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ご家族から戦中戦後の話をどのくらい聞かれましたか?

レス45
(トピ主 2
041
クリームティー
ひと
昭和38年生まれ、60歳、女性です。 去年の5月に母が90歳で亡くなりました。 亡くなった直後は、父の世話もあり、バタバタしていましたが、最近、母の元気だった頃の面影がよく心に浮かびます。 両親は揃って昭和7年生まれなので、物心ついてから思春期までの思い出と言えば、戦争にまつわることでした。 「とにかく食べる物がなかった」「空襲警報で夜中に何度も起こされた」「機銃掃射で、校庭を逃げまわった」等、 当時の話になると、昔に返ったように熱を込めて話していました。 父は祖父の仕事の関係で、今で言う北朝鮮と韓国の両方で暮らしていたのですが、幸い終戦時には38度線よりかろうじて南にいました。その折の悲喜交々の話をよくしていました。 母は、まだ12〜3歳で、「闇米」をもらいに汽車で農家まで行くこともたびたびあったとか。途中で見つかったら逮捕されるので、怖かったと言っていました。 亡くなった母の思い出で、真っ先に心に浮かぶのが、戦中戦後の話をする姿ですが、友人、知人とこういう思い出を共有するのは意外に難しいです。 私が、母31歳時に生まれていて、同い年の友人達の親御さんはもう少し年下、ということもあります。 母は城下町のお城の足元のような所で育ったため、食糧に苦労しましたが、今なら車で30分の距離でも当時は農村だったため、そのあたりで育った方は食糧にも困らず、空襲もなかったそうです。 逆に、10歳くらい年上の知人などは、親御さんがよほど思い出したくないのか、当時の話は一切しない、という方も。 私の母などは、家族を亡くした訳でもなく、昔話として話せたのかもしれません。 皆様、ご両親、お祖父様お祖母様から戦中戦後の苦労話などお聞きになりましたか?

トピ内ID:f9c30afc91b4214e

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何も

🙂
匿名
両親は戦後生まれなので戦中戦後のあれこれはわからないそうです。 祖父母は何もそういう話はしなかったですね。過去の辛いことより、今の楽しいことを話してたと思います。祖父は父親が戦地に行ってる間に産まれて、その父親は戦死して会ったことはなくて、歳の離れた長兄に母と一緒に世話になって育ててもらったけど、自分より年上の甥っ子もいたりして大変だったらしいなどは祖父以外の誰かから聞いたけど、祖父は孫の私たちにはそう言う話はしなかったです

トピ内ID:c36a1847c4bfe06d

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祖母から

041
ふーく
祖父は、軍需工場で学生動員で働いていたときに、手の指を欠損しました。 祖父の家族は出兵した家族のほとんどが帰らぬ人となり、遺骨もないそうです。空襲で焼き出され、財産のほとんどを失ったそうです。 祖父は戦時中戦後の話は、一切しなかったそうです。娘である母が尋ねても、「供養があるから知りたい」と祖母が尋ねても、顔を背けて話さず。祖母は祖父の数少ない親戚から、聞いた位だとか。 祖母は全国有数の工業都市に住んでいたので、空襲にあって家が焼失した話を聞いています。祖母は幼い兄弟の手を引きながら、必死で山に避難したそうです。 ただ空襲は一回だけだったので、戦後の再建が早くて助かったとか。 最近その街の空襲直後の写真集を見る機会があって、まさに爆撃中心地に祖母の家があったことを知り、「よくまぁ生き残った…」と恐怖に震えました。 祖母は終戦記念日は必ず「すいとん」を作りました。 祖母は、戦争を思い出すからと、どんなに美味しいものでも「粉もの」「イモ類」が大嫌いでした。 でも、粉ものの「すいとん」だけは作り続けました。 祖母の娘の母も、私も、今でも毎年終戦記念日には「すいとん」を作っています。

トピ内ID:3726287d470b4afb

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日露戦争の話を聞きました

😉
mumumu
父が早く亡くなり祖父が父親代わりでした。祖父は、日露戦争に衛生兵で従軍したと言っていました。なので、怪我をした時には自分で治療していました。勲章を貰ったこととか、中国の文化や風土について話して呉れました。冬には、中国で見たのか、自宅で「胴服」?と言う綿入りの外套を愛用していました。当時の中国では、街頭で行き倒れた人がいても、誰も関心を示さないのが不思議だと話していました。戦争についての良し悪しについては、話しませんでした。 父方、母方の伯父さんや叔父さんも太平洋戦争に行き、何人か亡くなっています。当時の日本では、戦争を止むを得ない事として、殆どの人が受け入れていたのではないかと思います。戦争と言えば、直ぐに政府を追及、糾弾する人達が居ますが、当時の資料を見れば、町役場や土地の有力者が先頭に立って音頭を振っていたことが分かります。要するに国民の殆どが参加していたのです。自身は、終戦前年に生まれて、戦後小学校に入りましたが、着る服や下着、靴、靴下が少なくて苦労しました。教科書は、暫くは2人で1冊を使い、ノートもザラザラ紙で鉛筆もガリガリ、消しゴムは無し。5年生の頃、運動靴を始めて買って貰って嬉しいと言う依りは、恥ずかしかった事を覚えています。給食が始まったのは、5年生頃で始めは粉乳だけでした。 トピの趣意が分かりませんが、個人的な所感として、日本は戦争に負けて好かったのではないかと考えています。日本の古い慣習や価値観が壊れて、平等と自由、民主主義の精神が尊ばれる時代になりました。先日、宇宙から地球を写した写真がメディアに紹介されていましたが、こんな綺麗な地球で、何故未だに戦争が無くならないのか残念に思います。

