトゴト揺られ、さらに父の迎えの車で数十分という旅程より、1日をなんと有効に使えたことか!

    「あさかぜ」の切符を私が自宅に置き忘れ、横浜駅で待ち合わせをした発車1時間前に気がついて夫が取りに戻ってくれたことも、今となっては良い思い出です。
    最短でも片道30分かかる自宅まで、本当に最短の往復1時間で切符を握り締めて帰ってきた新婚の頃の夫は頼もしく思えましたが、もしも寝台列車でなければ1時間も前に待ち合わせはしていなかかったはずで、最悪切符が間に合わなくても新幹線で追いかけて静岡県内のどこかで乗り込もうなんて考えは浮かびようがありませんでした。

    ユーザーID:8078021919

  • 見ることに困難を極めました

    私は大阪府の東海道本線沿いで育ちました。トピ主さんと同世代です。

    故に、当時の東京発九州方面行きの寝台特急「富士」を始め「あさかぜ」「はやぶさ」「さくら」「みずほ」などは、深夜に通過する列車でしたので、鉄道ファンの小学生にとっては憧れの存在でしたが、その姿を見ることは本当に難しいものでした。

    でもその気持ちを抑えられずに、6年生だったと記憶してますが、友達と4つ下の弟を連れて、深夜1時頃に近くの線路まで見に行きました。菓子パン持参で。

    夜9時には寝ていた私にとって、夜更かしも相当な苦労でしたが、ヘッドマーク付きの寝台特急を初めて見た感動は今でも忘れられません。

    仕方がないことですが、大阪駅を通過(運転停車のみ)することに、当時は憤慨してました。

    乗車した記憶ではなく申し訳ないですが、寝台特急富士と聞いて思い出しました。

    ユーザーID:0761903243

  • こんにちは。

    ブルートレインは一度も乗車したことはないんですが、僕は昔から時刻表を見るのが好きでそれだけでも旅気分になれましたね。
    それに令和になった今はサンライズ出雲・瀬戸だけになってしまいましたからね。
    然も電車ですからね。
    以前は夜行列車というと電気機関車に客車を連結したのが普通でしたからね。
    それが今や夜行高速バスに変換してしまいましたからね。
    まあ時代の変化ですよ。
    昔のブルートレインは東京から東北北海道それに九州へ毎日運行されてましたからね。
    近いうちに是非一度ブルートレインを期間限定で各方面へ運行してほしいですね。
    何せ全国の鉄ちゃんが大喜びしますからね。

    ユーザーID:2810441354

  • とても懐かしいです

    別府市在住です。

    両親が千葉県に帰省する際利用していました。
    私も25歳の時(昭和45年)東京の親戚宅へ
    遊びに行くときに乗りました。

    そのほか別府駅での見送りも数知れず・・
    あの頃、別府から上京すると言えば「富士」でしたね。

    35歳(昭和55年)に上京するときは
    飛行機に変わっていました。

    まだまだ若かった青春の思い出です。

    高校の修学旅行(昭和38年)も汽車で東京へ。
    「富士」とかでなく長時間(一昼夜?)乗りました。

    東京に着いたとき夕日か朝日か記憶にないのですが
    ものすごく大きな太陽が地平線に輝いていて
    「別府の太陽と別物みたい」と驚いたのを覚えています。

    ユーザーID:3116391623

  • 富士には乗ったことはないけれど

    ブルートレイン瀬戸には乗ったことあります。
    今でこそサンライズ瀬戸として四国まで繋がっていますが、当時はまだ瀬戸大橋もなく、四国から東京は遠かった。
    高松から関西方面に行くにも夜行の船で行っていました。

    ところで、新幹線が名古屋までしか通じてなかった時代ってありましたか?
    私が幼稚園くらいの時に、幼児雑誌には「東京大阪間を4時間で走る夢の超特急」として載っていて、ワクワクしながら見ていたのを覚えています。
    確か東京オリンピックに合わせて突貫工事で東京大阪間開通を間に合わせたはず。
    幼稚園の頃には、「夢の超特急」に乗るのを夢見ていました。

