本文へ

貧乏な経験明るく語りませんか?(駄)

レス27
(トピ主 0
😀
はちみつ
話題
ご覧いただき有難う御座います。 発言小町の使い方がイマイチなんですが、(駄)の使い方合ってるか自信ないです、間違ってたらすみません。 私は幼いころから絵に描いたような貧乏生活、それ以上に貧乏でした。 家に風呂もなく銭湯通い、友達の家で初めて食べた食事には衝撃を受けました。 ですが、今は貧乏よりは少しだけマシな生活をしていると思います。 そして私の性格が底抜けに明るいと周りからよく言われるので、今では貧乏も笑い話に自分の中でしてます。 幼少期からの貧乏について誰にでもベラベラ喋る勇気はさすがにありません、だからこちらに投稿しました。 貧乏をバカにしているわけではありません。 ここでは貧乏からの脱却エピソードなど、明るくお話できたらって思います。

トピ内ID:3374068412

これポチに投票しよう!

ランキング

レス

レス数27

このトピックはレスの投稿受け付けを終了しました

リアルタイムでした

041
まるん
今日、たまたま七年前の今日の日記を読んだのですが、 「鉄鍋が欲しくて店に行ったけど、高くて調理用鉄の玉を買いました。825円。 浴衣も欲しくて見たけど、高かったので、自分で作る事にしました。 メートル500円。 あぁ、お金が無いって辛いな~」 って書いてました。 旦那が仕事辞めて、家のローンと小さい子抱えてパートに行ってたこと思い出しました。 今もローンはありますが、二人で前より稼いで、それなりに暮らしています。 日記にボソッと愚痴ってたこと 何だか我が事ながらいじらしくて 笑みと涙が浮かんできました。

トピ内ID:7974056073

...本文を表示

素晴らしい

041
イロハ
(駄)の使い方を気にするなんて衝撃です。 しいて言えば、内容としては(駄)よりも(真)かな? その貧乏形無しの明るさ、いったいどこからくるのでしょうか? 別に貧乏話を言いふらさなくてもいいと思いますが、自信を持って幸せな人生を歩んでいただきたいと思います。 いやー、久しぶりに・・・

トピ内ID:4585470797

...本文を表示

昔のアルバイト先のアパートで。

🎂
ドイツは今35度!
夫が学生で私も日本から少し仕送りしてもらって同棲中でした。 夏休みに一人で南ドイツまで(住んでいたのは北)列車で7時間も揺られS市に着き、そこの職安で ベルトコンベヤーでの簡単なアルバイトを見つけ、アパートも近くの大学の学生課で捜し見つけました。(2か月間) そのアパートは3人学生共同でシャワーも共同でした。 シャワー後はそれぞれ水(お湯)をどれくらい使ったかを見てそのメモリ(数値)と名前をノートに書く仕組みになってました。 でも私の前に使った人達の数値が1目盛りだったり最高でも2目盛りだったりと信じられない数値が。 どうやって節約してシャワーをするんだろと。 努力して短くシャワーしても20か30の目盛り(数値)は飛ぶように使います。 そして発見したのです! なんとその人達のせこい努力! でも私も見習いました! 彼女たちはシャワーの水を、ぽたっ、ぽたっ、とだけ出させた状態で 体を洗ったり髪をあらったりしていたのです! そして自分でもやってみたら可能でした! なるほど。 あの時ほど納得!したことはないです。 皆、貧乏学生で苦心の努力でした。

トピ内ID:2674856874

...本文を表示

親の話しですが

🙂
ご飯大好き
母の幼少期の話しです。昭和の初めです。私が聞いた時は、羨ましいと感じました。母は、7人兄弟姉妹の長女、母の母(私の祖母)は、毎日、朝から晩迄働き、大変だったようです。きっと時代が、大変だったのです。(戦争とかで) 毎日、学校にお弁当を持って行けず。お昼は、外に出ていたと。運動会の当日、母の母(祖母)がお昼時間に走って来た。初めてお弁当を持って来ました。アルミの弁当箱をそのまま渡したのです。母が受けとると弁当箱は、熱々だった。蓋を開けて見ると、炊きたての白いご飯に、黄色い卵が、かけてあり、お醤油をまぶしてあった。物凄く、美味しそうな良い匂いがして、あまりに嬉しくて、泣きながら食べたそうです。一口一口、大事に食べた。祖母は、「勘弁ね。勘弁ね。」と謝った。母は、あの頃のあの美味しさに、あの後、出会えなかったと。貧乏であるが故に、白いご飯と卵の味で感動出来たのか。母は、その後、そこそこお金に困らなくなり、美味しい物も食べられたけど、その思い出の味を、私も食べてみたいといつも思います。楽しく語るとは違うかもしれません。