トピ内ID:0cbf296eb6ac492a

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メッチャ聞いて育ちましたよ

🙂
おばはん
>「とにかく食べる物がなかった」「空襲警報で夜中に何度も起こされた」「機銃掃射で、校庭を逃げまわった」等 >友人、知人とこういう思い出を共有するのは意外に難しい >私が、母31歳時に生まれていて、同い年の友人達の親御さんはもう少し年下 もう、どれもこれも同じように経験しています。 私の母は昭和9年生まれで、31か2歳で私を産んでいます。 私はアラカンとしておきますね。 うちは、父が漁師で家におり、夕食どきはよく戦時中の話になる事が多かった。 田舎で親戚も側で、皆んなで集まって食事をする機会も多く、戦時中の話題は良く上っていましたよ。 機銃そう…の話ね、状況がいまいち理解できなくて話半分にしか、聞いてなかった。 我が家は防火豪の中の話も多かった。 夜中、空襲警報で叩き起こされて、防空壕まで逃げて中にくぐまって(こんな言葉だったかなぁ?)、赤ん坊(一番下の叔母)が泣くと近所の?うるさいおじさんに泣かすなと怒られた、だの、晩御飯中の空襲警報に電灯?に布を巻いて灯りを遮って凌いだ、だか。 誰とも共有しておらず、家を出て40年近く経ってしまったので、うろ覚えです。 本当に、あの時代の子供達(私たちの親世代)の苦労は、大変なものだったと思うのです。 いつもお腹が空いていた話、食べるものが無かった話。 友人の両親はうちの親よりも6歳くらい下で、お金持ちの家だったけれど、戦後モノがないのは、金持ち貧乏変わらなかったんだよ、と、傘がなくて布団(毛布みたいなもの?)を被って学校に行った話をしてくれましたね。 おそらくうちの両親は布団なんて夜寝る時に一人一枚なかったんじゃないかなぁと思いながら聞いてましたけど、ね。 戦後の闇市の話や、学校に行きたくても子守や仕事の手伝いで行けなかった話。 私の母親は長女で、六つ下の叔母との話と少し違うのも、良かった。 色んな話を聞きましたね。

トピ内ID:57a77a05a9c4fc5f

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かる~い感じで

🐤
せろはん
おじいちゃんおばあちゃんの家に行った時に、思い出話みたいな感じで多少聞かされるくらいでした。 あまり交流がなかったからかもしれませんけど。 空襲があった時は、その後外に出てて燃えているガラス拾ってキレイだねって言っていた。 お菓子屋さんだったから、おやつにはお店の駄菓子を食べていたが、戦争になってから豆腐屋さんにかわった。 食べ物がなくて、芋どころか芋のツルばかりを食べていた。 戦争で親をなくして孤児になったけど、〇〇家に養子として引き取られた。 だから本家とは血の繋がりがないんだ。 とか。 昔はお兄ちゃん(おばあちゃんのお兄さん)は怒ると怖くてね〜。みたいな話と同じテンションで話してました。

トピ内ID:dcc78ca6f7d4a530

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「まさか日本が負けるとは思わなかった」

041
Baker
私の祖母は1907年に生まれ、終戦時は38歳でした。私は祖母に、「この戦争はもう駄目だなと思ったのはいつ頃だった?」と尋ねたことがあります。祖母の答えは、「そんなことは思わなかった。まさか日本が負けるとは思わなかった」でした。 祖母はトピ主さんのお母様と同じく空襲がなかった田舎に住んでおり、息子がいなかったために身内が戦地に行くこともなかったので、戦争に関して楽観的だったのだと思います。戦時中の日本には祖母のように最後まで日本の勝利を信じていた人がたくさんいたのでしょうか。