    ユーザーID:5240076726

  • はやぶさ と さくら

    昭和30年代後半から40年代にかけて、祖父母の家が佐賀だったので、帰郷するときはそのどちらかに乗ってました。
    食堂車が付いていて、高校卒業した時、一人で乗って一度だけ食堂車で朝ご飯を食べました。いわゆるイングリッシュスタイルで、トースト・ハムエッグ・オートミールなどが出た記憶があります。
    初めて見たオートミールの食べ方がわからなかったっけ。

    ユーザーID:8874739530

  • 新幹線の名古屋は

    私の勘違いで、新幹線は開通当時から、東京新大阪間でしたね。名古屋に母の実家があったため、もう一つの帰省は新幹線をつかっていました。
    そのためその先の道のりが小学校一年では頭になかったのです。
    東京名古屋間が二時間で行けたのに対して、ブルートレインは、長い道のりでした。兄と二人でカーテンの陰から窓の外を覗きながら、おだわらとか、あたみとか駅名を読んでいました。夜遅くなって、京都のあたりを走っていたり、広島とかそのあたりで、夜が明けたような記憶があります。
    子供心に不思議に思ったのは、駅名の書いていないのっぺらぼうな駅でも停車していました。不思議な駅だと、兄とおしゃべりしていました。
    兄は、小学校高学年では一人旅でブルートレインに乗り、九州を旅していました。
    自分の机の椅子の入るところをブルートレイン仕様に紙を貼ったり改造して、寝るときは「発車しやす」と車掌の真似をしていました。椅子の入るところに頭を突っ込んで寝ていました。
    考えてみると熱烈なブルートレインのファンでしたね。

    ブルートレインのおかげで楽しい小学生時代だったと、兄妹で思っています。

    ユーザーID:1274442509

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  • 寝台特急列車富士カムバーック

    やはり寝台特急列車が日本に走っていたというのは、昭和のロマンだったと思います。期間限定でよいから、夏休みだけとか、カムバックしてほしいですね。
    子供が長い時間列車に乗る、寝台車で一晩眠るというのは、なかなかない経験だと思います。学校で教わることのできない、社会経験ですね。
    どなたかが書いていたけれど、フェリーで宮崎在住の伯父のところに行った年もあったし、飛行機で大分空港に降り立った年もありました。
    でも銀河鉄道999のように、旅のロマンがあったのは、寝台列車特急富士だったと思います。
    私の記憶では、最初から寝台のメイキングをしていなければ、七時二十分ごろ正確な時刻で、メイキングに来ていたような記憶があります。
    セイコーの子供腕時計で正確に覚えています。鉄道は時間に正確な世界なのだと子供心に思いました。朝も七時を越えてから寝台を普通座席に直しに来ていたような。
    結構乗り物酔いしていたので、トラベルミンも旅のお供でした。

    ユーザーID:1274442509

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  • わたしはさくら

    私は昭和43年生まれです
    母の田舎が博多だったので、羽田から飛行機で帰省したり、ブルートレインのさくらで帰省してました
    母と弟と三人で、さくらに乗って、やはり夜はなかなか眠れなくて、窓から外をみていましたよ

    真夜中の、人のいない駅を通りすぎる
    なんて素敵な景色でしょう

    懐かしい思い出です

    ユーザーID:8819348374

  • 「血の通った鉄道」という証

     寝台特急に関しては表題のように考えております.「時間はかかっても乗り換えずに目的地まで行きたい」という需要の受け皿になってきた,要は”交通弱者に優しい存在”であったと言えます.
     私は「富士」には乗る機会がなく,他の東京―九州間の寝台特急にも一部区間(名古屋―徳山間と,本州内)乗っただけでしたが,時々昔の時刻表を引っ張り出しては「こういう列車に乗ってみたかった」などと,或る種の後悔の念に駆られております.特に「富士」は,東京―西鹿児島間を24時間以上かけて走行していた時期があり(それも私が高校生の頃まで),これに乗らず終いだったのは返す返すも悔やまれます.
     ところで,列車が何処か分からないような駅で停まったというのは,九州内の単線区間での交換待ちかと思ったところですが,複線区間(東京―下関間など)でも,乗務員の交代など運転上の都合で停車する事があります.広島県の糸崎という駅(尾道と三原の間)は,一見何の変哲もない存在ですが,運転上の1つの拠点であり,時刻表の上では「通過」となっていても停まる場合があるのです.