トピ内ID:4483902974

...本文を表示

こどものころ

💋
清貧
昭和40年代 今思えば隣近所みんな似たような状況だったような気がする けどお金持ちの友達がいてそこのお宅に遊び行くと 自分ちは貧乏なんだと実感した お金持ちの家には電子レンジなるものがあって おばさんがあんまんをチンしてだしてくれた かなり驚いた それとリカちゃんハウスがあってリカちゃん人形も何体かあって すごい衝撃をうけた うちはどんなに頼んでも買ってもらえなかったから 親は平均的なサラリーマンで家のローンを払い 節約していたんだと思う 老後、年金と企業年金で裕福になり 無駄遣いばかりしてた 節約の反動かな?

トピ内ID:6114923747

...本文を表示

大学時代から貧乏暮らし

🐴
法華の太鼓
大学時代はまかない付きで月額7千円3畳のアパートに住んでいました。 その後、戦争の被害を受けなかった一画のボロ屋に移りました。 たたみはぶよぶよ家が傾いていて家の隅に物が転がるような所で、友達と住み自炊していました。 友達は大学紛争にのめりこみ大学の建物を封鎖していて時々しか帰ってこなくなりました。 だんだんお釜やお鍋から直接食べる生活になり、やがて親からの仕送り前にはインスタントラーメンで生き残る貧乏生活になっていました。 就職して結婚しアパートを借りましたが家具がありません、隣の音がまるで一緒に住んでいるようにそのまま聞こえる安普請でダンボールの上で2人で食事をしました。 やはり不便なためドイトで組み立て式のテーブルを買い塗装して使いました。 2人で一生懸命働き中古住宅を買いました。生活も良くなり子供ができバブル前に大きな家に移りました。 今は子供も自立し夫婦2人になり定年退職をして家を新築しました。 リビングには新婚時代の思い出のテーブルが置いてあり、今でも現役です。 だんだんよくなる法華の太鼓という言葉が好きです。

トピ内ID:9472199820

...本文を表示

新婚時代

041
節約しなきゃ
給料日前、家にあったのは激安店で買ったツナ缶とジャガイモ。 さあこれで何ができるかな、と考えてやっぱり格安の牛乳や粉チーズでグラタンを作りました。 帰ってきた夫が一言、 「おおっ、マグロのグラタンか!」 実家で食べていたグラタンはエビやホタテが入った、割と豪華なものだったので実はとても恥ずかしかったのですが、この言葉で救われました。 数年後、料理雑誌に堂々とツナ缶のグラタンレシピが出ていて驚きました。

トピ内ID:9337259411

...本文を表示

すき焼き

🐴
とんきち
70年代から80年代の話です。 すき焼きって、牛肉でするって知らなかった。ずいぶん大人になるまで、マジでブタでするって思ってた。 ひな人形、段飾りがあるって知らなかった。はじめてみたとき「か、階段!?」と思った。 冷蔵庫は冷凍庫がなくて・・・氷とかどうしてたんだろう? 地方だから車はあったが超ぼろくて、坂道の時は上れないから暖房止めてた。冷房はなかったな~。暑いからうちわであおいでた。 貧乏だったけど、なんかみんな貧乏だし、悲壮感もなかったなあ。 大人になったらお金稼げるようになって、いろいろおいしいもの食べて「ぐお~やったぜっ!」って達成感あったな。

トピ内ID:7993945390

...本文を表示

大学時代のバイト友達と

041
ゴルフ練習中
大学時代、東京の某学習塾でバイトをしていました。 バイト友達、みんな地方から出て来た愛すべき貧乏人ばかりでした。 (というか同類達の結束が固く、お嬢様女子大生が採用されてもすぐ辞めていかれました) 奢ったり奢られたりはしないという不文律があり、バイト終わりにファミレスで夜明かししても、ひたすらおかわり自由のコーヒーだけ飲み続ける人や、ライスだけ注文して他の人の頼んだフライドポテトに付いて来たケチャップをかけて食べる人などもいました。 飲み会をやっても二次会まで行けないので、近くの学校の校庭で缶蹴りやだるまさんが転んだを真剣にやりました。 山形のラフランス、信州のりんご、山梨のぶどう、茨城?栃木?のお米、どの県か失念しましたが、アスパラやたまねぎや魚の干物や干し柿など、実家や親戚からの差し入れを物々交換しました。 米不足でタイ米やアメリカ米などが流通していた頃に国産の良いお米を少しでもお裾分けいただけたのは、今思えばとっても贅沢でしたね。 1990年代前半のお話でした。

