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    戦時中の話など、昔話、聞きますか?

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    私は昭和53年生まれ
    ひと
    私の父方の祖母の妹が、90歳ですが、とても元気で、一人暮らしをしています。
    高齢なので、近くに住む私の両親が頻繁に顔を出したり、私も子供達を連れて、3ヶ月に1度くらい会いに行きます。
    母は『叔母さんの昔話は同じことばかりで…』と嘆くのですが、私には違う話をすることが多く、教科書やテレビで見る戦前・戦中・戦後の話とは違うほっこりした話が多く、とても新鮮です。

    先日は、昔の小学校の話になり『弟が小学1年生の時、授業中に友達を引き連れて、4年生の私の教室を覗き込んでたの』とクスクス笑いながら話していました。
    昔の小学校の先生は怖いイメージがあったので私は驚きましたが、『昔は保育園も幼稚園もなかったから、何も出来ない子ばかりで。
    1年と2年生の先生は優しかったよ』と。

    叔母達は神戸に住んでいたのですが『鉄筋コンクリートの校舎だった』と言っていたり。
    昭和初期に既に鉄筋コンクリート(!)。
    てっきり木造だと思ってました。
    戦時中にも関わらず、『鹿児島まで汽車で旅行した』とか。

    昔話、皆さんは聞いてますか?
    教科書やテレビで見聞きするものとは違う、意外なお話がありましたら、是非教えて下さい。

    トピ内ID:2524148262

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    同居しているのでいろんな話を聞きます

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    はーこ
    母は93歳です。話はしっかりしています。
    子供のころはディズニーとベティちゃんが好きだったとか。
    祖母(母の母)の得意料理は、ナスを焼いて、ホワイトソースをかけたりとか。
    すごく洋風の生活をしていたみたいです。

    トピ内ID:3137419222

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    家出話

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    BXE
    私の大正生まれの祖母は、東北で生まれ育ったそうです。
    本当に陽気でポジティブ、ある意味空気が読めない(笑)人でした。

    私は明るい祖母が大好きでした。
    その祖母から聞いた話で一番記憶にあるのが、
    祖母は、15歳の時に実家から家出をして、大阪に来た事です。
    大正生まれの頃の家出って、どんなんだろうとビックリしたものです。
    一度目は探されて、捕まって帰宅。
    しかし、二度目で完全に家を出てしまったそうです。
    それから、お針子等の仕事を身に付けて、苦労して生活したそうですが、
    生涯働いた言わばキャリアの先がけみたいな人でした。

    「自分が自由になりたくて家出したのよ。
    大阪まで行けば、仕事もあると思った。」そうです。
    私も一度、一緒に東北の祖母の実家へ行きましたが、
    古い気質の気難しい一族で、裕福なようですが、
    子供心に居心地の悪さを感じたので、納得がいった思い出があります。

    戦争前後の時代に家出するような女性も居たんだとビックリしましたが、
    何よりも、現在父方の親族から私が一番亡くなった祖母に似ている、
    と言われて苦笑しています。
    確かに、小さい頃から自由を求めて出ていく様な人生でしたね。

    トピ内ID:6241715082

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    よく聞かされました

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    おっさんさん
    私の祖父は実際に従軍しましたので、当時のことはかなり生々しい話を聞かされて育ちました。

    昨今取り沙汰されている諸問題も私はそのお陰で情緒に流されずに済んでいますし、同時に偏向かと思うような報道に触れて忸怩たる思いをさせられています。

    歴史は勝者が作り出す。言いえて妙です。日本もきちんとこの辺りのことが色目が目を通さずに語れるほど公正明大になってもらいたいものです。いつまで従軍した人の名誉は汚され続けなければならないんでしょうか。憤りと悲しさを感じずにはいられません。

    トピ内ID:5490581529

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    聞きます

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    まか
    出征中の話もきいたし、戦時訓練の話とか空腹にたえかねた話とか…短い時間では近況の話になるので 長い時間話す機会がないと昔話はでてこないですね

    トピ内ID:8838555516

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    昔話いいですね。

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    💍
    わんこ
    こんばんは。

    年寄りの話が聞きたい焦燥感にかられた時期がありました。

    そのときは思いつかなかったのですが、それから5年後くらいに読書をしている中で、著者が感動したりその人の本が好きだというのをたどっていく事で、そうだ、読書で昔の人の話が聞ける。昔の生活ぶりが聞けると思って、そりゃ毎週のように図書館に通ってました。(私には両親の親たちはもういません。周りに話を聞ける人がいません)

