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七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき

レス15
(トピ主 7
041
悪源太
話題
・七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき 太田道灌が、それまでの武辺一辺倒だった自分を恥じて、名将になるきっかけとして知られる歌です。 この話を知った時、和歌と名将の繋がりが分かりませんでした。 これが、源義家と大江匡房の話であれば、大江匡房は、 ・惜しむらくは兵法を知らず と言ったのですから、もっともと思いました。 私は、いまだに、この逸話の良さが理解できていません。 (個人的には、太田道灌には、「説難」を意識して欲しかったと、残念に思います。)

トピ内ID:8433564740

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「文」が尊ばれることを言いたいから

🐱
まよいねこ
いい話かどうかはそれぞれの感じ方ですが、単に教養を備えておくべき、あるいはひとかどの人物には、教養を持っていてほしいという願望の現れではないですか。文武両道が好ましいとか。源義家を出すのであれば、安倍貞任との「年を経し糸の乱れの苦しさに衣の館はほころびにけり」のやりとりだとか、いわゆる辞世の句を詠む習慣があるのも同類でしょう。

トピ内ID:2929307566

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ご教示乞う

🙂
ソバス
この話,私は好きなのですが,なぜ,源義家と大江匡房の話や,説難に話が飛ぶのかよく分かりませんでした.その関連をもう少しご説明頂けませんか. ひょっとすると,トピ主さんが太田道灌の話を面白くないと感じられる理由がその辺から明らかになるかも・・・?

トピ内ID:6418104825

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ソバス様へ

041
悪源太 トピ主
お返事ありがとうございます。 >ひょっとすると,トピ主さんが太田道灌の話を面白くないと感じられる理由がその辺から明らかになるかも・・・? この話、洒落ていて、私も好きです。 >この話,私は好きなのですが,なぜ,源義家と大江匡房の話や,説難に話が飛ぶのかよく分かりませんでした.その関連をもう少しご説明頂けませんか. (名将の定義が問題なのかも知れません。) 源義家と大江匡房の話は、太田道灌の話と違って、直接戦いに関した話として出しました。 説難は、太田道灌が、讒言(ざんげん)により命を落とした事を書きました。 説難を著した韓非子も、似たような最後を迎えますから、名将とはなんだろう、そんな気持ちを書きました。

トピ内ID:8433564740

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まよいねこ様へ

041
悪源太 トピ主
安倍貞任の話、おもしろですね。 ご教示、ありがとうございました。 楚漢戦争の一方の雄項羽は、論語などには興味を示さなかったが、兵法書?などは好んで読んだ、という話があるそうです。 そうすると、やはり、人間の幅のような事があるのでしょうか? それにしては、戦国武将等が、和歌を嗜んだ話がないな、と思ったしだいです。 私の寡聞はそれとして。

トピ内ID:8433564740

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無学の祖父

🐱
@リン
> 太田道灌が、それまでの武辺一辺倒だった自分を恥じて、名将になるきっかけとして知られる歌です。 ……無学の祖父から子どもの頃に聞いたっきり 学生時代でもスルーしてきた私の中では この句は違う意味で記憶に残っています。 太田道灌という人が 治めていた土地を見て回っていた時に 雨が降り始め 1軒の家に「蓑を貸して欲しい」と申し出た所 農家の娘が読んだ句であり、太田道灌が 改めて 蓑さえ無い貧しい民の暮らしぶりに能力がない統治者として自分を恥じた……というような流れでした。 貧しかった祖父がどのように覚えて 話をしてくれたのか…… 単純に 懐かしかったです。