トピ内ID:3583315113

...本文を表示

ご飯大好きな方の話  すごい感動ですね。

💍
わんこ
私も幼少のころは目だった貧乏ではないけど、貧乏でした。人として厚みのある人間形成が出来る条件はやはり貧乏だとは思いますが、でも、貧乏はいやですね。 だけど金持ちに羨望はないです。 貧乏ゆえに全てに遅れをとったから。もしお金があったら本をいくらでも買えたのに(きっと人生が変わっていたと思う)。もしお金があったら子供のうちから料理をどんどんこなしてレパートリーが増える分、しんどいと思わずに次のステップを踏めたのに。(メニューを沢山知っていると、悩まなくて言い分面倒くさいなーと思うことが1日にでも延びる) あったかい炊き立てのご飯に卵と醤油をかけて食べたという話。勘弁な、勘弁なといいながらも、おばーさんなりに美味しい物をと考え、熱々を間に合うように、さめない状態でもっていってあげたのでしょうね。 その真心を受けとめれるおかあさんもすごいなと思います。感動します。こいう真心のある話って人に希望を与え、強くさせますね。 貧乏はいやだけど、贅沢はしないようにしたいと思います。今51歳を過ぎてもっと昔の人の話を聞きたい、知りたいという思いでいっぱいです。

トピ内ID:6772769842

...本文を表示

小さい頃

041
晴れる
父が出稼ぎに行って、お金は送られてはこなかったので、母があちこち親戚の農家を手伝って、暮らしをたてていました。 ぎりぎりの生活にもかかわらず、兄二人と私のおやつ台を毎日くれたんです。 ときにはお昼のおかずが無くて、そのお金で甘納豆を買って、御飯に混ぜて食べたことも有りました。 そのときは凄く美味しく感じたものです。 今それを食べろと言われたらちょっと引いちゃうかも。 当時は10円で色々買えた時代でしたが、3人分なので、安いおかずを買って分け合ったことも懐かしいです。

トピ内ID:1509225205

...本文を表示

実は貧乏じゃなかったかも

🛳
カリフォルニア61歳
ダッコちゃんが大流行した時買ってもらえなく、父親の事業失敗で借金取りが家に来ていたこともありました。 我が家は貧乏だと思っていましたが、実はそうでもなかったかなと今頃思います。 田舎なので、家は広かったし、畑もあった。山も持っています。 都会の大学に行き、持ち家の無い賃貸アパートに住む一家もいることを知りました。 今は東京で持ち家に住んでいます。 庭は狭いですけどね。

トピ内ID:9900735264

...本文を表示

あの頃の大学生

041
今は悠々爺適?
 昭和43年に上京し、千葉で4畳半のアパート 暮らしをしておりました。  大学の授業料が払えず、いつしか除籍になって しまいました。なぜか、親にもお願いできず… (この事は、後年40代ぐらいまで、後悔しました)  生活も苦しく、食パンの耳が、ひと袋10円で 買えたのが救いでした。一回、3本ずつ食べました。 銭湯で、タオルを買おうとしたら、番台のおばさん が、「これ使いなさい」とタオルをくれました。  アルバイト先の上司が、仕事先を紹介してくれ、 大学に未練を残しつつ、正式に働き始めました。  高度成長期でしたが、自分のような中途半端な 人間の勤め先は、紹介でもないと、あまりありま せんでした。ここで、定年まで働かせていただき ました。    今思い出しても、本当に多くの方々に助けられ たと感謝しておりますし、あの1年半の困窮生活 を思えば、どんな苦しみも耐えられると思います。  すでに67歳になった現在、孫(1歳8ケ月) の成長が、なによりの楽しみになっております。

トピ内ID:1926410766

...本文を表示

貧乏経験者

041
野イチゴ
家は田舎で農業をやっていました。わずかな作物を売っていただけなので収入は少なくて母が内職をしてなんとかやりくりしていました。 小さい時からお祝い事などほぼなく、七五三や雛祭りなどもやりませんでした。 一番悲しかったのは、自分の赤ちゃんの時の写真がないことです。 せめて1枚はほしかった。 親はもう他界してるので責めることもできませんが、人生50年以上生きてきて昔のことをよく思い出します。