トピ内ID:c887a85bf7fe99ed

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親の地元次第

🙂
ICHICO
わたしの母は、東北が実家でしたから 空襲は直接受けていない 父は関東北部の出身で、そこそこ苦労はしたようですが まあ私の親はあまり語らない人達でした ただ、母はサツマイモを異様に嫌うんです なんでかって「戦争中、サツマイモばかり食べさせられたから嫌いになた」ということらしい それと、都会から疎開してきた仔たちとの軋轢?も少しだけ耳にしました さて、次は夫の両親 うん、あまり語ることはなかったですね 江戸っ子です 東京大空襲の被害にあう仲で、義父の実家近辺は 奇跡的に焼けなかったという話とか 義母はまだ幼かったために、疎開させられて寂しかったとか その程度しか聞きませんでしたね 夫の祖母も結婚した当初は健在でしたが 戦争の苦労話は一切なさいませんでした ああ、夫の祖父は戦死だったようです 第二次世界大戦については、7月8月になると特集番組が放送されますから 私たちの親からの話より そちらから得た情報のほうが多いです どちらの家族も、つらかった時代の話はあえてしなかった

トピ内ID:dae00f95056c78d2

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私が聞いた話

😢
ピース
終戦時に小学3年生だった父と母方の伯母から聞いた話です。 父 「グアムが日本領になった時、学校でガムが配られた」 伯母「体育の時間に憲兵さんが来て、木製の模型を使って、手投げ弾の投げ方を教わった」   「国語の授業でモースル信号を習った」   「国語の先生が出生する時、全校放送で校長先生が「これから〇〇先生がお別れを言います」と言った後に、モールス信号が流れてきて、クラス全員それを解読してノートに書いた」   「竹槍で敵を突く練習? それは女学校に行ってたいとこがやってたよ」 父も叔母も特に悲壮感もなく、「子供の頃の思い出の一つ」として語ってくれたのが、余計にショックでした。(伯母などは「私は運動が苦手だから手投げ弾は苦手だったけど、モールス信号はクラスで一番早く解読出来ていつも褒められた」と自慢げだった) 当時の政府が、児童に軍事訓練を受けさせていた事実も衝撃的です。 これが戦争なのだとしたら、絶対に戦争はやってはいけないと思います。 もう一つ、伯母から聞いた戦後間も無くのお話です。 学校の給食で連合軍の配給のチョコレートが出た日。伯母は4歳下の妹(私の母)にも食べさせようと半分持ち帰ったそうです。 母に「チョコレートだよ」と見せても、小豆の粉をブドウ糖で固めた代用チョコしか見たことのなかった母は「こんなのチョコじゃない」と言って聞かず、食べようとしなかったそうです。 業を煮やした伯母が、一欠片無理やり口に突っ込んだところ、母はそのおいしさに夢中になって残りのチョコレートも食べてしまったそうです。 しかし、伯母が「ほら、チョコレート美味しいでしょう」と聞くと、「美味しかったけど、これはチョコじゃない」と言ったそうで、私はこの話を思い出すたびに切なくなります。

トピ内ID:0db17b28a7812ff9

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同世代です

🙂
昭和人間
戦争が終った時、私の両親は10才でした。 大空襲があった場所だったため、「近くに爆弾が落ちて怖かった」という話はよく聞きましたね。 ほかにもちょっとした話は聞いていますが、暗い感じではなく思い出話といった感じです。 2人とも子供だったし末っ子だったため、家族に守られてあまり怖い思いをしなかったのか、辛い部分は思い出したくないのかはわかりません。 ただ40年ほど前にカーキ色が流行った時、母が「兵隊さんを思い出すからその色は嫌」と言ったことがあるので、やはり辛い記憶はあるのでしょう。 そんなわけで私は両親と戦争があまり結び付かなかったのですが、20年前に、叔父夫婦が当時満州にいたことを知りびっくり! 教科書の中の話でしかなかった戦争が急に身近に感じられましたね。 私は高度成長期と共に育ち、なんの苦労もない人生を歩んできました。 それも私の祖父母たちが必死で父と母を守ってくれたからこそ、 戦争を生き抜いた方々が必死に働いて、日本を焼け野原から経済大国にまで発展させてくださったからだこそ、とおもいます。 戦争の記憶を話したい方、話したくない方、どちらもいらっしゃるでしょうが、 私たち日本人は決して忘れてはいけないことだと思います。

トピ内ID:6f11a5c6682f3f52

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同時代に生きても人それぞれ

🙂
らいら
主さんとほぼ同年代です。 が、両親からは、 ほとんど話は聞いたことがありません。 理由は、田舎の農村地帯で育った両親には、 空襲や空腹の体験が、ほぼ、なかったからだと思います。 昔は、お菓子は売ってなかった、くらいの話は出ましたが、 それは戦争に関係ない話ですから。 同級生たちの話を聞いても、 大変困難な体験をした人、 特に困っていなかった人、本当に、これが同じ時代にいた人たちなんだ、と驚くほど違うんですよね。 尚、戦争で兵隊にとられ、 生還したおじさんたちは、 お盆になると、戦争の体験談で盛り上がっていました。 大声で笑うような話ばかりだったのですが、 本当に恐ろしいこと、嫌だったことは、口に出せなかったのかもしれないな、と、今にして思います。

トピ内ID:1209bacbb9153489

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母75才

🙂
さなま
75才の母から戦後の話を聞きました。 恐らく昭和30年代のことのなのでしょう。 島根出身の母が、足を失うなどして兵隊さんの服装をして街頭に立つ物乞いがいたと話をしていました。 関東出身の父も、そのころは沢山いたと話をしてたのをびっくりした記憶。 日本全国そんな状態だったのか?

