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郷士なのか藩士なのか・・・?

レス20
(トピ主 2
なぞめがね
話題
 趣味の関係で水戸藩の古文書を読んでいます。  とある幕末あたりの人物の項目で、「格式代官に列す」というのが出てきたんですが、  その人の家は、石高二百石の知行取なんです。  秋田實季に仕える→寛永年中に水戸藩に知行を安堵してもらった、という記述がある家系で、累代の中には藩主の側室も出したりしています。  出世の結果として「役料五十石 格式代官に列す」とあるので、郷士? でも二百石の郷士なんているのかしら? 御三家だから、それもアリ?  知行地持ってて、石高二百石で、娘をそのまま側室に出したりしてるから、藩士?  でも藩士なのに、出世の結果として「格式代官に列す」って、変じゃない?  悩んでしまいます。  日本史に詳しい方、よろしくお願いします。

トピ内ID:8661302543

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私見ですけど

🐷
はるひ
日本史に特に詳しい訳でもない暇な専業主婦です。 >「格式代官に列す」 これは郷士でも藩士でもなくて、直参旗本(代官になれる家禄・家格) の格式を与えるという意味ではないでしょうか? 御三家の藩主、徳川一門と縁戚を結んだ結果、そういった特別待遇を 受けたと思います。

トピ内ID:1854826705

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郷士ではない

🐴
ぱど
あまり詳しいわけではありませんが・・・ 郷士の扱いは藩によって異なるものの、一般的には農民でありながら武士としての扱いを受けていたもので、知る限りでは藩士は基本的に30石程度以上です。知行200石であれば低禄者とはいえ、立派な藩士だったと考えられます。 時代が異なるので正確ではないかもしれませんが光圀の頃の大番組に属する藩士が200~300石程度であったことが知られています。 また家臣も300石以上であれば軍役基準がありますが、大半は300石未満の者で知行取ではなく切米取の家臣もいることからもうかがえます。

トピ内ID:1260099639

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素人ですが、、、

💢
八咫烏
石高と席次は余り関係ありません。 二百石で席次が代官でも問題ないでしょう。 そもそも、その家中で「代官」がどの様な席次になっていたか、を知りたい所です。 側室なんぞ出身は全く問題のない呼び名です。 まあ、「側室」なら個別な部屋とか給料くらいは貰っていたでしょうが。 一夜のお勤めであれば「側室」とは呼びませんでしたので。 早い話、豆腐屋の娘でも側室にはなれました。  郷士と藩士。 一般的には郷士は主家と行動を共にしなかった連中。 お国替えで主人と一緒に附いて行ったのが郷士以外の人々でした。 どこの「ご家中」でも、郷士はいたでしょう。 二百石は高い方ですが、書物にはそれまでに一番高い石高を示す癖がありますので、一時的にも、例えば戦国期の一時期にでも二百石の取り分があれば、其の石高が付いて回る可能性は往々にしてあります。 当てになりません。 郷士の大半はご維新の際、明治四年辺り、帰農する故郷があった連中でもあります。 それが石高、給料、でしたので、役職が付いたらそれプラスで主家から一時的に頂いていた訳です。  お国替えで主家がよそから新地に着任すれば、付いてきた家来には古来の田地・田畑は無い訳ですので、知行地は無かったものと判断致します。 どこの「ご家中」でも旧地から付いてきた家来と元からいた郷士の間には確執はありました。 更に、郷士から格を挙げてもらって「正社員」になった郷士もいたでしょう。  明治初期の政策に前述の帰農命令がありますが、帰る土地が無かった、一時金だけをもらって放り出された主家付き、子飼いの武家が反乱に及んだのには同情致します。 郷士級でも先祖伝来の田畑を取られた郷士は沢山います。 「役料五十石 格式代官に列す」 だけではもとは郷士とはなりません。  最後に、余談ですが、「藩」とは明治以前には確か使われなかった呼称です。 

トピ内ID:2770609384

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給与と役職

🐱
nana美
>石高二百石の知行取 これは、その人の家柄・家格・世襲身分。 >役料五十石 格式代官に列す これは、その人が代官相当の役職に就いて、 その給与として、役料五十石を加算されたという意味だと思います。 役職を離れれば、当然、五十石の支給も無くなります。 >郷士なのか藩士なのか 石高二百石なら、部長クラスの上級藩士と思います。 側室を輩出しているので、役員待遇かもしれませんけど。 >日本史に詳しい方、よろしくお願いします。 英文科卒で日本史に詳しいわけではありません。あしからず。

トピ内ID:7532324207

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確か・・・

🙂
baron
茨木県立歴史館に天保期の水戸藩の分限帳(藩士名簿)があります。閲覧 できるはずです。

トピ内ID:7756892217

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変?

