謀反の理由

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あまのじゃく

歴史学者の方の数多の説あるのは周知のことですが。
信長は光秀を側に置いていたということは、
光秀はいわば近衛師団だったわけですよね?
とっておきの懐刀、この上ない信頼関係だったと思うのですが。
小町の皆さんはどう思われますか。

ユーザーID:6617819889

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  • なぜ光秀が近衛師団なのか?イミ分からない!

     「光秀を側に置いていた」とはどういう意味で書いているのでしょうか?
     信長の安土城が近江にあり、光秀の領国が近江、丹波で近江の坂本に居城があったことを指しているのでしょうか? 
     確かに信長が自分の居城のある近江を光秀に任せていたことから信用していたのは確かだと思います。
     しかし、当時の信長の武将は柴田勝家、秀吉などと同じく光秀も各地に派遣されて戦をしており、光秀が「近衛師団」として常に信長の側に控えていたわけではありません。
     当時の「近衛師団」に当たるのは「旗本」とか「近習」と言われた直属武士団です。
     信長が光秀の能力を評価していたのは確かでしょうが「とっておきの懐刀」などという立場ではありません。秀吉や勝家と同程度に思ってはいたでしょうが。
     そもそも信長は自分に絶対的な自信を持っていて家臣は自分が動かす「手駒」としか思っていなかったと考えられます。
     また「信頼関係」というより、そもそも家臣が自分に叛旗を翻すなどとは思っていなかったと思われます。荒木村重や松永久秀など信長に反旗を翻した武将もいますが、彼らは信長子飼いの武将というより後に信長に服属した者で信長が育て上げた家臣ではありません。
     光秀謀反の理由は諸説ありますが、いずれにしても信長と光秀の関係が勝家や秀吉などとは違う「この上ない信頼関係」だったとは思えませんね。

    ユーザーID:3155711297

  • 光秀には野心があった

    信長は気まぐれとはいえ光秀に差し当たっての危機はなかったと思います。
    だったら光秀にも野心があったのでは?

    ただ私は信長は光秀が謀反を起こさなかったとしても他の誰かの謀反で亡くなっていたと考えています。

    >とっておきの懐刀、この上ない信頼関係だったと思うのですが。

    信長と配下の間にあったのは忠義ではなく利だと思います。

    信長は功あるものを取り立てて功あるものはその功に見合った地位を手に入れる。

    配下も取り立ててもらった事に感謝はしているでしょうが、見合った功をあげているのだから恩は感じていないでしょう。

    もし信長軍団が忠義の士の集まりだったなら秀吉が天下を取る事もなかったと思います。

    ユーザーID:7648172635

  • トピ主です

    ありがとうございます。
    近衛師団と表現したのは信長のお膝元を治めていたという意味ですが、
    お抱えの親衛隊とは別の、大きな戦力を側に置き、
    いざというときの即応部隊のようにも使えたというのは、
    よほど信頼していたと思うんです。
    柴田や羽柴のような方面軍も信頼していたには違いないでしょうが、
    光秀は自分の家内のいとこであるというのは、
    やっぱり頭にあったと思うのです。
    信長の家臣団は、年功序列ではなく能力主義であったと言われてますが、
    光秀は別格であっても、身内のようにあえて辛く当たったので、
    それについていけなくなったのか?

    ユーザーID:6617819889

  • トピ主のコメント(2件)全て見る
  • 謀反を起こしそうな存在だから、あえてそばに置く

    信長の意図は、そこにあったように思います。
    なのに、なぜ討たれてしまったのか? それこそが最大のミステリー。
    むしろ、信長は討たれたかったのでないか?
    だとしたら、その理由は何か?
    トピ主さんはどう考えますか。
    私の推理は、疲れてしまったから、です。

    ユーザーID:2780153479

  • 信頼といっても

    戦国時代は自分の親兄弟でも敵味方になって殺し合うこともあったし、信長さんも兄弟を討っていますから、たとえ親族だからといって今の私達がイメージするような「信頼」を持っていたとは考えにくいです。

    時代が違ったら行動や思考のベースが違うというのは、歴史を見る時に大事なのではないかと想いますよ。

    まあ、なぜ謀反を起こす明智光秀をそばに置いていたのかは私には分かりませんけど、信長さんってものすごく頭が良くて合理的に考える人のようですから、常にあらゆる可能性は考えていたと思います。でもそのタイミングでは謀反に合理性がない=起こすはずはないとリスクを低く見た、もしくは無視したのかなと思います(実際信長親子を殺したものの他の支持はなく、政権は取れなかったわけで)。

    信長さんは、人間っていうのは合理性だけで動く訳でないってことが、本質的には理解できなかったのではないかという気がします。けっこうそれまでにも謀反は起こされてるのに。そのあたりが弱点だったんでしょうかね。

    でも頭のすごく良い人って、自分基準で考えますからね。「自分ならしない」から、それをやっちゃう人がいると「まさかッ」ってなってしまう。

    ユーザーID:6287697642

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  • 光秀は「京」との繋がりに必要だった

    信長も上洛の経験があるとはいえ、普段は尾張にずっと居るのですから、
    京に顔が効く光秀を重宝したという説があります。

    当時は、地方での言葉の壁も大きく、将軍家や天皇家に連絡手段を持てる光秀は、
    信長にとって必要不可欠な家臣だったはず。
    現在の滋賀(坂本)を任せたのも、京との繋がりを意識してでしょう。

    信頼関係は、1年前まではあったといわれてますし、短い期間で変化、
    あるいは長年の蓄積が爆発したから、謀反に至ったのだと思います。
    実行の決断は、偶然の条件によって、突発的に近い形で成された気がします。
    そうでなければ、頭の良い光秀が、三日天下という後始末の悪さを出すはずがないです。