トピ内ID:4414550e70883b0d

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父83。最近、初耳な話をしてくれます

🙂
みーこ
私も似たようなことを考えていました。今、人生で一番父と会話し、父の過去に触れています。 父が5歳の時、なんと堺で空襲に遭い、被災したそうです。1945年夏の事です。初耳でした。 目の前で家が全焼する体験や、当時中学生のお姉さん(のちに精神疾患で入院し他界)に手を引かれたり背負ってもらったりして必死に逃げたそうです。 転がるように逃げ込んだのは、トマト畑。 (裸足で逃げたので)血だらけになった両足を、お姉さんが、持っていた包帯でくるんでくれたそうです。 その時の空は、夕焼けのように染まり、まだ青いトマトの匂い・土のひんやりした感触が今も忘れられないと言っていました。 親戚宅に避難した後、ほどなくその近所で借家住まいが始まったそうです。 かまどに腰を低くかがめて炊きものをする祖母は、腰が曲がり、歩く時に杖が必要になったため、幼い頃から祖母に代わってお料理をしたり、水汲みをしたりと、あまり子どもらしい楽しみを味わう事なく中学を卒業し就職したようです。 祖父は、とある特別ルートで配給されるものに一切手をつけず、皆と一緒に配給の列に並ぶよう祖母に言ったため、毎日僅かな麦飯が続いたとか、もらえる食べ物が少な過ぎて祖母がノイローゼになり、池に入って行くのを近所の人に止められていた光景について話してくれたり、 お姉さんが精神疾患を発病するきっかけになった借家の大家さん(男性)から受けたハラスメントなど、悲しい話しかありません。 よくこんな時代を生き抜いて来たなと、あたらめて高齢世代に対して労いの感情がわきました。 このように、家族の過去を知り、その時代の真実や辛い状況に触れると、自分自身の人生や家族との繋がりを深めることができますね。 先祖供養にも気持ちがこもるようになりました。

トピ内ID:e455e655764d9647

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出征した人が居るか戦死した人が居るか

🙂
cloud
地方だけどそういうことでの近所関係はあったって聞きますね。 父母は疎開とかの苦労はあったみたいだけど、結果として長生きする程良い思いしてる世代でもありますからね。

トピ内ID:a7604386134f1bc6

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2回目です

🙂
おばはん
私の祖父母からは話を聞くことはあまりなかったのですが、夫の祖母からは少しだけ話を聞きました。 義父のお姉さんになるのか、妹かははっきりと聞けなかったのですが、若くして亡くなった方がいて。 祖母が、ポツリと「戦争で食べ物が良くなかったから、産まれた後養生してやれなかったからなぁ」と嘆いていました。 高校生で病気で亡くなったと聞いています。 義父は無口なので、亡くなった方のことは聞いた事がありません。 ですが、私がお仏壇をやり始めた頃に、お写真を祖母の隣にして前に出しているのには気づいた様子。 お盆の時に、同じように並べてくれました。 お位牌も母娘隣に置くようにしています。 夫の祖父は、戦争中に有名な作戦に携わっていた事をいつまでも悔やんでいたと夫が話をしてくれました。 この二つの出来事もあって、あまり戦争中の話は夫の家族の間では交わされなかったのかもしれませんね。 夫の祖母との話の中で、この地域は防空壕はどこにあったのでしょうか?と質問しましたら、「防空壕はなかったなぁ。そう言えば、長女と家の中の押し入れに隠れたよ」と言っていましたね。 私の父の戦争の思い出は、祖父がその地域では出世頭?で、尋常小学校卒の貧乏漁師ながら一番偉い立場だったと孫の私まで色んな方から聞かされて育ちました。 実際に、私の就職を世話をしたいと高校に電話をかけてきた銀行の方もいて、それは祖父に世話になったからとの話でしたね。 そう言えば、戦後に虐げられた方が家もなく、食事を求めて来ていたという話を聞いたのが、つい5年ほど前だったのは、父の辛い記憶の一つなのかもしれません。 戦争の話にはさまざまなエピソードがあって、人の繋がりや歴史を感じさせられます。 うちの父も、友人のお父様も、戦争絶対反対は言うまでもないことなのが、子供の頃に受けた心の傷の大きさを物語っているのだと感じています。

