本文へ

偽善者

レス47
(トピ主 0
041
ともだち
ひと
 偽善者という言葉があります。「偽善とは何か」を 高校生の頃から悩んでおります。普段「偽善」で という言葉は「人の善なる行為が真心からでたもので なく、俗な表現をすれば下心のある」行為をさすと 思います。  けれども、実は自分が相手のためを思ってした 行為でも、受け手に誠意が伝わらないと偽善である ことになるように思います。  また、厳しい目で客観的にみますと、「相手のため をおもってした行為」であっても所詮は「自己満足」 にしかすぎまん。このように考えると、すべての 行為は偽善であることになってしまいます。  みなさんは普段自分のことを「偽善者」だと 思われますか?また相手の好意を「偽善」であると 感じられたエピソードを聞かせていただけませんか? さらに、「偽善」について思われることを何でも 聞かせてください。

トピ内ID:

これポチに投票しよう!

ランキング

レス

レス数47

このトピックはレスの投稿受け付けを終了しました

偽善が悪い?

041
芳野
自己満足で、周囲の羨望のまなざしを受けたくて他人に親切にすることは悪いことでしょうか? いずれ自分にも利益が還ってくるであろうことを期待しての善意は悪いことでしょうか? 大企業が自分の会社の宣伝も兼ねて寄付をしたりしますね? あれははっきり言って偽善でしょう? でもそれで助かる人がいるのは事実です。 偽善だって善意です。 私は必要悪だと思います。

トピ内ID:

...本文を表示

こんなのどう?

041
りんりん
『人の為と書いて偽りとなる』中国語の先生に教えられました。さすが中国四千年の歴史、なるほどとうなりました。

トピ内ID:

...本文を表示

答えなどない

041
偽善者?
いくら考えても、完璧な一つの答えなんて出ませんよ(笑) 言葉にしても、物事や言動にしても、捉える側の心理はさまざまです。 10人いれば10通りの考えが存在するわけで。 いくら考えても、たくさんの答えが出てきて混乱するだけではないでしょうか? それでも、考える事には意味があると思いますがね。 私の考える偽善は、自分から発する物としては「親切な自分に酔っているだけの親切」「見返りを求める親切」など、トピ主さんのおっしゃる、下心のある親切ですね。 でもホントにトピ主さんのおっしゃる通り、こちらは精一杯の親切でも、相手の受け取りようによっては偽善になってしまう事もあると思います。 でも私は、相手の受け取り方はあまり気にしないようにしています。 相手の取り方を気にして行う行為こそ、偽善だと思いますし、色んな受け取り方をする人がいますので、いちいち相手の感じ方にまで付き合ってられないというのも本音です。 自分自身が本当の親切だったと思えば、相手がどう取ろうと、自分の中では偽善だとは思いません。 相手の心は操れませんからね、結局は自分がどう納得するか?という事ではないでしょうか?

トピ内ID:

...本文を表示

正解なんてありません

041
もう
余り理屈っぽく深く考えると時間が無駄ではないですか? 人の思いには正解はありません。

トピ内ID:

...本文を表示

あります

041
はい
自分なりに相手の立場や気持ちを考えているつもりですが、あくまでも自分の内側で考えたことだから、本当に相手のためになっているかどうかはわかりません。偽善になるかもとわかっていますし、同じように偽善かもというスタンスで人と付き合うママ友さんとはすごく気が合いました。

トピ内ID:

...本文を表示

難しいですよね。

041
こども
私も偽善について昔ずいぶん考えました。 偽善者は嫌いだけど自分も偽善者だよな、と思ったり…。 私は今でも偽善者や偽善的な行為、言葉が嫌いですが、相手に見返りを求めていないのならば、やりすぎなければ、いいのではと考えています。 なので「自分の気分をよくするためのちょっと偽善っぽい行為」は、相手に少しでも感謝の気持ちを求めたり、嫌がられたときに逆切れしなければいいんじゃないかなと思います。 でも「自分の気分がいいからやってるの」とまわりにアピールしてる人に限って、「してあげたのに!」という気持ちが強いですよね…。 そんな人には近づかないように注意をして暮らしています。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善のすすめ

041
らく
丸山眞男集(丸山眞男著)の「偽善のすすめ」を是非一読する事をおすすめします。

トピ内ID:

...本文を表示

私の解釈

041
私も、所詮は自己満足だと思います。 しかし、自分が満足して悪いということは何もないのではありませんか? その行為が「善」であれば、自分が満足しようとしまいと行為そのものの価値が変わることはないと思います。 しかし、その行為に対して、見返りを求めれば、それは偽善だと思います。 つまり、「自己満足でもいいけど、相手または第三者に見返りを求めてはいけない」というのが「善」であり、逆に自己満足さえしてなくても相手に見返りを求めればそれはもはや「善」ではないと思っています。 あくまでも私個人の考えです。

トピ内ID:

...本文を表示

私が最近感じた偽善。

041
くるみの実
「あのこのことが心配なんだけど」 と前置きをしておいて、 根掘り葉掘り何でもかんでも “あのこ”について 詮索してくるおじさんがいまして・・・ その時「偽善者だな・・・」と感じましたが・・・。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善と独善。

041
必要悪
>実は自分が相手のためを思ってした行為でも、受け手に誠意が伝わらないと  これは、独善、独りよがりというのでは?  広義のサービス業をしてますが、お客様の要望にこたえる中には偽善も入っているように思います。 でも、その偽善、まあつまり、結局誰の為にもならないことなんかでも、その瞬間は必要とされることがあるわけで。  偽善だなーと思いながら、やる何がしかもありますよ。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善も善のうち

041
にうにう
昔、日曜学校で牧師さんが偽善についての説教をしてくださいました。 「例えば名人と呼ばれる人がいるとする。その名人と全く同じ仕事のできる人がいるならその人もまた名人である。 善い行いも同じである。心の正しい人の行う善行と全く同じ事をするなら、例え自分の心がその人ほど正しくなくてもそれは善行にかわりない。 そもそも神ではない人の行う事なのだから、常に完全な善だけを間違いなく行うなど無理なのです。自分の心が正しくないのではと不安がって結局何もしないでいるより、真似でも偽善でも行った方がいいのです。」 細かいとこは違うかもですが大体こんな意味の事でした。子供心にも感銘を受け、20年近く経った今もこのお説教だけは覚えています。まあ、宗教ですからこの後は見習うべき善行として聖書とかが挙げられたんでしょうけど。 偽善とか自己満足とか、どんな心の綺麗な人のする事でもあると思うんですよ。情けは人のためならずってほんとです。結局は自分のためです。皆そうです。別にそれでいいと思いますよ。偽善も善のうち。したいのに何もしないよりいいんじゃないの?って思いますよ。

トピ内ID:

...本文を表示

1つの経験談ですが。。。

041
熱帯雨林
私は以前海外ボランティアをして同じようなことを考えさせられました。ある東南アジアの国でボランティア活動をし、期間を終えて帰国する際に議論になりました。 「私達の衣類や道具を地元の人に寄進するかどうか?」 たとえぼろぼろの靴でも地元の人にとっては有難い品々。私たちは荷物を減らして帰国したいし、どうせ日本で使わず捨てるものを、なぜプレゼントしてはいけない?!と。 結局、グループごとに議論をし結論を出すことになり、私たちのグループはすべて持ち帰りました。この時、「善」とは白黒はっきりわかる単純なものではないと痛感させられました。 ボランティアを実際にやってみて自分が学ぶことの方が与えるよりも大きかった気がして、あれは偽善だったのか?と複雑な心境にもなりました。でも今は「相手のためをおもってした行為」と「自己満足」を共存させてもいいかなと思っています。100%滅私奉公的ではなかったけれど、「両者が幸せ」になる行為も健全でいいかも、と。 「善」も「偽善」も善のうち、「悪」でないならいいかなとおおらかに今はとらえています。

トピ内ID:

...本文を表示

しない善より、する偽善

041
たまたま
「自分の自己満足なんだよね」と思って、何にもしないより、「偽善だよねこれ」と思ってもなにかをするほうがよいと思いますね。 たとえば、「足長募金」とかありますよね。 あれにお金を出すのは無駄だとか、出しても本人には焼け石に水だよ、と思うこともあるかと思います。 しかし、そのおかげで実際に助かる人たちがいるし、それをきっかけに自分のやりたいことに希望が開ける人がいるわけです。 したがって、ごちゃごちゃ考えるくらいなら、できることをするというのが良いと思います。 かっこつけで偽善を否定するより、偽善すらも肯定できる器が欲しいなぁ。

トピ内ID:

...本文を表示

人間はそんなに立派じゃないよ。

041
いちじく
誰だって、人に褒められたい、評価されたいんです。 大人でも。 すべてのことは人によく思われたくて何かをすることばっかりですよ。胸に手を当ててみればよくわかる。 そして、それでいいんじゃないのかな。 自己満足、自己愛、当たり前のことです。 誰かの為とかを追求していったら、それこそ命まで犠牲にしないといけなくなる。 だから逆に考えてはいかがでしょう。 私はいつも思うんです。 自分の幸せがあるとしたら、それは 「いつも誰かの御陰様」だと。 見えない誰かの犠牲や、許し、我慢の上に成り立っているんだと。

トピ内ID:

...本文を表示

そうですね~。

041
ふう
結論から言うと、私自身は偽善の時もあれば、偽善じゃない時もあります。 >実は自分が相手のためを思ってした >行為でも、受け手に誠意が伝わらないと偽善である >ことになるように思います。 そうでしょうか?それは本当の誠意なら必ず受け手にも伝わるはずだからということでしょうか? あと、相手のためをおもってした行為」であっても所詮は「自己満足」とのことですが、私は本当にその人のためと思ってしたことが、最近あります。これがもしその人に響かなくても、サイアク嫌われたとしてもそれでもいい、彼女のことを本当に友達だと思ってるからと思いました。 これはある意味自己満足なのだと思います。でもそこに偽善はなかったと思ってます。 偽善の時は小さなことを挙げれば、本当は心配してなくても、「大丈夫?」と声をかけてみるとか。でもそれも社会生活を送っていく上での円滑油というか、もしかしたら声をかけてもらう方は嘘でもいいから「大丈夫?」と言って欲しい時とかもあるかもしれません。 反対に偽善だなーと思うときは、被害にあったことはないですが、その最もたるが、新興宗教や悪徳商法などではないでしょうか。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善者

041
匿子
「相手のためを思ってした行為でも、受け手に誠意が伝わらないと偽善」 人それぞれですから、そう思う人がいても当然でしょう。常識・非常識の問題ではないので、変ではないですよ。 しかし、そう思わない人もいます。下心や見返りがあったとしても、感謝し、喜んでくれる人もいます。トピ主さんの「相手のためを思ってした行為でも、受け手に誠意が伝わらないと偽善」の考え方からいくと、これは「偽善ではない」という事になりますよね? 私は「思いやりを持って接したが、相手が快く思わなかった=偽善」とは違うと思ってます。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善って悪いことですか?

041
あらら~ん
>「偽善とは何か」 見返りを求める好意のことだと思います。 >けれども、実は自分が相手のためを思ってした 行為でも、受け手に誠意が伝わらないと偽善である ことになるように思います。 誠意が伝わらないと偽善ですか?ちょっと違うような気がします。なぜ受け手に誠意が伝わらないといけないのですか?相手のためを思ってしたのなら、それで良いではないですか。誠意を伝えるのは何のため?自分のためじゃないですか? 「偽善」の意味はともかく、私は偽善は悪いことばかりじゃないと思います。世の中は偽善でうまく回ってる部分もありますから(社交辞令の全くない世界って想像すると恐ろしいですよ?)。大切なのは、偽善を恐れず、見抜く目を持つことだと思います。

トピ内ID:

...本文を表示

やらぬ善よりやる偽善

041
にゃんこ
「そんな行動は偽善だ」と言って何もしないより、偽善でも行動を起こす人の方がよほど立派。 偽善、大いに結構じゃないですか。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善になるから、やらない

041
うず
・・・なんて言う奴がいちばん嫌いかも(笑) いちばん大事なのは、相手の身になって気配り・心配りをすることではないでしょうか。言葉にすれば当たり前のことですが、とても難しいことだと思います。そう思えるのは、身近に素晴らしい人を発見してしまったからです。でも、これを難しいと気付かない人が意外に多いのもまた事実。だからこそ難しいと最近つくづく思います。  誰に頼まれるでもなく公園を毎日掃除している人を偽善者と思うでしょうか。  駅のホームに落ちている空き缶を拾えない人は、気付かないか、周りの目が気になるからでしょ?毎日、見つけたゴミを拾ってゴミ箱へ入れるのを繰り返していれば、難しいことではないはずです。  気配り・心配りって、たまにやろうとするととても難しく感じられます。どうやっていいか分からない、それ以前にやるべきことに気付けない。  人の目が気になるうちは、まだまだ自分自身の行動になっていないんだろうなぁって思います。誰も見ていなくても、逆に、誰かが見ていても同じ行動が取れるかどうか。私も日々精進です。

トピ内ID:

...本文を表示

たまたまさんに同意!