トピ内ID:8735096527

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戦国武将の理想は細川幽斎

🙂
neco
悪源太さま、和漢の古典がお好きなようで。 >それにしては、戦国武将等が、和歌を嗜んだ話がないな、と思ったしだいです。 細川幽斎をご存じないのでしょうか? 千利休が最も尊敬した武将で、当時唯一の古今伝授の伝承者でした。 肥後細川家の礎となった方です。 秀吉の前で近侍の小姓が粗相をしたときに伊勢物語の狂歌でとりなしたという話も有名です。(井筒茶碗) 秀吉をはじめとした武将たちが和歌古典に通じていなければ成り立たない話です。 彼を代表に戦国の武将は皆和歌を嗜んでおりました。 織田信長が謡曲熱盛を好んでいたことも有名ですね。 日々命のやり取りをする戦国武将たちは平家物語や新古今集などを愛し心のよりどころとしていました。 この様に武将が和歌古典に通じることを求められるのは平安末期に平家が公家入りしたあたりからでしょうか。 ご存知のように日本では万葉のころから防人の歌や農家の恋愛など一般民衆でも和歌の素養がありました。 武将の源氏も平氏も天皇の末裔ですからね、尚更でしょう。 この手の話は枚挙にいとまがないですよ。

トピ内ID:8630304536

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辞世の句詠まんといかんかったし

041
ケム-ル人
>戦国武将等が、和歌を嗜んだ話がないな いやいやいや何を仰る、 戦国武将は死ぬとき辞世の句を詠まんといけんかったじゃないですか。 死ぬとき咄嗟に詠めるかどうかなんて怪しいもんだから、 前もって自分で詠んでおくか、 詠めん御仁はその道に長けた歌人を呼んできて詠ませておいて、 その書き付けを持って出撃してたんでしょ。 お武家さんも大変ですわな。

トピ内ID:1927671169

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@リン様へ

041
悪源太 トピ主
>太田道灌という人が 治めていた土地を見て回っていた時に 雨が降り始め 1軒の家に「蓑を貸して欲しい」と申し出た所 農家の娘が読んだ句であり、太田道灌が 改めて 蓑さえ無い貧しい民の暮らしぶりに能力がない統治者として自分を恥じた……というような流れでした。 この筋の話として、支持されていたのかも知れませんね。 以下、私の感想のようなものです。 和歌と名将(戦いに強いという意味で)が、どうしても、上手く結びつきませんでした。 引用させて頂いた流れであれば、太田道灌が人々に愛されて、この話が伝承されていったのも分かる気がします。 貴重なお話、ありがとうございました。

トピ内ID:8433564740

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ご教示ありがとうございました

🙂
ソバス
悪源太さま,お返事ありがとうございました. 源義家と大江匡房との話や「説難」が出てくるのは,“綸言にどう対応するか,特に,武を以て治めるものは”という視点から見ていらっしゃるからなのかなと思いました.そうだとすれば,道潅のこの逸話は,確かにピンボケ写真みたいに感じられるかもしれませんね. 一般には,まよいねこさまがご指摘の通り,武将といえども,名将と言われるには,和歌などの教養があってこそ,つまり,「和歌と名将(戦いに強いという意味で)」は結びつくべしという伝統的な理想を表わした逸話の一つとして語り継がれてきたのだろうと思います. こういう話は,まよいねこさんがおっしゃる衣川合戦の逸話を始めとして,他のレスでも挙げられているようにたくさんありますよね.私はこれに,『平家』の忠度の都落ちの段(私の好きな段です)を追加したい.まぁ,あれは半分貴族化した武士の話ですけど.あと,浅野内匠頭の辞世の句(和歌)も感動的です.これも,太平の世の話ではありますが. ・・・と言いながら,私がこの逸話に心惹かれるのは,実は,山吹の花を渡した女性に非常に魅力を感じるからです.でも,まぁ,これは少数派でしょうから.

