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昭和初期の食について

レス17
(トピ主 0
🐧
えいか
話題
タイトルの通りなのですが、昭和初期ごろの食料事情についてです。と、言うのが今年で83になった私の祖母が、子供の頃私の曽祖父にあたる・・所謂、曽おじいちゃんが化粧品店を営んでいたそうです。 祖母が小学生の頃は、お弁当持参だったそうで、中には貧しくてお弁当も持って来れれない子がいた中で私の祖母は毎日のようにお弁当あり、しかも卵焼きが必ずと言っていいほど入っていたそうです。しかも、お弁当は毎日お手伝いさんがお昼の時間帯になると作り立てを学校まで持って来てくれていたそうです。 小学校は卒業したそうですが、女学校に行ったかどうかまでは聞いていませんが多分行ったのではないかと思われます この事から、結構裕福な家庭に生まれたと思われる祖母ですが、現在は重度認知症になり昔のことを聞くのも難しい状態です。 昭和初期の衣食住について、詳しい方が居られたら教えて頂ければ幸いです、よろしくお願いします。

トピ内ID:2832094161

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戦前

🙂
お手玉
トピ主さんのおばあさまは、昭和8年生まれくらいでしょうか。 昭和初期といっても、おばあさまが小学生ということであれば昭和14年以降くらいでしょうか。だとすると、ほとんど戦時中ということですね。 戦前は、都会と地方の農村の生活の差が今とは違ってものすごくあったようですのでトピ主さんのおばあさまの住んでいた地域により全く違うと思いますよ。 また、人件費が非常に安かったので戦前商売をしている家には大抵住み込みの使用人がいました。 お手伝いさんがいたから裕福であるとは限らないと思います。 おばあさまと同年代の東京で商売人の子供であった母から聞いた話によると、住み込みの使用人が居た事、洋服を着ていた事(戦争がはじまるとモンペ)、家に帰るとゲタに履き替えて遊んでいた事、たまに出前をとっていた事、ピアノが家にある同級生がいた事などでしょうかね。 恐らく住んでいた地域によって、今では考えられない程生活には差があったと思いますので、あまり参考にはならないかもしれませんね。

トピ内ID:0804323834

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衣食住のなにを聞きたいの?

041
まか
昭和初期の弁当の話なら、地域によりますが、サツマイモ蒸したものだったり、べちゃべちゃのまずいカボチャだったりもあったようですよ。 その反面、サンドイッチを持てる子供もいたり、貧富の差は激しい。 お手伝いさんと卵焼きは裕福なほうの家庭ですね。 学校を馬車で送迎もいたそうです。 家具のようなテレビやステレオなんかあるのは村のお金持ち一軒だけで、皆で見せてもらうこともあり。 庶民は洋服や着物は母親手作り、下着は勿論、どてらも丹前も布団まで総て手作りしたそうです。

トピ内ID:8465318062

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戦前の話ですかね

041
コロスケ
昭和初期って、戦前と戦中と戦後の混乱期で食料事情違いますしねえ。 農村と都市部でも随分違いますし。 83歳ならうちの父より少し上だから、小学校時代は戦前ですかね。 うちの父は農村在住で、広い庭で鶏も結構な数飼ってましたから、たまに卵は食べられたようです(跡取りではなかったのですが)。 ウチの母は割と町中の人で、卵は全然食べられなかったそうです。 買えませんし、飼ってる鶏が(毎日じゃないけど)卵を1個産むんですが、すると、 食事の時、父親・父親・長男・父親・父親・長男というサイクルで父親と長男にだけその卵がついていたと。 で、母親と、女の子三人と、次男には全く卵は回ってこず、長男という理由で卵を食べられる弟が非常に羨ましかったと言ってました。 基本的に卵は大変贅沢品ですから、銀シャリ+卵焼きの弁当を毎日食べられるのはたいしたもの。そりゃお手伝いさんもいようなあ。 夫の祖父は大変な分限者だったそうで、 夫の祖母が戦時中に長患いしたとき、祖母は何年か温泉に逗留して、戦後の食糧難期もずっと 「毎日白いご飯と白身魚を食べていた」 そうです。 戦中戦後の食料難期にこれはホントに凄いことでした。

