本文へ

1980年代の中国(本土)

レス10
(トピ主 3
🙂
しゃやのん
話題
1980年代に中国本土に旅行(または赴任)された方と思い出話してみたいです。 北京や上海でも、人民服の住民しかいなかった時代です。 現代とは全然違います。 日本人のバックパッカーをよく見かけました、 女性一人旅も珍しくありませんでした。 みなさん今どうしていますか?

トピ内ID:cbea3ef1fef2041f

これポチに投票しよう!

ランキング

レス

レス数10

このトピックはレスの投稿受け付けを終了しました

一口に「80年代」と言っても

041
男ですが…
80年から82年頃はまだまだ「外国人の個人旅行」は規制だらけで、 特に北朝鮮やロシアあるいは、モンゴル国境付近へ行く場合、見張り役付き団体旅行に 限定されました。その数年前まで所謂「4人組騒乱」だったから、 何かぎくしゃくしてました。ただし、観光慣れしていないぶん、 人々に純朴な面も多々ありました。このころは、まだまだ人々の 特に男性の服装は灰色の所謂「人民服」(中山服)普段着は 紺色の「工人服」が大勢でした。 これが85年頃から急速に「現代化」を始めます。たいていの観光地が 個人旅行を開放するのですが、外国人との接触量に反比例して純朴さが なくなり、拝金主義が横行、「ナントカの沙汰もカネ次第」の傾向が進みました。 背広の男性が増えてきて、女性は台湾や香港、日本のファッションを参考にしてました。 89年6月に「天安門事件」が発生、少しずつ華やいだ雰囲気に、冷や水を 浴びせるような大事件でした。 しかし、まだ「反日で国論を統一させる」なる政治宣伝は行われず、同事件が原因で 米国や西欧資本が大陸から一時的に逃避したなどから、まだこの頃一応は親日ではありました。

トピ内ID:cb1b3ff228f79b56

...本文を表示

はい!1989年

🙂
dら。
特に親しいわけではない友達2人と香港経由で中国本土に行ってきました。只中国旅行に興味があった3人が集まった、といった感じです。H.I.S.のパックで、中国の広州に行ってからは自由行動、といった2/3はバックパッカーでしたね。一人で自由に旅する女性、確かにいました。男性はグループで行動していた印象です。って、出会った日本人はそれだけでしたけど。昆明とかその地方に行ったからあまり日本人に出会わなかったのかな? その後私は米国に留学しました。この経験があったから覚悟が出来たのだと思います。

トピ内ID:136859bc1279f301

...本文を表示

妻帯禁止

🙂
婆ちゃる
私自身ではありませんが、同期が赴任しました。 1980年代の中国はまだかなり閉ざされていて、やっと支店(金融)が進出して 同期が赴任しました。当時はまだ妻帯も許されず、新婚早々かわいそうでした。 ただ行動はそれほど規制がなかったようで、 国内感覚でサイクリング旅行したようですが、日本とちがって厳しい気候 駅のベンチで寝ればいいや!は極寒凍死寸前の夜になったようです。(後の笑い話) 知人は貿易会社経営していますが、やはり今とはかなり違って商売活動は やりにくかったようです。ただ当時から農園経営進出して、 今でも地元の方々とは今でも仲良くおつきあいしているようです。 「今は日本の方が殺伐としてるよ」って言ってました。 私が仕事で行くようになったのは随分のちになるので人民服って見たことありません。 私の友人たちもまだ幼かった頃ですね。 でも家のお手伝いはよくしていたようで、餃子の皮つくりは上手です。 今の若い世代はへたっぴ!

トピ内ID:1e7a29a6a2646151

...本文を表示

1986年頃に

🙂
昔の中国
〇〇県民の船、と言うのに大学の時、友達に誘われて行きました。 友達の親類の方がその県の出身だったので。 天津についてから北京まで舗装もろくにされてないような並木道を十数台のバスで移動しましたが、牛車みたいな荷車がのんびり荷物を運んでいたり。 万里の長城も行きました。笑顔で軍服の男子と写真に収まったり。 3食中華で、お年寄りも多かったので体調を崩す人も。朝粥がおいしかった。 のどかでのんびりした雰囲気でしたが、今は当時の面影は全くなくて荷車がのんびり行き交っていた並木道もビル街や高速道路に変貌したのでしょうね。40年近く前の話です! 何もかも安くて、精巧で美しい小さな壺や皿、天津絨毯の玄関マットなどを買って帰りました。 狼の頭部がついた毛皮の敷物を買うか迷いに迷ってやめましたが、買わないで良かった。 虫が湧いたり大変らしいですね。