トピ内ID:2187941171

...本文を表示

私が生まれた頃のことを書きますが

041
アイアン
私自身は記憶がありません(苦笑) 私の両親は、第2次大戦後、地方から東京に出て来ました。 最初が2畳の部屋 (中学の時、そこに連れて行かれ、思い出話を聞かされました。) 次が4畳半の間借り (そこで私が生まれました。) 私が1歳の時、できたばかりの会社に入った父は肺結核にかかり、入社してすぐに 長期休暇を余儀なくされました。 節約に励んでいた母は、父に栄養をつけるために食事代を倹約するのをやめました。 (とはいえ、その頃の常食は、肉屋のコロッケと当時はめちゃめちゃ安かったクジラ のベーコンでしたから、たいした贅沢ではないです。) 病気が治った父は、会社の成長と共に貧乏ではなくなっていきます。 しかし、亡くなった父の一生は「借金」だったと母が言います。 東京で家と土地を買うためです。 ただ、高度成長期のお蔭で、2畳からスタートした父は、私に家と土地を残しました。 そして時代が変わり、もう同様の経済成長は望めません。 亡父のお蔭で貧乏ではありませんが、私は、私の子供達に亡父以上のものを 残せません。 ちょっと残念です。

トピ内ID:3518974388

...本文を表示

一人暮らしの頃

041
おばさんです
結婚22年50歳代で共働き子供なし6年半前より完全分離型二世帯住宅にて夫の両親と同居しています。 夫と結婚する前に5年程一人暮らししてた頃は結構貧乏でしたね~。(笑) 当時築30年程の木造平屋貸家(家賃が格安)に秋に引越したんですが、 親と色々あって自分の給料で買った物だけ持って家出同然の一人暮らし。 貯金で最初に小さな冷蔵庫と炊飯器、二層式の洗濯機だけ買って、 後は給料日毎に扇風機や毛布一枚、石油ストーブとか買い足してました。 電話やテレビがないからラジカセで某公共放送のニュース聞いたりしたな~。 生活の必要経費を差し引くと自由に使えるお金が殆ど無かったから、 給料日前日に食べるものがなくてお湯に砂糖を溶かした「砂糖湯」で空腹を誤魔化した事も。 生活は楽じゃなかったけど親の干渉からは自立して精神的な自由を謳歌してたから楽しかったです。(笑)

トピ内ID:4831758351

...本文を表示

再レス ご免なさい、私の前のレス、明るくない(苦笑)

041
アイアン
本当はね、私の娘が結婚するので、レストラン予約して家族で歓送会するのを オチにしたかったんです。 父と母は若い頃、凄い貧乏だったんですが、何とか私と弟を育て上げ、 田舎の親戚からは、東京に出て成功した伯父さん一家と頼りにされ、 内情は火の車でも、母は何とか家を支え切り、父を看取りました。 父は、漸く貧乏から脱した後、贅沢することもなく、ある意味淡々と死にました。 ある晩発作を起こして、翌朝、天に召されちゃった。 家族に介護のつらさを感じさせないよう、急いで死んだようにさえ思えます。 そんな両親がべたべたに可愛がってた孫、私の娘が結婚することになりました。 彼氏も娘も業務多忙かつ金がないので式を挙げないんだとか。 私も妻も口出しはしない、金銭援助はできない、それでお互い気は済んで いますが、やはり門出は祝いたい。 だから、週末家族4人だけの歓送会を近所のレストランで行います。 私が昔の父ほど貧乏ではなく、何とかそういう食事会ができることを、死んだ父 に感謝して・・・ ちなみに、母はまだ生きているので、感謝はいずれそのうち(笑)

トピ内ID:3518974388

...本文を表示

川で洗濯

041
黒猫
主人の話です。 小学・中学のはなしをしてもお互い共感できないな~と感じていました。 内容が、 外食もしたことが無い・・、5人家族で1個のコロッケを分け合って食べていたとか。 川の水を飲み、洗濯していた・・・。 昭和から平成に変わるような時代、川の水で生活している人がいたことに 驚きました。 そして、私が作る食事で肉があると、贅沢だと言います。 肉なんてめったにたべれないなかで育ったからだそうです。 また、一汁三菜は食事にしては品目が多すぎると文句を言います。 漬物と御飯だけの食事が普通と教えられてきたようです。 今は普通にサラリーマンをしていますが、貧乏時代の反動で 信頼できるものは、高価なものだけといい浪費しています。 まあ、過酷な貧乏生活をサバイバルしてきて、これくらいはいいのかな と大目に見ています。