トピ内ID:5414751548

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お祖母様より1歳年下です

🎂
82歳の女性
昭和9年東京の山の手生まれです。 幼稚園の頃は戦争の影響も少なく(中国大陸で小規模な侵略戦争が始まった頃)衣食住ともに豊かで、八百屋や魚屋がその日の注文を取りに来て、後で家に届けてくれました。お豆腐や納豆も売りに来ました。冷蔵庫は氷を入れて食品を冷やしました。 父に連れられて、市電や人力車に乗って博覧会や動物園に行きました。動物園で自動販売機を初めて見ました。高いので抱っこしてもらって10銭硬貨を入れて、板チョコとキャラメルとグリコのうち一つを選びました。 お弁当は、お弁当箱と箸箱に入れたお箸をハンカチで包んだ上に、籐で編んだバスケットに入れたものを母がもたせてくれて、自分で持って幼稚園に行きました。小学校もお弁当でした。お手伝いさんは幼稚園や小学校低学年の頃の送り迎えをしてくれましたが、お弁当を忘れた時以外に届けてもらう子はいませんでした。 一年生の12月に日米戦争が始まり、始めはあまり影響がなかったのですが、だんだん物資が不足してきて配給制になりました。食糧不足なので子供達の栄養補給に学校給食が始まりました。 その後は、空襲、疎開、など、生活は悲惨になりました。

トピ内ID:4220912439

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第二次世界大戦

041
こう
お祖母さんが小学校6年の時に終戦になったと思います。私も小学生でした。 当時は昭和初期というより戦争のまっただ中で最悪の食糧事情です。食糧は自由経済ではなく配給制です。しかし、お米なんて全然足りないのでさつま芋とかが主食として配給されました。 敗戦の昭和20年は冷夏で夏でも長袖で寒い位でした。そのため農作物は大凶作で餓死者が続出しました。 昭和20年は東京大空襲、広島、長崎に原爆投下、敗戦と物凄い重大ニュースの影に隠れてあまり喧伝されませんでしたが、凄まじい食糧不足でした。 終戦後、GHQの司令官としてマッカーサー元帥が来日しました。当初は横浜のグランドホテルを宿舎としました。最初に宿泊した次の日の朝食はいつものやつがいい、と部下に言いました。 翌朝、用意された朝食を見て「何故だ?」と部下に聞いたそうです。というのはいつものハムエッグは卵が2個なのに1個しかなかったからです。 実はハムエッグに卵が2個必要と聞いてホテルスタッフや政府関係者が横浜中を探したけれど1個しか見つからなかったのです。 それを聞いたマッカーサー元帥は日本の食糧事情の酷さを知り驚いたそうです。

トピ内ID:8408234627

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おすすめ図書

🙂
そう
私自身は全く知らない時代ですが、谷崎潤一郎の「細雪」がおすすめ図書です。 昭和13年前後の関西の裕福な家庭の日常が事細かにつづられています。 食に関していえば、オリエンタルホテルのグリルや、行きつけのおいしいお寿司屋さん、ローマイヤア(ドイツ料理店)でビールを飲んだり、コロンバンでお茶をしたりします。 家庭料理はあまり登場してこないのですが、知り合いのロシア人のおうちにお夕食をよばれにいったり、子供が寝てから白ワインとチーズを大人だけでいただいたり…といったシーンがあります。 想像するのに第二次大戦までは日本は割とおいしいものが食べられていたのではないでしょうか。 実際にご存知の方のお話を私もうかがいたいです。

トピ内ID:9972074641

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母82歳

🐷
武士の娘
戦後は食べるものもなく苦労したようです。 当時三菱電機に勤務していた祖父が退職になり高額な退職金はインフレで紙屑同様になったようです。 食べ物は貧しいながらもお米とおかずでお弁当を作り、学校へ持って行って食べたそうです。 中学、高校一貫のミッションスクールを出ています。 インフレで授業料が高騰したので、授業料が払えず女専(大学)には行けませんでした。 この時代は女学校ではなく、もう中学、高校になっていました。 中学のみで終わる子が大半だったそうです。 中学出て洋裁学校とか。

トピ内ID:8904852789

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食 都会の人以外は日本人の相当数が専業農家・兼業農家だった