トピ内ID:57a77a05a9c4fc5f

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祖父が特攻隊だった

🙂
ドリアン
祖父と祖父の兄弟が特攻隊で戦死して、祖母は戦争孤児の子供4人と自身の子供4人を1人で育てあげました。 大正4年生まれの気の強い祖母で、食べるものはサツマイモばかりで、父はイモ嫌いになったそう。 長崎に落とされた原爆のキノコ雲を 畑仕事しながら見たそうです。 今は建て替えてありますが、私が高校生まで古い家には床下に防空壕がありました。 82歳になる母からは、防空壕に入って耳を塞いでいた記憶はあるそう。 祖母、父も亡くなり戦争の記憶は聞くことがなくなりましたね。

トピ内ID:196140f3860a9412

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本当にきついことは話せないみたい

041
クルリ
私は1968年昭和43年生まれ。 私の父は、戦時中に両親を亡くしています。父の父は戦死、父の母は病死です。終戦当時父はまだ11歳でしたから、それからは本当に苦労して生きてきました。 で、戦時中のことは話しません。うん、殆ど話さないな。母から「お父さんは本当に大変だった」という話を聞くくらいで。 頭が非常によくて学びたかったのにそれが断たれた人ですから、子ら(私と弟)が院に行くと喜んでました。孫が医学部入ったときも凄く喜んだ。 母は呉の空襲体験者で、その時「数えで4つ」だったと。 防空壕の隙間から真っ赤な炎が見えてそれほ今でも目に焼き付いていると言っています。 映画『この世界の片隅で』を見たそうで、「あれは万感迫って何とも…」と絶句していました。祖母(母の母)が(当時としては珍しく)油絵とか描く人だったので、主人公と重なりまくって大変だったろうと思います。 ただ、母が大変だったのは寧ろ終戦後で、帰還してきた祖父(母の父)が、戦場でマラリアにかかって置いていかれて這いつくばって泥水すすりながら九死に一生を得て帰還した人で。えーと、今で言うPTSDですかね、心の傷を発症して、夜中に物凄く暴れて、酒浸りになって、一家で非常に苦労をしたようです。 ただ、母はこの話はしない。年の離れた叔母から聞いたことがあるくらい。 本当にきついことは話せないんでしょうね。 あ、父も母もサツマイモやカボチャは嫌いです。当時を思い出すから。 スイートポテトとかパンプキンパイとかね、そういう系の菓子はどうにも食べる気にならないって。

トピ内ID:2ac86933c2d49f33

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私は66歳です

🙂
匿名希望
父から聞いた戦地での話を、卒論に取り上げました。 その際に、戦争作家の早乙女勝元先生にご助言いただきました。 南方の島に出征した父。 大けがをした仲間の腕を麻酔なしで切り落とす時、軍医に 動かないよう体を押さえていろ、と言われ、父の方が卒倒してしまった話や、 爆撃で目の前の上官が屋根まで吹っ飛んだ話など、 もっともっと残酷で悲しい話ばかり。 とてもここには書けないような。 父から沢山聞きました。 詩が好きだった父、戦地でも頭に浮かんだけれど、忘れてしまうのは残念、しかし、書き留めておくことは許されず・・・小さな紙切れに書いて、それを毛布?にいくつも縫い付けて、日本まで持って帰りました。 父の努力のおかげで、後年、父は詩集を発刊することが出来ました。 母は戦時中女学生で、軍需工場で軍服やゲートルを縫っていたそうです。 大きなお屋敷に住んでいましたが、銃を作るのに必要だから鉄製品を差し出すように言われ、背の高い立派な門扉を軍に没収されたそう。 こんなものを使うようでは、日本は負けるだろう、と両親と密かに話したとか。 密かに。。ですよ。公然としゃべったら、とんでもないことになりますから。 そんな母の大きな屋敷(杉並区)も、昭和20年の5月の空襲で丸焼けになったそう。 3月10日の大空襲だけが取り上げられますが、都内ではあちこちで空襲がありました。 知り合いの男性は、3月10日の東京大空襲で、たまたま深川に出向いていた家族を全員亡くし、小学生だったその方だけ、生き残られたそうです。 残酷なことです。

トピ内ID:ee480fa7f773c98c

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インテリだった祖父より

🙂
桜子
祖父の戦争体験を多く聞きました。 壮絶な体験を全ての国民がしたわけですが、それを語る人と語らない人両極端いらっしゃいます。 特に祖父母世代(大正3年と7年生まれ)。そして結構上官だった方々。語ってはいけない、語っては自分が壊れる、トラウマや命令、諸々の理由。そして私が知る祖父母はすでに60代後半から70、80、90代。思い出したくない、よりも記憶が曖昧にもなっている、不幸な記憶は消し去られている、といった感じです。 その中で私もじっくりとインテリだった母方の祖父と縁側で祖父の体験、祖父の兄弟の体験を聞き出しました。 百田さんの『永遠の0』ばりに笑 元々代々庄屋さんの豪農で、兄弟は米国に美術留学した、とか日露戦争からの海軍で大和にも造船後乗った方々もいたほど。祖父は最後は町長を務めたわけですが、戦争中は満州へ単身で栄転、上官としてやっていたわけですが敗戦。ロシア軍に捕虜としてシベリアへ抑留。その時に英国人やドイツ人と交流。周りは亡くなる方も続出した中で凍傷に遭いながらも昭和26年にやっと日本帰国。 壮絶すぎて筆舌しがたいものです。 海軍の兄弟も、フィリピン・レイテ戦で殉死。米国に渡っていた兄弟もサンフランシスコの収容所に送られたそう。 祖母は空襲に遭いながらも戦中に生まれた母たちを守り抜きました。 母は終戦記念日が誕生日、3歳でした。 戦後も玉子焼きが弁当の中に入っていて周りに羨ましがられたコトを覚えています。 同年代の父は大変貧乏な家に育ち、とても苦労したことで、戦中戦後の記憶もほぼなし、全く語ってくれませんでした。