    勿論やっぱり気に入ったものは借りるよりは買わなければ。
    月に一度文庫本を買うのは楽しみです。今日も2500円ほど3冊ほどかってきました。

    私の持っているのは武士の娘とかです。ほかにタイトル忘れましたが明治の女的な本も持っています
    ビデオも白州正子とお兄さんが主演のを借りたときある。とにかく昔の人の暮らし生き様が好きなんです。

    トピ主様昔話が聞けるのはとても貴重な体験ですし、ありがたい事ですね。羨ましいです。
    戦争のようなくらい話は別として昔の人の話ってどこか聞いていて包まれるような安心感を覚えます。とはいっても、この年になって価値にきづきました。

    トピ内ID:5877391107

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    戦争の話

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    疑問が解けた
    87才の近所のおばあさんの話です。

    B29が襲来した時は油?を撒いて爆弾を落としたそうです。
    油が降ってきたそうです。
    これで、何故火の海になったのか初めて分かりました。

    トピ内ID:4354078488

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    83才の母が話す東京大空襲

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    海賊の妻
    大震災の時に「戦争の時と同じだ」と母が言いました。「消そうとしても消せない火災。水や食べ物を求めて長蛇の列。沢山の人が亡くなった。避難所は人がごった返している。」こんなところがそっくりだそうです。東京大空襲の時には、気が付けば自分の家だけが焼け残ったために焼け出された近所の人たちがみんな来て廊下までいっぱいになり足の踏み場もなかったそうです。
    母の家には焼夷弾が12発も直撃しましたが父と3人の兄たちが必死で火を消してくれたので焼け残ったのです。
    戦争中はお腹が空いても食べるものが無く青いトマトが一個だけの夕食の時が有ったとか。今日が最期と言う日に、母がおにぎりを作ってくれて防空壕の中で食べた時には死んでもいいと思ったそうです。
    そんな母が東北地方にお嫁に来て震災に合いました。とても傷つきました。昔ラジオで尋ね人の時間が有りましたが、震災の夜ラジオを抱えて震えていると、「〇幼稚園です。みんな無事です。お迎えに来てください」と言うような呼びかけが2時ころになっても延々と続き涙がおさえきれませんでした。
    母はあれから極端に臆病になり、子供の頃は両親がいたから怖くなかったと言いました。

    トピ内ID:4178396638

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    良くも悪くも

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    水色
    ステレオタイプの話はないみたいですよ。

    戦争中も、
    田舎は普通の毎日だったようですし。

    トピ内ID:0278321806

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    今のうちだけしか聞けない情報

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    🐷
    けんしろう
    貴重な話聞かないでどうしますか!?
    平和になり(完全に平和ボケですが...)戦時中の話はムダ・退屈だと思う時点で間違っていると思います。

    何回でも聞いた方がいいと思います。
    そういう時代を経て、今がある。今の平和は当たり前にあるのではないのです。
    人々の命、苦悩、葛藤の上に成り立っている。その事実は良く知っておくべきです。
    こんなありがたい話、数年後には聞けなくなりますよ!

    トピ内ID:7064240350

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    昔話は

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    😑
    トートバック
    よく聞きました。

    ・長距離旅行は「夜汽車」に乗って行った
    ・息子達〔伯父と父〕が疎開していた時、時々面会に行った事。
    差し入れに甘いものは禁止だったので、薬と偽って薬袋に砂糖を
    入れた。

    ・空襲があるので、あちこちに防空壕を掘った。

    ・台風の時は周りが水に浸かって・・・

    などなど 今の私達には考えられない話ありました。

    亡くなった祖父母の話 懐かしいです。

    トピ内ID:6142607354

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    小学校の時に

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    🐱
    ぷ~パン
    6年生の社会の授業にて、当時50代?の担任がやたらと戦時中の話をしましたね。
    戦時中の担任はまだ幼い子供で、隣の蔵が焼けるとそこから良いニオイがして行ってみると芋蔵で、毎日焼き芋を食べていた。
    毎日続くと食べ飽きて、大人になり芋を見るたびに思い出すから芋が大っ嫌いになったといっておりました。