🐷
のなたま
トピ主の祖父母は私の両親の世代です。親世代の話を紹介します。 野菜の種類が今ほど多様でなく、肥料も8~9割が有機だった時代。人糞を発酵させる野壺がそこかしこにあって、子供や年寄りが落ちて死ぬ事件が多発し、人々は家族の他に寄生虫を体内に養っていました。 農薬は高価で、使うと生物は何でも全部死ぬ。使わないので、虫や野獣と争って食べられるところを早い者勝ちで食べる。サイズの揃った食べ頃の規格野菜など市場に存在しなかったのです。 土地と気候に合った育つもの優先で植えるので、小蕪の最盛期はは来る日も来る日も三食・小蕪がおかず。小松菜、南瓜、ささげ、いずれもそう。同じ野菜を、畑で作った分を一家で食べ尽くすまで食べ続ける。 薩摩芋は、6月から今時分までは生育が激しく、伸びた茎葉を裏返し裏返しして茎節が着土して発根し勝手に芋になるのを避けつつ間引いた芋がらの煮付けが一日三度食卓に。収穫時以降は当分、芋が主食兼副菜。 薩摩芋の前後は玉葱。毎日、毎日、おやつも生タマを齧って凌ぐ。桑畑のある家の子は桑の実を甘露と思って食べることができる。そうでない子供は、山に入って木苺やアケビを猿と争ったとか。

トピ内ID:5330163558

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昭和初期ではありませんが・・・

🙂
みずほ
私も、小学校の頃、弁当を持っていけなかった一人です。皆が弁当を食べている時間は、私と妹は教室を出て校庭で過ごしました。ブランコしたり、鉄棒したり、その時間の長かったこと。もちろん弁当は持ってこれなかったのは、私たちだけではありませんでしたが、学校ではこの昼休みの時間が一番イヤでした。 普段の日は一個の卵を3人姉妹で1/3ずつ、ごはんにかけて食べるのがやっとの生活でしたが、正月になると母が3人姉妹に仲良く卵を一人にひとつづつくれました。とてもうれしかったです。 風呂を薪割りで沸かして・・・といっても、まず薪を調達しなければなりません。製材所に行って廃材を分けてもらって、リアカーで自宅まで運搬して、種火をつけて薪を燃やす、とても大変です。洗濯は洗濯機を使わずタライで手洗いで、トイレはもちろん汲み取り式、夏は冷房というものがなく夜はすべて戸を開けっ放しでカヤをつって寝ました。冬は火鉢に炭をくべ暖をとりましたが、とにかく寒かった。修学旅行ではじめて旅館(ホテル?)に泊まったとき、エアコンというもの知りました。館内のどこに行っても寒くなく、こんな世界があるのかと感激しました。

トピ内ID:3922159626

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図書館

🙂
ss
>昭和初期の食について 調べればいいじゃん。 このレベルの話は、多くの研究者が色々発表しているだろうからね。 それなりの図書館へ行って、レファレンスサービスでお願いすれば。 当たり前だけど、それぐらい昔なら、村(地方ぐらいか?)によって全く違うというのがあっても不思議じゃないからね。

トピ内ID:7299165688

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生きていたら今年99歳の祖父の話ですけど

🐷
猫2匹
祖父は95歳で亡くなってしまいましたが、東北の寒村で生まれ、9人兄弟の5番目の三男坊、農家の子弟として生まれたのですが、小さい頃は兄弟が多く、タンパク質が足りないから食用カエルや雀、ドジョウ、タニシを自力で捕まえておやつ代わりに食べていたとか、言っていましたね。 祖父の妻である祖母は健在ですけど、戦前は今のように動物性タンパク質は取れなかった、今、平均寿命が飛躍的に伸びたのは牛乳やお肉を食べれるようになったお陰だと言っていました。昔はとにかく労働量が多いわりには食事の量、質ともに貧しくて、今ならすぐ治る風邪や肺炎がひどくなって亡くなる若い方も多かった、と言う事です。宮尾登美子さんの著書の中で、戦前の農村の食糧事情についても主婦の目線で書かれてあるので、ご一読されるのもいいかも。 宮尾さんは満州から引き揚げ後、結核になり農作業は免除されたわけですけど、宮尾さんのために母親が持たせた魚も、宮尾さんの口にはあまり入らず、夫や夫の家族が率先して食べてしまう事に憤りを募らせる話や、抗生物質が出回る前の農村の食糧事情について、わりと詳しく書かれてあると思います。