トピ内ID:5259582851

...本文を表示

びっくりしたなー

🐷
いまは昔
バブルで日本中が浮かれていた頃、私は主人と学生結婚して仕送り暮らしの貧乏さんでした。 あるとき外で足を組んでいたら靴の裏に緑色が見えたんです。 なんで靴の裏が緑色?? よく見てみたら靴の底にあなが開いて靴下の色が見えていたんですねー。 道理で最近雨がよく染みて中が濡れた訳だと納得。 リーガルのロファーでしたから凄く丈夫だったはずなんですが。。。。 貧乏で靴も買えずでしたー

トピ内ID:3552819481

...本文を表示

こんな歳ですから

😀
還暦男
小さいころはみんな貧乏でした。 小学校で友達が持ってきた弁当のおかずが黒一色 よく見ると海苔の佃煮(えどむらさき)だけ それでもうまそうだった。 遠足のおやつは飴玉 かわり玉って言ってなめていると色が変わる。 不二家のダブルチョコレート 両手に持って子供が食べている宣伝を見て 自分には一生できないだろうなと思っていたこと。 そのテレビは持っている近所の家で見せてもらい 大鵬が仕切りをしていると肌の色がピンク色に変わってきた との解説 白黒テレビなので解説がないとわからない。 中学生のころ友人宅で初めて食べたプリン 食べ物でカルチャーショックを受けたのはこれ一度っきり。 そんな時代を生きてきましたがみんな同じようなものだった。 なので、みんな明るく生きていた。

トピ内ID:5365821829

...本文を表示

勤労貧乏学生時代がありました

🐱
abc
実家が成金で、家の方針に沿わなかった見せしめでしたので 孤立感は違いますが... ここまで前置きです。  今でも、某ラーメン乾麺メーカーさんをスーパーで見ると  かしわ手打ちたくなっちゃいます(笑)  5食で186円!(当時) 186円、186円...(エコー)  スバラシー!!!  デフォルトは、蕎麦乾麺、卵、白菜1玉で4日過ごせました。  ラーメン乾麺とチーズはマイ基準でうれしいご馳走♪  家庭教師先のお母様がお料理上手で憧れたり。  地元商店街さんにもお世話になったな~ 人生すべて親がかりで、かなり贅沢&安心した人生を送っている姉妹と 絶縁した自分では状況に天と地の差があり 特に、病気をしてしまった今は、極貧に逆戻りしていますが 希望もたくさんあったあの頃の  お金がないなら稼げばいいさっ♪  貧乏なんてゲームにしちゃえ♪ という雰囲気、しっかり甦っています。 (親のお金で大学に行っていた人とは親しくなれない  お金がなくてそれ以上の進学をあきらめたなど心の滓もありますが) 戦後を過ごした方々もこんな感覚をお持ちかも。 おたがい、明日も元気でがんばりましょう♪

トピ内ID:7099421679

...本文を表示

恥ずかしい家

😢
ボロ家
50代のおじさんです。 昭和54年ころの9月、学生だった私はまだ夏休みのためバイトもせず、当然勉強もせず、家におりました。 すると見知らぬ小学生が6、7人我が家に来て私に尋ねました。 「こちらの家は何年前に建てましたか?」 そうです。我が家は近所でも目立って古く、ぼろい家なのです。 答えは大正13年に建てた築後60年近い家なのです。 古くても豪農の館みたいな家なら良いのですが、本当に見るからに安普請の家なのです。 小学生と言えども、そんなこと訊かれて私はとても恥ずかしかったです。 そして、そんなことを宿題に出した担任の教諭に腹が立ちました。よっぽど担任の名前を訊いて、校長先生に「こんな失礼なこと調べる宿題を出していいのか。ぼろ家に住んでる者の身にもなってみろ」と言いたかったのですが、さすがの私もまだ学生の身、そこまでできませんでした。 しかし、それから30数年たった今も、あの時言ってやればよかったと悔やんでいます。担任も反省しただろうし。 「貧乏人の気持ちはどうでもいいのか?!」 あの恥ずかしさを思うと今も叫びたい。