    戦時中の授業になるたびにこの話ばかりエンドレステープのように言うのでまともに歴史の授業はあまりしなかったような。

    トピ内ID:4283430977

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    祖母に聞いた話。

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    むぎピー
    戦時中に結婚した祖父母。
    横須賀にあった海軍学校の教員をしていた祖父(新郎)と地元で暮らしていた祖母(新婦)は一度も会うこともないまま結婚が決まり、仕事で帰ってくることができなかった祖父不在のまま式を挙げたそうです。
    式が終わった後、祖母は祖父の親族に付き添われて横須賀へ行き、そこで初めて祖父に会い、一緒に暮らし始めたとか。
    長男、長女だったこともあってか「こんな自分と結婚してくれるなら誰でも良い、と思った」と祖父も祖母も言っていましたが、一度も会ったことない人と結婚なんて凄い!考えられん!!と驚きました。
    また、横須賀での生活では、よく、教え子を招いて食事をご馳走したそうです。
    寮生活をしていた彼らには、祖母の作る田舎の家庭料理は好評であったそうです。
    また、卒業が決まった生徒には、好きな食べ物を用意して食べさせたりもしたとか。
    兄弟の多い祖父母でしたので、郷里に暮らす弟達を見ている様な気持ちだったのだろうと思います。

    トピ内ID:0307266983

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    私も聞くようにしています

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    私は昭和50年うまれ
    祖母が92歳。

    戦時中の話を昔からよくしてました。
    さらっと「お豆腐の配給の帰りに空襲があって、一緒に行ってた人が死んだのよ」とか
    「あなたのお母さんは疎開先に向かう馬車の中で産んだの」
    とか言います。

    また「女学校ではバスケットボールやってたのよ」とか「オルガン持ってるおうちがうらやましかったわ」
    といった戦前ののんきな時代の話もよく聞きました。

    そして楽しい話のあとでもつらい話の後でも、
    「戦争だけはいやねえ」と言います。
    よく覚えておこうと思ってます。

    トピ内ID:3062260647

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    祖父から聞いた話です

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    スプーキー
    私の祖父は日中戦争で戦ったたそうです。

    川の中に腰まで浸かっての戦闘中、同胞の死体が自分の横を流れていったこと。
    敗走する中国人兵士がバタバタ倒れていく中、一人だけ弾が当たらずどこまでも走り続け、ついに逃げ切った人がいたこと。

    楽しかった思い出も話してくれました。

    中国に渡る前の日は、神戸のお金持ちの家に泊めてもらって、ご令嬢姉妹がピアノを奏でて歌を聞かせてくれたこと。
    壮大な孔子廟を専門家の案内付きで見学させてもらったこと。
    コウリャン畑の真ん中に道が一本通じていてウサギが飛び出す、それをライフルで狙撃してその日のご馳走にしたこと。

    コウリャンって何、と問うと、
    「コウリャンはコウリャンだ。トウモロコシでも麦でもない」
    私は中国大陸に行ったことがなく、コウリャンを見たこともありませんが、亡き祖父のことを思い出すと地平線まで続く黄色いコウリャン畑が浮かんでくるのです。

    トピ内ID:1121135753

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    懐かしい

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    私は昭和57年です
    同居していた母方の祖父母から良く聞いていました。
    煩わしく思う方もいると思いますが、私はやはり楽しかったです。

    祖母は当時台湾で小学校の先生。
    生徒を引き連れ歩いていたら飛行機が飛んでいて、日本兵と思い手を振ったら敵機ですぐ逃げた、危うく生徒もろとも爆撃されるとこだったそうです…

    祖父は、目の良さから見張りをしたり、馬の世話ついでに1頭に乗り2頭引き連れ走ったりしてたそうです。

    そんな祖父(洋服の仕立屋です)は台湾へ兵士として赴き、祖母宅へミシンを借りに行ったところから何度か立ち寄ったそうで、祖父を見込んだ祖母の父が「娘をぜひ嫁に」と話を決めて、終戦し引き上げ後に結婚しました。

    二人ともちょうど青春の時期のことだからか楽しく話していましたが、そんな時代が二度と来ないことを願っていると感じました。

    もう聞くことはできませんが、トピ主さんのおかげで懐かしい気持ちになりました。
    ありがとうございます。

    トピ内ID:9258218939

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      大正時代の生まれの義理母は忘れています

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      あのー
      戦時中の事は忘れているけど、東京に行った時の喫茶店のコーヒーの味とかは覚えているようです。