トピ内ID:1412660007

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映画の様な世界

🙂
健康体
主食はサツマイモ、サツマイモのツル、白米は目視で数えられる位のご飯粒が白湯に沈んでる程度。 卵などとんでもない。 一生分のサツマイモを子供の頃食べたから、今はもう見たくもない 昭和10生まれ、裕福で無い家庭の六男坊、父から昔聞いた話。 貧富の格差は、現代より格段に、食生活に直結してる部分が大きかったと思います。

トピ内ID:4976663409

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格差は大きかったから一般論だと難しいのですが

041
昭和モダニズム
女の子なら女学校、男の子だったら旧制中学に子弟を通わせていたような家庭の食の状況ならば、当時の婦人雑誌を読むとよいと思います。名は伏せますが、ネットで読むことのできるものもあります。1930年代後半の映画もネットでみることができます。ジャズで踊ってたりしてぴっくりしますよ。 戦前=貧乏、貧しい、という思い込みが定着しているようですが、上に記したような階層の家庭ならば、戦前は今と比べても豊かです。人手が安かったせいもあり、お手伝いさん(複数)は普通にいましたし、着るもの、履くものは吊るしではなくすべて仕立てでしたし(こういう家だと自分で縫っていたのは家着、労働着レベルのみです)。オーブンなんかでケーキを焼いたり、洋食を家庭で作ったり、というのもそれほど珍しいことではなかったのです。 これが昭和14年あたりより物資統制の影響でだんだん暮らし向きが悪くなり、昭和19年より大変なことになります。終戦後、戦前(昭和12年レベル?)の生活レベルに戻るまのがやっと昭和30年ごろなんです。 昔は貧しかった、じゃなくて戦争があったために貧しくなったんです。少なくとも中産階級は、ね。

トピ内ID:5580884532

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大正生まれの母はハイカラな生活をしていました

🙂
はーこ
トピ主さんのおばあ様より10歳上の、大正生まれの母がいます。 母は植民地の都市(ソウル)に住む官僚の娘でした。生活は洋風で、祖父はテニスをたしなみ、祖母のおふくろの味は、茄子を焼いてホワイトソースをかけたもの、キンピラゴボウ入のハンバーグなどで、今でも我が家のレパートリーにあります。またおやつにトマトに砂糖をかけて食べていたようです。 母の時代は女学校で高度な教育が受けられました。おばあ様の時代はもう難しかったのではないでしょうか。

トピ内ID:8878501971

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昭和10年生まれの父・・カボチャはNG

🙂
ぐりーんかふぇ
昭和10年生まれの父は戦時中8歳~ぐらいでした。 白いお米が圧倒的に不足していて、毎日毎日、主食はカボチャ料理で 「あーー白いご飯をお腹いっぱい食べたいなぁ」と日々思っていたそうです。 それから70年・・父はカボチャ料理を嫌います。 辛かった思い出がよみがえるのでしょうか? 「物であふれる今の時代に、なんでカボチャなんか食べなきゃならんのか?」 と怒りが湧いてくるようです。

トピ内ID:6705329780

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本がありますよ

041
アイス
農文協の日本の食生活全集、各都道府県別で50巻。 昭和初期の食生活を台所を担っていたおばあさんたちから聞き書きしたものです。 都道府県を更に地域別に細かく分けてるので、かなり参考になりますよ。 一口に昭和初期といっても、都道府県、農村漁村都会、全然違いますよ。

トピ内ID:5936695042

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テーマが大きすぎ!

041
三日月
>昭和初期の衣食住について、詳しい方が居られたら教えて頂ければ幸いです、 そんな巨大な質問を、500字以内しか回答がかけないこんなところで聞かれても・・・ 食に限っても、何冊もの本の分量がなければ語れないテーマですよ。 昭和初期の日本は、特に金融恐慌以前は、ある程度の国民経済レベルに達していました。 都市部では結構ハイカラな食生活も普及しています。 しかし、今とはくらべものにならないほど、貧富によって日本人の食生活は異なり、首都圏大都市部と地方との生活の違いも大きいです。 中流・中産階級の家には普通にお手伝いさんがいましたし、おばあさまは、そういうご家庭だったということ。東京や大阪なら、家では結構、洋食風の食べ物も入っていたと思いますよ。

トピ内ID:6946246446

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