トピ内ID:c12c46fcb8d77d85

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B29は竹槍では落ちぬ(嘘)

🙂
かぱ
祖母から聞いた話。 確かに戦中 竹槍の訓練はした。 しかしそれは飛行機を落とすためではない。 味方の高射砲や戦闘機が敵機を撃墜してパイロットがパラシュートで脱出した場合 捕虜にするため。 原始人じゃないんだから飛行機が竹槍では落とせないことくらい考えなくてもわかる。

トピ内ID:317a46e8848de0c7

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ちょこちょこ聞いてた

🙂
おばちゃん
空襲警報がなったら、どうたらこうたらとか。 ドラマでみるように、電気の傘に布たらしてたとか。 衝撃的だったのが、「原爆のキノコ雲を見た」です。 昭和11年生まれの母が住んでいた所からは、有明海を越えて山の向こうが長崎市で、今は車で日帰りできる距離なんですけど。 それに、そんなに海に近いところに住んでたわけでもないんですよ。 歴史を見た人の言葉は重いと思いました。

トピ内ID:012cd65ace1db03b

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聞けば答えたくらいです

🙂
匿名
アラフォーです。 両親は戦後生まれのため、戦争の苦労自体はないようです。 父方の祖父母 父方の祖父は自分が赤ちゃんの時に無くなりましたので当然話す機会はありませんでした。父から聞いた話では、田舎住まいで若手の医師だったため兵役はなく、祖母も病院の娘ですぐ戦争も終わったため、2人とも特に苦労しなかったそうです。 母方の祖父母 祖父は兵役を経験し、原爆症を患いましたので必然的に知っていましたが、当時のことは聞けば話してくれたくらいで、あまり思い出したくないようでした。まさに「病気と戦いながらいまを楽しく生きる」がモットーのような人でしたね。田舎ですが旅館経営者だったので、戦後はかなり派手に遊んでました。 祖母は当時高校生?で、祖母の父親はタイミングよく兵役を逃れ(出兵前に降伏)、田舎住まいだったからかあまり実感がない、と言ってました。(農家だったため都会の人が着物をくれた?とかは話していたかな。) 総じて、自分の親戚は戦争で苦労したのは母方の祖父くらいで、その祖父からもあまり聞くことは無かったですが、夫は沖縄出身の母や祖母がいるためか、戦争の苦労話は私よりはるかによく知っています。 出生地とかでだいぶ差がありますからね、今だと政治問題にもやや絡んでくる話題なので、知人や友人と話そうとは思わないかな。他国の戦争の話を聞いて憂うことはしていますが。

トピ内ID:0b7377c792a93d5a

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聞かないし言わない

🙂
海外出身
私はトピ主さんよりうんと年下ですが戦争経験者です。 戦争は過去ではなく、いまもまだあるものです。 話したいかと言えば話したくないですね。 話したところ、見たことがない人には伝わらないし。 言葉はなんの訳にも立たないし、経験していない者にその悲惨さは伝わらない。 話すよりも現場のグロ画像一枚でも見せた方がよほど伝わる者はある。 トピ主さんにとってもこの国の人にとっても戦争は、ニュースであれだけ流れても『いまの出来事ではない、昔話、お伽話』くらいの感覚なのですね。 まるでこの世界からなくなったかのような書き方で、平和の有り難みを感じます。いいことです。願わくば、その幸福な状態が全ての国でずっと続いて欲しいですね。 戦争なんてかつてのお伽話であるべきです。

トピ内ID:724d867392322bf6

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中学の宿題で戦争体験記

🙂
ぎんねこ
トピ主さんと同じ年です。私達の小中学校の教育は反戦思想ともう二度と戦争を繰り返さないの思潮が強く学校教育自体そのものでしたが、自分の娘の中学の夏休みの課題には、祖父母の戦争体験記というものがありました。 私は実家の父親と義父に作文をお願いしたのですが、義父は東京育ちで焼け野原後の物資の不足や貧窮する人の群れについて書いていました。私の父は、広島の原爆の日に277機程の爆撃機が別府湾上空を旋回するのを小学6年の時に目撃したことを書いていました。何の米国のアニバーサリーだろうと思ったそうです。そうしたら、翌日、原爆のことが、新聞に掲載されていたそうです。確か13の倍数だったと思いましたが、咄嗟にかけ算で、爆撃機の数を割り出した少年の知恵には驚きました。 あと、大分は温泉地のため、占領されたときに、保養地にしたいがため、空襲を免れるだろうということも知っていたそうです。 衝撃の父の作文でした。有り難く父の方を提出しました。