      辛かったことや苦しかったことは思い出せないようです。

      昔の良い思い出や、ほっこりする思い出しか話しません。

      幼少期~思春期に戦時中の時代を迎えていた私の実家の父親は最近やっと焼いた魚を食べられるようになりました。

      トピ内ID:4048501062

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      色々聞きました。

      しおりをつける
      🙂
      主婦歴30年
      50代です。亡き母は満州の生まれでした。まだ幼いうちに戦争が始まり、戦後日本に引き上げるまでの数年間の様子を色々話してくれました。現地の人から作り方を教えてもらった餃子の美味しかったことや、敗戦で遠い日本に帰る長い道のりの苦労話、帰ってきたら日本の家が空襲で無くなっていて、大人たちが途方に暮れていたことなどなど。

      亡くなるまで母にとって満州は懐かしい生まれ故郷でした。「いつか、訪ねてみたい。」と言いながら叶えることができないまま、亡くなりました。現地で亡くなった母の幼い妹のお墓参りも、誰も、一度も行っていません。

      トピ内ID:6739842426

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      戦争体験者は寡黙でした

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      オーバー70
      私が小中学生の頃、周囲は戦争体験者が多数を占めておりました。でも、戦後の雰囲気がさせたのかもしれませんが、皆さん、戦時中のことについては寡黙でした。生き残ったことが辛かったのでしょう。

      小6の担当教師は台湾での教師、中2の英語担当は人間魚雷「回天」の生存者、中2の数学担当は陸軍中野学校出身、中2の理科担当は軍医、中3の社会担当は朝鮮半島での教師、町内の耳鼻科医師は軍医、近所の民生委員は知覧の特攻隊の整備士、高校3年のクラス担当は陸軍大佐、大学1年で家庭教師をやっていた時の二人のお父さんも特攻隊の整備士と操縦訓練の教官でした。

      トピ内ID:1967863565

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      聞きたいです

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      stay
      昔話、大好きです。

      戦争中の話とか子供ながらによく伯父さんの話を
      聞いてました。満州とかシベリアに抑留されてた話やら。

      母親も疎開してた話とか戦争中の話をよくします。

      この正月には姑さんの昔話を興味深く聞かせてもらい
      ました。とても意外だったので楽しかったです。


      愚痴を聞くのは大嫌いですが人の歴史を聞くのは大好きです。

      トピ内ID:1984387125

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      戦前は結構ハイカラ

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      ゴンザレス
      90なら小学校頃はまだ戦争突入前ですねえ。
      ならハイカラだったでしょう。都市部ですしね。
      大正末から昭和初期にかけて東京・横浜に建てられていた同潤会アパートなんて、
      戦後の文化アパートより間取り・設備等良かったって聞きますし。勿論鉄筋で、エレベーター付きで。

      うちの父(80)・母(76)の戦中の思い出話は本当に辛く苦しい事ばかりで、
      特に父は戦時中に両親を相次いで亡くしてますから、聞く方も辛く苦しいです。

      主さんご所望のような話は、母方の祖母(明治末年生まれで、生きていたら103?)がしてくれてました。
      神戸の女学校に行ったんですが、その様子とかね。
      女学校は結構芸術志向だったそうで、祖母も油絵を習得してずっと描いてたし、オルガンを上手に弾いてました。
      女学校の成績が格別で推薦を受けて、東京の何やらやんごとない所で専門職として数年働いたんですが、
      そのお屋敷の素晴らしい様子。
      そこでメイドさんに挨拶したら偉い女官の方に「お手伝いさんに頭を下げてはなりません」と叱られた事。

      お米のご飯が嫌いでパン食・洋食好き、お菓子も洋菓子を焼くハイカラバアチャンでした。

      トピ内ID:6908147787

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      東京大空襲

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      🐱
      ぷ~パン
      亡き祖父の書き遺した物によりますと、大空襲の時に東京に住んでましたが、私の父は妹たちを背負って家族で静岡に疎開。
      しかし静岡も空襲にあいましたが、川の方に逃げてなんとか生き延びれたそうです。

      トピ内ID:4283430977

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      ヨコで

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      あのー
      そうなんです明治生まれや大正生まれは、当時今の暮らしのようなハイカラな生活をしていたんです。

      なのになぜ戦争に突入して行ったのか?なぜ皆同じ主張にはりはじめて戦争に突入して行ったのか?