🐧
史香
知行200石の藩士が、藩の役職(代官と同じランク)に出世して 年俸50石を貰うという話ですよね?? トピを拝見した限りではどこも変でないと思います。

トピ内ID:5692340507

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当時の価格

🐴
tora
100石が現在価格で2~3000万円だそうです。 200石だと5000万円くらい。 50石だと、1000~1500万円くらい。 吉田松陰の実家も50石ぐらいで直参のはずです。 ですから200石は高給取りです。

トピ内ID:1262160043

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役高250石の職に任命された

🐧
トピ文を読み解くなら、 ・役高250石の代官同等職に任命された。 ・200石の家禄(知行)では役高が不足していたので、  職にいる間役料50石を支給された。 ということだと思います。

トピ内ID:4263515709

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郷士ですね

民子
秋田實季に仕える→寛永年中に水戸藩に知行を安堵 この文から藩士ではなく郷士(旧族郷士)と思われます。 >二百石の郷士なんているのかしら? 郷士・藩士の扱いは諸藩によって違います。 水戸藩では郷士と藩士は原則同列です。 また登用された時期(藩初期)を考えれば、土着の勢力は軽視できませんから、 秋田實季氏の有力家臣なら200石でも不思議はありません。 郷士というと幕末史に出てくる上士・郷士のイメージが強いせいかもしれませんが、 水戸藩の旧族郷士は、幕臣で例えると名族の子孫で構成された「交代寄合」に近い と思います。 側室を出すことが出来たのも由緒ある旧族郷士だったからと思われます。 >格式代官に列す これは水戸藩の郷士としては最高の格を意味します。 役料50石は格式維持の恩典です。

トピ内ID:5850812236

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知行200石

041
ウンチクタレ男
一般的な藩であれば五公五民。 知行200石なら、100石は農民が取るから、武士の収入は100石。 1石=1両 1両=10万円が良く使われる換算。 年収100石=100両=1千万ですね。 それで200石だと、軍役として自分の他に侍1、足軽1、中間や小物2を準備しておかなきゃいけない。 士分の最低賃金はサンピン(3両1分)だから、どれだけ安く見積もっても10両以上を賃金として支払が発生する。 ちょっと腕の立つ侍だったらもっと高いはずです。 武家なら下男などを雇うことになります。 給料や食費を負担するわけですから、実質の手取りは500万円程度だったでしょう。 それで現在よりも子沢山だった訳ですから、武士の世界では中産階級だったということになるのでは? 武士の世界は見得や建前が今では考えられないほど重要でした。 儀礼等の費用が沢山必要だった。 500石(手取り250石)の旗本が、蓄財は夢のまた夢というほどだったそうですから、知行200石だと何かあればすぐに赤字だったことでしょう。 高給取りとは程遠い世界です。 現在、家族4人で貯金が全くできない家庭は年収300万円以下でしょう。 そういった意味では、換算の仕方によっては武士としては中産階級より下だったかもしれません。 郷士か藩士かという質問に対しては、水戸藩においてはMAX知行350石の郷士がいたようですから、郷士で間違いないでしょう。 現代ならあり得ませんが、側室の役割は子どもを産むことだけです。 殿様との愛だの恋だのはオマケ。 正室じゃないんだから、健康て美しければ身分はさほど重要ではありません。 問題なら養女にして身分を付けてあげれば済む話です。 逆に格式代官という言葉から、藩士だったら代官になれるけど、郷士だからこそ「格式としての代官」なんだと思いますよ。