トピ内ID:3c6cf0b51386563c

...本文を表示

1986年頃

🙂
のみん
中1か中2の時に、某新聞社が募集していた中高生だけで中国に行こうツアーに親が勝手に申し込み、行かされ?ました。 天○○広場の近くのトイレは、入口を入ると個室なんてなく、見渡せるだだっ広い、、場所、、でした。 ホテルのエレベーターの静電気が凄くて、ボタンを怖く押せない。 一般家庭のお婆さん宅にお邪魔して、お茶を出されたのだけど、茶葉がそのままカップに沈んでいた。 万里の長城の近くの食堂で人生初ピータンを食す。万里の長城までの道途中はコンクリート舗装されていなかった。 観光客用のお金を使って、政府が運営しているお土産店(ビル)でお土産を買った。観光客用のお金ていうのは自分がそう覚えているので、記憶違いかもしれません。 ちなみに、その時に買った中国の飴は今もほぼ同じパッケージで売られていて、最近上野で買いました。

トピ内ID:d0f554693a191a0d

...本文を表示

林彪・毛沢東の大別荘

🙂
大腸亭
初めて訪れた中国は、壮絶な格差社会でした。それは、短期の旅行者にもすぐに分かりました。貧しいなりに人々が平等に暮らしている社会だろう想像していた私にとって、大きなショックでした。  一例を挙げます。  上海近郊のホテルに泊まりました。日本によくある高層ビルのホテルではなく、六万坪の庭園のあちこちに低層の建物が点々とある全体が、一つのホテルでした。元の林彪の別荘だと教えられました。そう教えてくれた方(もちろん中国人)は、言葉を継いで、近くには十万坪の毛沢東の別荘があると言っていました。  こうした発言は、格差の現状を語ったものでなく、権力者の偉大さを誇ったものではなかったのかと、何十年も経ってから考えるようになりました。  太平天国の乱は一種の革命運動ですが、その指導者達の生活が、まるで古代の帝王の栄華のように描かれた記録があるそうです。  思い出します。大雁塔の上から望む遙か西方の風景、裸電球の下で積み上げられ売られている大きな西瓜。そして、中国の人々。  中国は、見事なまでに異国で、それ故に懐かしく魅力的です。

トピ内ID:0ab2b96b822cbb96

...本文を表示

トピ主です

🙂
しゃやのん トピ主
皆様、たくさんの思い出話ありがとうございます。 私が中国本土を旅行したのは1980年代後半、学生だったので約1か月かけて中国国内を周遊しました。 本当は敦煌まで行きたかったのですが、飛行機が週1便しかないので諦めて、いちばん内陸は西安までだったかな。 ホテルは毎日飛び込みで捜し、鉄道チケットも現地で調達するバックパッカーでした。 現地中国人は誰も彼もが人民服、1か月滞在してもスカート姿の中国人女性を一度も見ませんでした。 皆ファッションモデルのように痩せていて、まだまだ貧しかったんだと思います。 上海では雑技団のチケット買ってパンダの曲芸も楽しみましたが、とにかく客席全体が人民服カラー一色、外国人の団体客がいる一角だけがカラフルでした。 >駅のベンチで寝ればいいや!は極寒凍死寸前の夜になったようです。(後の笑い話) 大陸の気候は本当にすごくて私も驚きました。 夜は氷点下なのに昼は30度超、すっかり体調を崩しました。 私はホテルか寝台列車で無事に寝泊まりできましたが、中には痰だらけの駅の床に新聞敷いて寝たなんてツワモノの日本人もいましたよ。 ほんと後の笑い話です。 >トイレは、入口を入ると個室なんてなく、見渡せるだだっ広い、、場所、、でした。 はいはい、私も一度そういうとこに入りました。 そもそも個室があっても誰もドアを閉めないんですよ。笑 日本の銭湯みたいに、同性同士なら見られても構わないという感覚みたいでした。 >お茶を出されたのだけど、茶葉がそのままカップに沈んでいた。 これは田舎に行けば今も同じかも知れませんね。 カップに直接茶葉を入れて湯を注ぎ、蓋をずらして歯で濾しながら飲むんですよね。 何人かで同じテーブルに集ってお喋りしたり麻雀したり、一日に何度もお湯をさし直してお茶飲む文化、なかなか良いものでした。