      (たまにHNKの番組でもこのようなテーマのを扱っていて放映しています。)

      トピ内ID:4048501062

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      田舎で戦争経験者です

      しおりをつける
      🎂
      81歳の女性
      >戦争中も、
      田舎は普通の毎日だったようですし。

      こんな事を書く方がいらっしゃるなんて驚きます。私は東京で爆撃を受けた後で、着の身着のままで田舎に疎開しました。田舎で沢山の人たちに親切にしていただいたおかげで、命長らえたことを今も感謝しています。あの人たちのご苦労のほんのひとかけらでも、分かる人には分っていただきたくて出てきました。

      山の中の辺鄙な村でした。どの家も男性はみんな戦争に、若い女性は町の軍需工場に駆り出されて、年寄りと子持ちの母親ばかり残っていました。母親達は、昼間は子供を背中にくくりつけて農作業や山仕事、夜なべに育ち盛りの子供達の服を縫ったり、衣服の穴に継を当てて着られるようにしました。忙しい中でも、疎開者の我々に納屋を仮住まいに貸してくれたり、お風呂に入れてくれたり、少ない食べ物を分けてくれたり親切でした。

      村でも戦死者が続失しました。アッツ島で玉砕した人の家は、乳飲み子を含めて4人の子供を抱えた妻が残りました。ある日学校から100メートルの山に爆弾が落ちて、窓ガラスが粉々に砕ける混乱の中、東京で爆撃経験者の私は、妙に落ち着いていました。

      戦争は身近でしたよ。

      トピ内ID:0235394153

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      昔話

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      blank
      ss
      >『鉄筋コンクリートの校舎だった』と言っていたり。
      > 戦時中にも関わらず、『鹿児島まで汽車で旅行した』とか。
      まあ、70年以上前の話、90歳の方の話なんだから。
      その辺は突っ込まずに、はいはいと聞いてあげるのが吉です。
      昔話ってそういうものですよ、話半分っていうでしょう。

      気になるんだったら、事実を自分で調べてみるのも面白いですよ。

      トピ内ID:4710690455

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      都内在住の父の、空襲や学童疎開の話

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      昭和40年代生まれ
      私の祖母は明治後期生まれ。
      私が子供の頃、空襲や関東大震災の話を尋ねたことがありましたが、口が重く語ってくれませんでした。相当苦労したのだと思います。

      私の父は新宿淀橋付近に住んでいました。淀橋浄水場にトンボが沢山いたそうです。
      小学生の頃、群馬に学童疎開をしました。中学生の兄は祖母と東京に残り、父と妹(叔母)弟(叔父)の3人が疎開。
      祖父は既に病死していました。
      数か月に一度、祖母が面会に来るのがとても待ち遠しかったそうです。
      東京の家は焼失しましたが、祖母と兄の命は無事でした。
      戦争が終わって帰るとき、両親とも亡くして孤児になってしまった子もいたそうです。
      疎開前に父の友達のお母さんが駄菓子屋さんをしていて、とても親切な良い人だったそうですが、そのお母さんが空襲で亡くなって気の毒でショックだったそうです。
      また神風特攻隊で多くの優秀な人材を亡くしたことを、日本にとって大きな損失だったと、とても惜しんでいます。
      戦後はバラックが立ち並び、映画やドラマによくある光景だったようです。

      トピ内ID:2403892166

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        母と義父の話ほか

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        昭和40年代生まれ
        母は戦時中まだ幼くて、記憶が曖昧でした。
        赤ちゃんのミルクの代わりに、お米のとぎ汁を使った話や、防空壕に避難したとき出入り口を兵隊さんが警備していた光景を覚えているそう。
        母の友人は空襲の中を親に背負われて逃げる間に、衣服から出ていた手の甲をひどく火傷していて、70歳過ぎた今でも火傷のあとが残っているそうです。

        90歳代の義父は幼少の頃、台北に住んでいて、隣近所の現地の人と仲良く暮らしていたそうです。
        日本に引き揚げてから戦後、台湾の近所の人から手紙が届き、当時を懐かしんで書かれていたそうです。

        トピ内ID:2403892166

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        みんなが同じ主張になったわけではないです

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        🎂
        81歳の女性
        >なぜ皆同じ主張にはりはじめて戦争に突入して行ったのか?