トピ内ID:6418104825

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和歌と名将は関係ないのですね

041
悪源太 トピ主
和歌が、朝廷や公家のものから、武士が貴族化するに連れて、武家の中でも嗜みとされていった。 太田道灌の逸話は、その類型であり、太田道灌が名将とされていることとは関係がない。 (和歌を修練して名将になった訳ではない。) 今までの話の逆の類型として、木曽義仲が挙げられそうです。 木曽義仲は、名将ではあったが、貴族文化を上手く取り入れることができなかった(政治性に欠けていた)ため、短期政権に終わった。 (松尾芭蕉は、木曽義仲びいきであったそうで、その影響で、私の木曽義仲観も変わりました。) 皆様とのやりとりのなかで、私なりに、一定の整理ができました。 ありがとうございました。

トピ内ID:8433564740

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私は『己の驕りを恥じた』と聞きました

041
むかしむかしのはなし
私はこの話を聞いた時、 『幼い頃から太田道灌は才気煥発で賢かった。 しかし、成長してその智勇才覚を鼻にかけ、驕った態度をとるようになった。 そんな折、山吹の花を贈られたが意味が分からなかった。 幼い頃から様々な教えを受けていながら、自分は、貧しい農民の娘(この場合、最も無学な者の代表)でさえ知る有名な和歌を知らなかった。 だと言うのに、自分はこれまで散々知識をひけらかし、まるで何でも知っているかのような驕り高ぶった振る舞いをしてきた。 なんと恥ずべき振る舞いであったろうか。 と、己の驕りを恥じ、態度を改め文を嗜み、戦い以外にも目を向けるようになった。』 と解説されました。

トピ内ID:0970931711

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むかしむかしのはなし様まで拝読しました

041
悪源太 トピ主
皆様のレス、楽しく拝読しています。 三国志の呂蒙が、主君の孫権に諭されて、猛勉強をして教養を身に着ける話があります。 その場合の学問は、想像ですが、為政者としての学問のような気がします。 また、三国志の曹操は、詩(漢詩)は気持ちを大きくする、ような事を述べていることから、やはり、為政者視点であったように思います。 源義家の話も、朝廷の庇護者としての武家との立ち位置から、やはり、為政者の視点であったように思います。 とすると、太田道灌のこの逸話だけが、庶民目線のような気がします。 そこが、@リン様のレスの、統治者としての太田道灌の話に繋がっているような気がしました。 また、ソバス様のレスのように、「農家の娘」さんの魅力に繋がっている気もします。 この逸話が、立体的に浮かび上がるようで、うれしく思います。 ありがとうございます。

トピ内ID:8433564740

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ソバス様へ

041
悪源太 トピ主
>私はこれに,『平家』の忠度の都落ちの段(私の好きな段です)を追加したい. 私は、この話を読んだときに、「永遠」のような事を感じました。 我が身が滅びり去るとしても、芸術は受け継がれていく、忠度の胸の中にあったのは、そのような思いではないか、そんな事を考えました。 太田道灌の話は、現代人にも、とても分かり易い(受け入れやすい)気がしますので、ある意味、永遠に通じる(時代を超えている)部分があるように思います。 一方、浅野内匠頭の辞世の和歌は 「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」 桜が自ら風を誘って散る、と詠んでいると思うのですが、どこか、アニミズム的で、浅野内匠頭は近世の人なのに、万葉の古代へ誘われるような思いがします。 皆様のお陰で、話を広く見ることができたように思います。 楽しいお話、ありがとうございました。

トピ内ID:8433564740

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あやしき → かなしき

041
悪源太 トピ主
元々は、後拾遺集の兼明(かねあきら)親王の歌のようです。 「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」 「あやしき」=「不思議」と「礼を欠いた」の意味重ねで、後に、「かなしき」に変わったようです。 太田道灌の出典は、『常山紀談 13.太田持資歌道に志す事』のようです。 和歌を知っていたが故に勝利を収めた話がありました。 (なかなか面白い話でした。) 但し、それは例示で、皆様のレスのように、それに限られる訳ではないのでしょう。 もしかすると、太田道灌の逸話から、「あやしき → かなしき」のような変化が(無意識に)生じたのかも知れないと思いました。 (農家の娘さんの気持ちが影響を与えた、そのようなことです。) 私としては、ここまで分かれば、十分な気がします。 お導き頂き、感謝しています。

トピ内ID:8433564740

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調べてみました

🙂
知識は素敵かも
道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。 道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。 驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。 こんな風にすぐ和歌を使って返答できるって素敵ですね。

トピ内ID:0548959673

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