    説が色々出るという事は、理由は一つではなく、複合だったかもしれないと思います。

    ユーザーID:0424528012

  • 千載一遇のチャンス

    謀反の理由はそれで、信長の油断以外の何物でもないと思います。

    明智家が上に立つまたとないチャンス。

    家康とて、100%の自信があって、上杉討伐に向かった訳ではないと思います。

    ユーザーID:4382185834

  • 集団の代表者

    集団の代表者は、集団の利益を何より大事にします。

    また、国家や企業のトップの座をめぐって、肉親同士が相争うのは、現代でもあることです。

    そうすると、光秀は、明智家と言う集団の利益のために謀反を起こしたと考えるのがシンプルだと思います。

    ユーザーID:4382185834

  • 信長の人格に不安があったからでは

    かなりいびられたと聞いています。
    光秀が濃姫の従兄だったという説は未確定ですし、もうそうだとしたら謀反時点で彼の利用価値はもうなかったと思います。

    信長は岐阜を攻略するために、濃姫の夫という立場を大義名分として利用します。尾張を統一する時にも『道三の婿』という後ろ盾を使いました。
    ですが肝心の濃姫はいつの間にか消えています。岐阜を手中にした時、もはや彼女に用はなかったのです。

    光秀は足利義昭とのつながりを持つために重用されていました。ですが義昭を追放して室町幕府を終わらせたとき、光秀が重心の列にいたのは彼が「使える男」だったからです。

    とはいえ信長は些細な事らも目を光らせ、自分に刃向かう者や能力がない人間は容赦なく切り捨てます。
    光秀も幾度も罵倒され、供応役を罷免されたり、人質に出した母親を見殺しにされています。

    何より彼が怖かったことは信長が神仏を恐れず、さらに朝廷を滅ぼす意向を垣間見たからだと思います。
    信長暗殺は朝廷からの密命であった、という説もありますが、私はむしろ、光秀は恐怖にかられたノイローゼ状態だったのではと思います。

    ユーザーID:3834426291

  • トピ主です

    ありがとうございます。
    なるほど、心底信用できないから側に置くという考えもありますね。
    そんな武将を遠くの敵と対峙させて、
    勝手に相手と和睦を結んで一緒になって攻め上られたら、、
    そんな危険もありますが、信用できない者を側に置くのも、
    普通なら安心できないですよね。
    度量があったのか、とてつもない自信があったからか。
    だけど、そんな背景で無理難題を突きつけられながら、
    いかに論功行賞には期待できたとしても、疲れてきますよね。
    謀反後の計画があまりにずさんだったというのは、
    やっぱり発作的、場当たり的、に思えてしまいます。
    だけど、秀吉がそれほど早く戻れるなど誰が予測できたでしょうか。

    ユーザーID:6617819889

  • トピ主のコメント(2件)全て見る
  • 用意周到

    5つの方面軍のうち、あの時点で、自由に動けたのは、明智のみです。

    あの状況だったら、明智ならずとも、信長を討ったと思います。

    信長の、是非に及ばず、は光秀と知ったからではなく、むしろ、聞くまでもなかった、その意味のような気がします。

    ユーザーID:4382185834

  • 本拠地

    >光秀はいわば近衛師団だったわけですよね?
    違うでしょ、近衛ではなく、部下の一人ね。

    本拠地(お膝元)なんて気にしてないでしょ。
    >近衛師団と表現したのは信長のお膝元を治めていたという意味ですが、
    織田家のお膝元なら尾張美濃でしょ、安土城なんて三年程度しかないでしょ。
    家督を継いだ織田信忠は岐阜城主だよ。
    安土だってその時便利というだけでしょ。
    城は清州、小牧山、岐阜で安土だよ。

    あの時代、下剋上は珍しくないよね。
    惟任日向守は幕府や公家に顔がきくから天下が取れるチャンスと思ったのが主でしょ。

    ユーザーID:2519801508

  • 四国政策の転換と新信長包囲網。

    当時、四国を統一する勢いの長宗我部氏と織田信長の仲介役は光秀とのこと。

    信長は四国政策を見直し長宗我部氏の勢力伸長を許さず、逆に圧迫する姿勢を示した。

    長宗我部氏と信長の板挟みとなった光秀は、信長排除の方向へ…という説があります。

    安土城の発掘調査によると、天皇の住まいである「清涼殿」をコピーした殿舎があり、そこに天皇を行幸させる考えが信長にはあったらしい。
    ちなみに安土城の天守閣には居住空間があり、信長はそこで実際に生活していたそうな。
    つまり高層建築物の天守閣(信長)から、平屋建ての清涼殿(天皇)を見下ろせる位置関係です。

    当時の正親町天皇は高齢。その息子誠仁親王は皇太子とみなされ、信長との関係は良好。

    天皇を凌ぐ実力を誇示した信長に対して、一部の公家が皇室を蔑ろにするものと反発し、足利義昭、公家、光秀の新信長包囲網が結成されたのかも。

    秀吉は足利義昭を匿っていた毛利家と直接対峙していたため、諜報活動の結果、新信長包囲網の結成に気がついていたのでは?
    そして彼は、光秀のお手並み拝見と言わんばかりに京都情勢を密かに注視していたのでしょう。
    彼には長浜城という拠点があったから、京都情報を適時入手できたはずです。

    ユーザーID:5733534208

  • 三職推任問題

    が原因かも知れませんね。

    信長が返事をする前に本能寺の変が起きていますから。

    まさに、兵は拙速を尊ぶ、ですね。

    その後の事は別問題として。

    三職推任問題、トピ主が気にされている関係性の理解にも、益があるかも知れません。

    ネットで、検索すれば出てきますので、よろしければ。

    ユーザーID:4382185834

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