        2度目です。日本中が賛成したから戦争に突入したわけではないです。この点は強調したいです。反対者も沢山いましたが、力で抑圧されたから嫌々ながら戦争に巻き込まれて、そして亡くなっていった方も沢山いらっしゃいます。

        私の父は旧制中学の英語の教員でした。戦時中は敵国の言語ということで、英語の授業は中止されました。普通に使われていたヨーロッパ語の単語も話すことを禁じられ、ズボンは洋袴、タバコは煙草、ボールは鞠と言わされました。違反すれば国の敵と言われましたから、みんな従いました。”赤狩り”という名で、少しでも自由主義に近い思想や、反戦思想を口にする人は、監獄に入れられてひどい仕打ちを受けました。

        通学路に神社があったので、出征兵士を見送る群衆を毎日見ました。近くに国立大学がいくつもあったので、学徒出陣の学生達も多いでした。ある日神社の裏側で、地面に座ってお酒を酌み交わしながら、ひっそりと運命を嘆いている学生達に行き合い、戦争反対なのに死に向かう彼らの悲しみに胸を打たれました。

        ”聞けわだつみの声”を読んでみて下さい。

        トピ内ID:0235394153

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        校舎も今より数段風格があった

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        マイカ
        小学校ではなく私が通った高校は昭和1桁台に建てられたコンクリートで、装飾的な部分もあり、今のような無機質な建物ではなく堂々とした建物でしたが、取り壊されてしまいました。

        私が子供の頃はまだ戦前に建てられたコンクリートの洋風の洒落たビルが結構ありましたよ。今は軒並み建て変えられ、味気ないビルになってしまいましたね。

        トピ内ID:5429781656

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        横レスありがとうございます

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        あのー
        きけわだつみのこえ、読んでみます。

        NHKスペシャルで石牟礼道子さんという方が登場していた番組を見ていて考えさせられました。当時の国政のTOPがこのような認識でしかなかったという所の映像を見て聞いて、考えさせられました。

        今だって平和なんだろうけど危うい気がします。前の戦争の時は世界中が変でした。前の前の戦争の時で懲りたろうはずなのに次の世界大戦に突入していましたから、異常ですよ人が人を狩るのは、思想が違う人種が違う歴史や文化が違うというだけでそうなっていくのは変です、世界中が変だったと思います。私はそう思います。赤狩りの事はNHKの連続テレビ小説などでちらりと知る機会がありました。
        主張も考えを言う事も自由に考えることも出来ないなんて酷い、当時は5人組制度を設けて隣同士を監視させていたとか。そんな時代があったんですよね。

        別件で、
        鉄筋コンクリートを検索してみました。大正12年の関東大震災以降、早くも大正14年には震災の時に建築中で崩壊した丸の内内外ビルを改めて建て直したそうです。同潤会というのも検索してみました。あと軍艦島のあの団地は昭和25年にはRC造り3Fが建ちました。

        トピ内ID:4048501062

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        曾祖母の話

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        長生きしてね
        田舎で、戦争が無くても皆が助け合わなくては生きていけない地域。
        村の若い衆が帰ってこなくて悲しみに暮れる女学生
        夫が帰ってこなくて未亡人になる
        父親が帰ってこなくてひとり親になる
        男手が減って収量が減ってしまった田んぼ
        戦前も戦中も戦後も、皆で助け合ってたので一つも辛くなかった
        辛かったと言ってしまえば、戦前・戦中・戦後も等しく辛かったことになる
        辛かったと言ってしまえば、村中の人か不幸だったことになる
        助け合った仲だからこそ、辛くなかったよねと言った方が幸せ
        寒村生まれのひいばあちゃんはそう言って笑ってました

        今でも寒村であることに変わりなく、世代が回って戦争中と同じになってしまったと言っています。
        村にはジジババしか残っていないのですから。

        戦争中だったら若い女子供はいたから村祭りもちゃんと開催していた。
        今は村祭りさえできない活気の無い村になってしまったと嘆いております。

        身近な人が亡くなっていない。空襲経験も無い。飢えた記憶もない。
        昔は助け合えて心豊で良かったと、今を嘆くのがひいばあちゃんです

        トピ内ID:6841235597

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