トピ内ID:dae69c950571d417

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母は昭和6年生まれです

🙂
海賊の妻
東京大空襲を経験しました。母は女の子なので祖母と母の3人で防空壕に入り父と3人の兄が火消し棒を持って落ちて来る焼夷弾から家を守ったそうです。12発の焼夷弾を4人の男性家族が命がけで落としたそうです。母のお母さんはこの日が最後と思ったのでしょうか。仕舞っておいたお米でおにぎりを作り、母は美味しさのあまり死んでもいいと思ったそうです。まだ子供だったんですね。 奇跡的に母の家は焼け残りました。あたり一面焼け落ちて、ご近所の10家族が避難して来ました。廊下まで人で一杯だったそうです。自慢のヒノキ造りの家は傷だらけになりました。廊下に七輪を置いて炊事をする人たちで家は大変な事になりました。父親は立派な人でしたので、誰にも何も言わなかったとのことです。テレビドラマのように食べ物の買い出しに苦労し、ようやく手に入った食べ物も子供優先なために、もともと小柄な母親はどんどん痩せたそうです。 母の家は高級住宅街にありましたが、敵は場所を選ばず東京中を火の海にしました。家族全員助かったのも家が焼けなかったのも奇跡のような物でした。食べ物が無く、庭に植えたトマトがまだ青い内にもいできて、それしかない日もあったと言います。 母の長兄は学徒動員で皇居を守るために近衛兵に選ばれましたが、何しろ不器用な人で死ぬまで自分で靴下も履けない情けなさで、1日目に馬に蹴られて陸軍病院に入院し家に帰されたと言う事でした。 父は予科練に行きました。戦闘服を着た若い頃の写真が家には有ります。ある日7つボタンにいかりのしるしの軍服を着て母校訪問をした時「なんて格好いいんだ」とみんな思ったそうです。それは後に続く若者を勧誘する国策でした。むごい事です。父はすぐ下の弟を失いました。予科練で上官に殴られて死んだのです。それも戦死として処理され、父は1晩中号泣したと聞きました。自分が「兄の後に続け」と言う手紙を書いたのです。

トピ内ID:a84e46633df66aee

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もうすぐ東京大空襲の日ですね。

😢
世界中が平和になれ!
昭和43年生まれ55歳です。 私の両親は終戦時幼かったのと田舎育ちなのであまり戦争の思い出はないみたいです。 そんな両親よりもトピ主お母様と同年代の伯母がたまに戦争中の話をすることがありました。 中でも印象的な話は 山の中に畑を作って芋を育てろと言われて学校や組単位で山に農作業に行った話。 みんな農家の子供達なのでこんな所にいきなり苗を植えたって、いい芋が育つわけないと知っていながら黙って作業をしていたそうです。 「畑仕事なんかしたこともない偉い人が思い付きで命令しているからそんなバカな事をやらされていたのよ」 としみじみ言っていました。 伯母と同世代の知人女性は工場で働いていた時、囮のために飛行場に並べるハリボテの飛行機を作らされていたと言っていました。 その時 「ああ、日本は負けるな」 と確信したそうです。 東京生まれの隣人(生きていれば90代?)は空襲後の遺体と家屋の焼けた匂いが混ざって漂っていたその匂いが今でも鼻の奥に残っていると言っていました。

トピ内ID:9a14cefc5b6592da

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ありがとうございます

🙂
クリームティー トピ主
たくさんのレスを頂き、ありがとうございます。 両親は2人とも普段からよく話す性格で、戦時中の話はさんざん聞いて育ちました。 父がよく言ってたのは、「戦争に負けるかもしれん、なんて言ったら、憲兵に捕まる。自分の考えなんて、持てる時代じゃなかった。」 父は、朝鮮にいた頃は食糧に困らなかった、と言い、 それを聞くと、母は毎回、「信じられんわ!」と当時の苦労を語りました。 8月だけでなく、年中何かのきっかけでそういう話をしていました。 確かに、高度経済成長期に育った私達には想像もつかない苦労だったと思います。 それでも、原爆や大空襲の被害者の方々や、外地からの引き揚げで悲惨な目に遭われた方々、実際に戦地で辛酸を舐められた方達と比べると、まだ振り返って 明るく話せる範囲だったのでしょうね。 去年、テレビで、戦争孤児の方々の当時を振り返る番組があり、胸を打たれました。 守ってくれる人もいない孤児達を、周りの社会も手を差し伸べる余裕もなく、保護されるどころか迫害された、との話。 報道では取り上げられることもなく、人知れず苦労をされた方々は数知れないことでしょうね。