トピ内ID:5912296819

...本文を表示

昔は皆貧乏だった

041
50代
昭和30年代に小学生でした。 当時食べるだけでカツカツだった我が家は、それでなくても狭い家なのに無理やり2部屋空け、集団就職のお姉さんたちを下宿させていました。 6畳の部屋に5人、4畳半の部屋に4人。 今考えるとどうやって暮らしていたのやら。 本当に寝るだけですよね。 真夏の暑さって半端じゃないかも。 我が家はまかないつきじゃなかったので、彼女らが何を食べていたかもさっぱりわかりません。 我が家で提供していたのはトイレだけです。 工場勤務だったから社内食堂があったのかな。 時差出勤があったのかな。 父が言うには、年がら年中ケンカしていたそうです。 無理もないな。

トピ内ID:5192680870

...本文を表示

アラフォーです

041
ひかる
両親が自営で、小学生低学年のころよく母から 「ねえひかるどうしよう?今月収入が30万しかないのに機械のローンが毎月100万かかるからお金が足りないよ」 とか言われていました。小学生だった私は本気で仰天し、我が家は貧乏だと思って弟妹にも「うちは貧乏だから贅沢はできないんだよ!」と教育し、田舎だったので野菜は豊富でしたがレトルトのミートボール一袋やイ○イのハンバーグ一枚を三姉弟で分け合っていました。外食もしたことがありませんでした。おやつも無く、畑のキュウリか成長期で糖分を必要とした時はよく角砂糖をかじりました。 お友達のお宅でハンバーグ(レトルトで無い)が一人一枚出てきて驚いたなぁ。 大人になり、実はそこまで貧乏では無かったが私が弟妹を教育してくれたおかげでとても助かったと言われました(笑) 貧乏だと思っていたからこそ大学も行こうと思わなかったのに!

トピ内ID:6442061837

...本文を表示

風呂が壊れっぱなしだったので「行水」

041
Paco
子どものころ、戸建ではありますが超古いボロボロの木造の家に住んでいました。 風呂場はいちおうありましたが給湯設備が壊れていてほったらかし(洗濯機置き場と化していた)にされていました。なので巨大なバケツにお湯をはっておき、そこから手桶ですくいながら髪や体を洗うという、今思い出すと泣けてくるようなことをしていました。夏はゴキブリにおびえながらの「入浴(と言えたものではなかったが)」でしたね・・・真冬は寒さに耐えられず銭湯に行きましたけど。

トピ内ID:3117139192

...本文を表示

青春時代■赤貧時代

🐴
driver
昭和30年代、物心ついた頃、タバコ屋の2階に借りた4畳半に家族4人で暮らしていました。他に2家族が間借りしており、小さな台所も、ひとつしかないトイレも共同でした。 父は13人兄弟の末っ子。母は6人兄弟の一番上。貧乏でない訳がない。古い箪笥の上に置かれたラジオが唯一の電気製品でした。 中学に入る前、6畳と4畳半がある借家に移りました。物置に使える屋根裏もあり、広い!と感じたことを憶えています。 学も金もない両親がコツコツと働いて、何とか私を大学に進ませてくれましたが、年間の授業料以外の仕送りは無し。大学に通った時間よりも、バイトしていた時間の方が絶対に多かったなぁ… 私が大学を卒業したのと同じ年に、弟が高卒で地元に就職(国家公務員)しました。 その翌年、両親は小さな2階建ての中古住宅を買い、父は大好きだった風呂にいつでも入れるようになったことを喜んでいました。 あれから40年。私は故郷から離れた西の国に根を下ろしたまま。 既に他界した父の墓参りに行くときに、我が子らに昔の貧乏を語って聞かせることもありますが、実感はわかないでしょうね。 それでいいと思います。

トピ内ID:8206336000

...本文を表示

貧乏ではない

こぼちゃん
銭湯に「通える」経済力があるのであれば 貧乏ではありません。 貧乏な人は銭湯に行く金もありません。 あなたのレベルは貧乏ではなく 「裕福ではない」というレベルでは? 裕福ではない人が、私は貧乏といいますが そのほとんどは貧乏ではありません。 貧乏な暮らしはそんな甘いものではない。

トピ内ID:0882401535

...本文を表示
[PR]
気に入ったトピを保存するといつでも読み返せる
気に入ったトピを保存するといつでも読み返せる
使用イメージ
使用イメージ

マイページ利用でもっと便利に!

お気に入り機能を使う ログイン
レス求!トピ一覧