041
善=すべからく偽善 が成り立つよなぁ、と悩んだ高校時代。 自分が気持ちいいから「善」をするわけで、たとえ苦しいけど「善」してますっていう人だって、そういう状態が本心では心地いいから「善」するんでしょ・・・とひねくれまくり。 でも、どこかで読んだのですが、見栄とか体裁とかいっそ税金対策の為であろうが富豪や企業が出した寄付は、多くの人を救っている。 そして偽善だよ、とわかったつもりになって批評したり、偽善はしたくない、とうじうじ考えてる人は何もしないわけだから、誰も救ってない。 どっちがいい?と考えたら即決で前者!と思ったので、寄付を行う富豪や企業は称えますし、ささやかながら自分も募金もするし、電車で席もゆずります。 で、偽善についてあーだーこーだ言いつつ、何もしない人に関しては、付き合うほど暇じゃないので無視します。 偽善とは何か、と悩みつつ何かしている人には「悩むのもよい経験だ!私はふっきっちゃたけど!」と応援します♪

トピ内ID:

...本文を表示

トピをたてたものです。No1

041
ともだち
 みなさん、ありがとうございます。少しだけ、 私の伝えたい部分がうまく伝わっていないようなので 付け加えさせてください。  「偽善であっても善行であれば行う方がよい」という 部分は理解できます。いたらない部分はありますが、 「善行」が行えるように努力はしてきたようにも 思います。私が問題にしたいのはそのような善行を した後の自分自身の心の処理なのです。  例えば、共有廊下にゴミが落ちているとします。朝の 急いでいる時にゴミを拾い、家に持ち帰って捨てると します。「後から来る人はいいきもちかな?」「いい ことをした」と感じます。けれども、ここで「いいこと をした」と感じる自分が嫌になるのです。そして「もう、こんなとこにゴミを捨てて・・・」と捨てた人に 不満を抱いてしまいます(続きます)

トピ内ID:

...本文を表示

トピ主です

041
ともだち
(つづきです) もしかしたら、自分の心のうちに、ゴミを捨てた 人に対して軽蔑の目があるかもしれないと思うと とても自分が怖くなるのです。  もともと、ゴミを拾う行為は自己満足の行為です。 自分がほっとけないからやっているのです。それが、 捨てた人に対する軽い不満をもち、そのような人に 対してまじめに生きている自分が変な優越感を 感じているような気がして苦しくなります。  私も人並みにしかよい行いはできません。人並み 以下かもしれません。けれども、いわゆる「よい行い」 をして、自分に満足した後に深い後悔やある種の 罪悪感を感じられる方はいらっしゃいませんか? そういう場合どうして気持ちの処理をしたらよいの でしょうか?  

トピ内ID:

...本文を表示

伝わる伝わらないじゃないと・・

041
すっぴん
偽善者とは、、普段善人面しているけれども、他人が困っているときにそ知らぬ顔をする人、のことかなーと思います。 トピ主さんはこういうことを考えるあたり、優しい人なのかなーとは思いますが。 ま、お金にまつわる話は例外として置いておいて、、習うより慣れろ、ですね。 一般的に善いと思われることを重ねていけば、自然とそんな振る舞いが身につくし、偽善と言うことの意味がわかると思います。 よほどひねくれた人間で無い限り、そういう人を偽善者とは呼ばないと思います。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善者

041
まーま
私も、良いことをする時は、されたほうが「どう感じたかな?」と思わず思ってしまいます。 多分、根っからの偽善者なのだと思います。相手の反応や見返りを求めない、真心の善を実践できる人にあこがれてはいるのですが。 でも、「偽善」を憎むタイプの人(真心からの善しかしたことがないという人)には、どうも違和感を覚えてしまうんです。 受け取る側の気持ちを無視して「自分は善の行いをした」って、何の疑いもなく思えるのかなって。 まぁ、今のところ自分にできるのは「偽善」なので、偽善をいっぱい積み重ねて、そのうち「真心の善」が分かるようになればいいなぁ…くらいに思っています。

トピ内ID:

...本文を表示

これも偽善、そして自己満足

041
またたび
骨髄バンクに登録しています。そして提供経験もあります。 考え方によっては偽善であり自己満足なのかもしれません。 「その人が病気によって抱えた様々な苦悩を自分の身を投じる事で救える」 とてもかっこいい事のように聞こえるけれど 一番辛いのは本人であり、それを支える家族。 その最も大変な部分を身をもって経験することなく飛び越え、ただ健康というだけで自己を肯定させるための手段・・ そう考えると自分を正義の味方に仕立て上げるために利用したのではないかと心が痛くなる瞬間があります。 そしてこんな風に考えてしまうこと自体が自己満足であり偽善であるとも考えます。 でも再び提供の依頼がきたら私は同じようにするでしょう。 なんのために?と言われたら やっぱり自己満足のため。。でしょうね。 ただ1つ思うのはそれ以上の満足感や幸せを相手の方が感じながら暮らしていてくれたらいいな。と思っております。

トピ内ID:

...本文を表示

偉そうにすみませんが

041
箒の柄
 偽善者となる事、人から偽善者と呼ばれることを恐れ、何もしない事がもっとも愚かな行いだと思います。  何かを為すときには、後で何を言われようと、振り返って「あの時はああせざるを得なかった」と言えるように腹をくくりましょう。  今正義を行えば、世界の半分を怒らせる・・・  それと、自分が良かれと思ってしたことが相手のためにはならなかった事、これは私も偽善とは呼ばないと思います。これは独善・あるいは心得違い、勘違いです。

トピ内ID:

...本文を表示

偽善もできない奴が善行できるわけない

041
半人前技術者
タイトルの通りです。 偽善の何が悪い。偽善を繰り返すうちに,その習慣や気持ちが身に付いてきて,本物の善人になっていくのだと思います。 開き直って,どんどん偽善と言われてもいいから善行しましょう>トピ主さま

トピ内ID:

...本文を表示

偽善とは?

041
ぽてち1975
一度は誰もが考えることなんでしょうね。 詐欺、あるいは人をだまして自分の利益を追求す るようなことをしなければ、よいのではないので しょうか。 具体例が知りたいとのことですが、自分の親の健 康を気遣う私は、親が病気になると自分が面倒を 見るので、それがいやだから。 道に落ちているごみをゴミ箱に捨てる自分は、そ れが目に付いていやだから。 これは善意?偽善でしょうか。 下心が問題ではなく、人をだますことを前提にした 善意が偽善なのではないでしょうか?

トピ内ID:

...本文を表示

自己反省のない善は本当に善なのか?

041
回し者じゃないですよ
唐突ですが、浄土真宗の教祖親鸞に、 「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや(善人でさえ極楽に行けるのだから、悪人ならなおさらだ)」 という有名な言葉があります。 一般的に、 「善人=徳の高い立派な人」 「悪人=人殺し等をする非道な人」 と解釈されていますが、 本当の意味は簡単に書くと、 「善人=自分の行いの全てが善行であると信じて疑わない人」 「悪人=煩悩に弱く、悩みやすい人、うぬぼれやすい人。自分の行為が善行であるかどうか不安に思ってしまう人」 なのだそうです。 つまりは「悪人=親鸞をも含めたごく一般的な人間」という意味で、 逆に善人こそが恥ずべき存在であるようです。 自分のやることなすこと全て正しい(善)と思いこんでいる人は、 周囲からしたら迷惑な存在です。 それよりも、自分のしていることは正しいことなのかと自問自答しながら、 少しでも正しいと思うことをしようと懸命に生きている人の方がずっとすばらしいと思います。 悪人でもいいじゃないですか。

トピ内ID:

...本文を表示

人間の本質

041
ぽんぽこ
トピ主さんの2度目の投稿を読みました。 私は、トピ主さんにはもっと人間の本質を ありのままに受け止めてほしいなと思いました。 人間は本能として自己愛があって、すべての 行動が自己愛、自己を守りたい本能、社会の 中で認められたいという本能に基づいているという 現実があるんだということを。  そしてそれは別にいやしいことでもないということを。 完璧な人間はいません。理想を追い求めるのは もちろん素敵なことだけど、理想と現実の ギャップに苦しみすぎるのも良くないと思います。

トピ内ID:

...本文を表示
[PR]
気に入ったトピを保存するといつでも読み返せる
気に入ったトピを保存するといつでも読み返せる
使用イメージ
使用イメージ

マイページ利用でもっと便利に!

お気に入り機能を使う ログイン
レス求!トピ一覧