トピ内ID:f9c30afc91b4214e

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戦争はおとぎ話ではなく連綿と後遺症を残す

🙂
おばはん
書けない話もあります。 日本には原子爆弾が落とされています。 後遺症は、被爆者だけでなく、その子供たちにも及んでいます。 今でも検査をしているのかな。 近しい者が被爆者二世です。 妊娠、出産も専門の病院だったかと思います。 後世にも酷い影響が及びます。 私の英会話の先生は、この事実を知りませんでした。 軍人の奥様でしたが、私の話を聞いた後、しばらく口が聞けないほどショックを受け、その後私はハグされました。 後遺症の事は何も聞かされていない、と仰っていましたね。 戦争はあってはならないこと。 とめどがないから、だと思っています。 動き始めたら、最後の最後の最後まで、抑止力など働かず突き進んでしまう恐ろしさがあるのでしょう。

トピ内ID:57a77a05a9c4fc5f

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いろいろききました

🙂
戦争は嫌だよ
両親は幸い空襲のほぼない地域に暮らしていたのですが、それでもとにかくサイレンを嫌がっていました。空襲警報を思い出すそうです。どなたかが、サツマイモ嫌いと書かれていましたが、父はサツマイモもかぼちゃも好んでいましたが、同年代の人の中には戦時中を思い出すから嫌いな人も多いと食べながらよく言っていました。とにかく、食べ物が無くいつでもお腹を空かせていたそうです。 配偶者の親は江戸っ子で、東京大空襲のことを話してくれました。 業火で風もつよく、目の前をトタンが飛んできて電柱に巻き付いたり、人を傷つけたりしたそうです。庭で野菜を育てていたそうですが、よく盗まれたそうです。 友人のお母様のご家族は、東京大空襲から命からがら逃げ、ふと気づいたら、なぜかやかんや枕をぶら下げていたそうです。 中国で戦っていた親戚は何故か思い出を美化しており、またその戦場を訪れたいと言っていました。現地の方々にしたら、ふざけたことをと不快に思われるだろうなと思いながら聞いていました。 東京から地方に学童疎開をされた方は、夜決まった生徒だけが別室に呼ばれ牛乳を飲んでいたそうです。親が特別にお金を払える生徒だけだったと、後から知ったそうです。

トピ内ID:7aa48e70ec97aaa0

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主に戦後になりますが

🙂
匿名
母は曾祖母から聞いた話しをしてくれました。母は曾祖父母に育てられた為、祖父母とはあまり交流がありませんでした。 母の実家は、曾祖父母の時代から本家と呼ばれ、親族が集まり同居していたそうです。 戦争から帰還した大叔父達、従兄弟らも同居していたのですが、曽祖父をはじめに、誰も何も話さず、抜け殻のような姿で何名かは自害されたそうです。 母が唯一記憶する大叔父は、ある日突然正気を失って失踪したままだそうです。 本家では、戦中〜戦後まで、郵便配達人や派出所の方などが来ると、食事を出す役目があったそうです。村の方々も困ると食事に来たそうです。 ある日、兵士が20名ほどが押し寄せ、この家に食糧があると密告があったと、槍で天井を突き、床を剥がし、家中をひっくり返して行ったそうです。 私が小学生までは古い家のままだったので、寝る時に、この槍の跡が怖くて泣いたのを覚えています。 曽祖母は、日頃から庭にある池の中に米を隠していました。さらに兵士が見つける用の米も用意していたそうです。 「あの人達も、手ぶらじゃ困るだろ」だそうです。 また、この件は村の方々の密告だったそうです。曽祖母は、食事に来た人達に「ここの米が無くなったら皆が困るのに、分からねぇのかな」と笑いながら言ったそうです。 父方は諸事情で戦争の話しはタブーです。 もっと書きたい事が沢山あるんですが… ただ、一つだけ消されない事を祈ります 戦争という不条理な事が世界に通用してるなんて不気味です。 日本人に産まれたので、戦争について考えて勉強を続けたいです。

トピ内ID:3c85b4350dc8d1b1

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大正七年生まれの祖母が

🙂
襟野
・出征下夫が帰ってくるというので隣県まで行ったが会えず、赤ちゃんおぶって提灯ぶら下げて男の人について戻ってきた ・配給のパンがまずかった ・お父さんが灯火規制中にタバコ吸いまくって近所に怒られた ・外国人の兵隊さんが立っていたのが怖かった ・元々お金持ちだったが戦争で貧乏になった ・隣の市に爆弾が落ちたとき燃えてたのがよく見えた ・再婚した人は結核で戦争行ってない ・汽車の中でヤミ米見つかりそうになったら窓から放り投げてあとから回収に行く といった話を良くしていました。 昭和30年代生まれの母は 「隣の市に爆弾が落ちたとき、父親が近くまで見に行った。そこで母親と出会って結婚した」 みたいなことを言ってました。

トピ内ID:883fed106922642f

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