トピ内ID:cbea3ef1fef2041f

...本文を表示

トピ主です2

🙂
しゃやのん トピ主
>観光客用のお金を使って、政府が運営しているお土産店(ビル)でお土産を買った。 たぶん私も同じ店で買物しました。(事実上そこしか店がなかった) 私はカシミヤやシルク製品、汕頭のハンカチ等を買いました。 カシミヤは今でも愛用しています。 観光客用のお金というのは、兌換券のことかしら? 当時の中国の紙幣には兌換券と人民元の2種類あり、外貨(日本円など)と両替できるのは兌換券だけでした。 お釣りで貰う人民元が増え過ぎると帰国時に両替できないので、気を遣っていましたっけ。 >初めて訪れた中国は、壮絶な格差社会でした。 そうでしたか、私は若かったせいかあまり気付きませんでした。 共産国なので男女差別がなく、1980年代でも夫婦が同じように働くのが当然でした。 とくに列車の車掌は女性が多くて、当時の日本では考えられなかったので印象に残っています。 しかし一度就職すると一生給料が上がらないと聞いた時は驚きました。 共産国では理論上は物価が上がらないからです。 エリートだけが大学まで行って良い仕事に就けて、一生安泰だったのでしょうね。 そして労働者全員が公務員みたいなものなので、真面目に仕事してもサボっても給料は同じ、その結果サボる人が多いのは実感しました。笑 >中国は、見事なまでに異国で、それ故に懐かしく魅力的です。 おっしゃる通りですね。 中国旅行の数年後に天安門事件が起きて、私も強いショックを受けました。 それ以降、私は中国本土は一度も旅行していません。 香港もかつては何度も行きましたが、返還後は訪れなくなりました。

トピ内ID:cbea3ef1fef2041f

...本文を表示

1980年代後半にいました

🙂
JH
80年代はまだ外国人用の兌換券があった時代ですね 闇で2倍の人民元に両替ができた頃、丁度天安門事件の前後に北京に住んでました まだ車が少なく、タクシーを拾うのも大変、タクシー運転手が人気の職業で月収600元は大卒者でも憧れていました 今テレビで流れる北京市内の渋滞が、車ではなく自転車でした 市の中心部でもまだ荷馬車がちらほら 来るバス来るバス満員で、乗り込むのに苦労しました 地下鉄も環状線しかなく、切符も我先にと小さい窓口に手を差し出す人たちでなかなか買えず、並んで順序良く物事を進めるという考えは全くなかった 市場でも大声で店員にアピールしないと見向きもしてくれないし、商品は投げてよこすし、品質が悪いから買う時にしっかり確認しないと後で泣きを見るし 北京にやっとケンタッキー・フライド・チキンが出来て、結構にぎわっていました マックはまだなかった 外国人料金に反発した友人が広州で北京行の寝台券を入手しようと切符売り場に三日間通い、結局取れなくて止むを得ず外国人用窓口に行き、瞬時に入手 「外国人」という存在がまだまだ特殊な頃でした 思い出すとキリがないですね でも人々は活気にあるれていたと思います

トピ内ID:2d34639c4cb03b03

...本文を表示

トピ主です3

🙂
しゃやのん トピ主
皆様、たくさんの思い出話ありがとうございます。 私もいろいろ思い出してきました。 車窓から見た土木工事現場で天秤棒で土砂を運んでいたのを見て、さすがに時代劇でしか見たことない風景でビックリしました。 当時の日本では普通にユンボが活躍していましたから。 ある時、宿が突然停電になりました。 なかなか復旧しないので、宿の人に「停電はどのくらい続くのか?」と尋ねたら、「いつもなら一週間くらい」との答えでした。 >今テレビで流れる北京市内の渋滞が、車ではなく自転車でした たしかに北京の道路幅員は当時から凄かったですが、自動車はほとんど走っていませんでしたね。 しかし朝夕の自転車の数はものすごかったです。 初めて見た天安門広場は大きかった……毛沢東の顔が見えてから故宮入口まで徒歩30分近くかかりましたっけ。 北京は中国の他の都市とはサイズ感が全然違いました。 >来るバス来るバス満員で、乗り込むのに苦労しました そうそう! バスに乗るコツは下りる人を待たないことでした(笑) とにかく押して押して我先に乗る、じゃないと永久に乗れませんでした。 >切符も我先にと小さい窓口に手を差し出す人たちでなかなか買えず、並んで順序良く物事を進めるという考えは全くなかった そうそう! 万里の長城や、あちこちの石窟寺院や、桂林の遊覧船や、いろんな場所でチケットを買いましたが、とにかく押して押して前に進んで買うしかない(笑) 自分の番になっても、上下左右から沢山の手が伸びてきて先を越されるから、とにかく図図しく行くしかない。 中国人の声の大きさや押しの強さは、きっとこうして育まれたのでしょうね。 その当時は本当にうんざりしましたけど、今になると全てが面白い思い出です。 若いときだからこそ無茶な旅行もできたんでしょうね。 1996年に猿岩石ヒッチハイク番組が話題になったときも、当時を思い出しました。

トピ内ID:cbea3ef1fef2041f

...本文を表示
[PR]
気に入ったトピを保存するといつでも読み返せる
気に入ったトピを保存するといつでも読み返せる
使用イメージ
使用イメージ

マイページ利用でもっと便利に!

お気に入り機能を使う ログイン
レス求!トピ一覧