    ユーザーID:0092087369

  • 海外では現役

    フィンランドとスウェーデンで乗りましたが個室でシャワーもあって快適でしたよ。

    ユーザーID:3667908160

  • 銀河とあけぼの

    1970年代、大阪に住んでいた小学生の頃、親に頼んで、寝台急行・銀河に乗ったことがあります。

    大阪駅を23時前後に出発して、東京駅に朝の6時頃に到着したかと思います。
    初めて乗ったコーフンと寝心地の悪さで、ロクに眠れませんでしたが、明け方の車窓から、早朝の部活に出かけるらしい自転車の女子学生が見えたのが、今もハッキリと覚えています。

    …また、10年ほど前に青森に単身赴任していた頃、大雪の青森駅で見た、寝台特急あけぼの。
    屋根に雪を満載した列車が吹雪のホームに入ってきた時、言い知れぬ感動に襲われました。
    まさに、「津軽海峡・冬景色」の世界でした…。

    2013年、東京に帰任する時は、自腹を切って、あけぼのの個室寝台に乗りました。
    一番高い駅弁と日本酒を奮発して、夜中の1時頃まで起きていました。

    そのあけぼのも、今はありません…。

    ユーザーID:0092765553

  • そうだな、上野発の夜行列車のほうが印象にあるな

    『ゆうづる』とか『あけぼの』だな。

    昔の寝台客車はほとんど残存していないだろうから難しいかもな。
    あとは新幹線が開業して並行在来線が第三セクター化されたこともあって
    実現可能な路線が極めて少なくなってしまったと思う。

    現状だと東海道〜山陽本線か、上越〜羽越本線ぐらいじゃないかな?
    東北本線も北陸本線も第三セクターが途中にあるから難しいかもしれないね。

    今の時代の寝台特急でも楽しみましょうよ。
    定期運行しているのはサンライズ瀬戸・出雲だけです。
    電車ですからね、機関車+客車の旅情は味わえないし、
    この特急の個室も昔とは別物ですが。

    超高級なものなら、臨時のツアー用のカシオペアが一応は残ってますよ。

    ユーザーID:6124115051

  • 東京到着の朝

    ブルトレは都会のラッシュ時間帯を避けてのダイヤとなります。
    だからたいてい地方の到着は昼頃、都心の到着は早朝というパターンが多かったように思います。

    東京行きの場合は日の出眩しい湘南路をひた走りラッシュ前の各駅ホームをすり抜けて東京駅に到着。でも仕事にはまだ早いので東京駅の浴場(東京温泉)でしばしの安息を取ったことが懐かしく思い出されます。

    ユーザーID:9501589513

  • のっぺらぼうの駅の正体

    小学生の兄妹が目撃した、夜中ののっぺらぼうの駅の正体は、ちょうど時刻的に、真夜中ですので、広島県の糸崎あたりかな、と考えます。大阪を越えた先だった記憶があります。
    駅名が空欄、行先も来し方も空欄という表示の駅でした。夜中の一時半とか二時ごろだった記憶があります。
    詳しい方のご指摘で、すこし謎が解けた気がします。ありがとうございました。

    ユーザーID:1274442509

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  • 食堂車が懐かしいです

    私は一人旅が多かったので、2段寝台の場合普通席の時は知らない人と一緒に座るのが苦手で、よく食堂車で時間をつぶしました。

    大抵は軽食と飲み物だったのですが、ある時奮発してビーフシチューを頼んだのですが、予想よりはるかにしょぼくてガッカリした記憶が… 映画館や旅館と同じで、限定された場所では高いのだな、と思いました。

    ユーザーID:7711563670

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