トピ内ID:6416041028

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代官は役職ではなく身分(格式)か

🙂
P
私、先祖の調べをした経験で申し上げます。 上士クラスの序列は 身分(格式) 役職 石高 の三要素で決まります。 身分は、例えば、着座が最上位で、馬廻(平士)が最後といったものです。 役職については、この身分にはこれこれの役職というように決まっていました。 石高は家についた年収です。 「代官に列す」の解釈ですが、代官は本来役職ですが、「列す」とありますので、身分と見るべきでしょう。 役職としての代官は幕府だけでなく諸藩にもありましたが、諸藩では地位は低く、200石武士のつく役職とは思えません。 ふつうある身分のものがつく役職は決まっており、その役職につく石高の範囲も決まっていましたが、能力によって例外も生じました。200石のものがつく役職ではない上位の役職についたので50石を職に対して加増し、その職に見合う身分に格式をあげたということでしよう。 ちなみに私の先祖は200年間で200~300石の間をいききしています。養子相続による減知と加増によるものです。なお200石というの大藩では中堅の武士ですが、もちろん歴とした上士です。1~2万石の小藩では家老クラスです。高杉150石、桂100石(?)、後藤象二郎250石、吉田東洋200石だったと思います。

トピ内ID:9724412576

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ありがとうございます(トピ主)

🙂
なぞめがね トピ主
 パスワードがないのでトピ主表示が出るか分かりませんが……  皆様、さまざまなお考えをありがとうございます。    この人物は、水戸藩の「水府系簒」という文書にある人です。  石高二百石、藩主に側室を出したこともあり(一夜妻ではないと思います。名前も出家した院号も書いてありますし、生まれた娘の嫁ぎ先まで水府系簒に書かれています)、賢くて褒美をもらっている人物もいる家系。  てっきり藩士だと思い込んで読んでいたら、ある奉行職になったところで「格式代官に列す」。  「代官というのは、職務としては下の方らしい。豪農とかでもなれるような格式らしい」と聞いたことがあって、「げげっ、抜擢されて代官の格式ってことは、藩士じゃなくて郷士の扱いだったの?」となり、わけがわからなくなっています。  (高校以降は日本史を取っていません。中学までです)  秋田實季に仕えたということは、その前は佐竹氏に仕えていたんでしょうし、佐竹氏と一緒に転封してないってことはきっと佐竹氏が入ってくる前からずっとその土地にいたんでしょうし、その状態で関ケ原だったなら、江戸時代は冷や飯食わされていただろうし、、、、なまじ古そうな家系っぽいから、石高二百石でも郷士なんてことがあるのかもしれない……  そんなわけで、トピを立てました。ちゃんと読めていないのかもしれませんが、謎だらけで。  皆様の考えをさらにお聞かせください。

トピ内ID:8661302543

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郷士(外様藩士)

🐴
退職暇男
●郷士なのか藩士なのか・・・? 民子さんの回答と同じで旧族郷士です。 郷士と言っても農民身分から武士待遇を受ける取立郷士と、 武士身分からそのまま所領・諸権利を安堵される旧族郷士がいます。 後者は外様の藩士といったほうがいいかもしれません。 ●役料五十石 格式代官に列す これも民子さんの回答と同じになりますが、 郷士の中でも最も栄誉とされた称号です。 これが側室を出した結果なのか、当時の当主の功績なのかは文書を 読まないとわかりませんが。 それにしても皆さんの回答もなかなか面白く、興味深いトピでした。

トピ内ID:5176634707

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換算の根拠

🐴
tora
拙者は歴史学者ではありません。 磯田道史先生の著書『武士の家計簿』(新潮新書)と『江戸の家計簿』(宝島社)を参考にしております。 単に、米価のみの比較ではなく、当時の職人の賃金なども参考にはじき出しております。 それによると、 一石=一両=30万円です。 江戸と地方でも差が出ます。地方は物価が安いので江戸より暮らしやすいと思います。 それと、水戸藩は、参勤交代を免除されておりましたので、財政も他の藩と比べて、恵まれていたと思います。

トピ内ID:1262160043

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備考

💢
八咫烏
ここで、あーだ、こーだ、と御託を並べても埒が明かない。 其の「水府系簒」とやらを洗って、「代官」が水戸中納言家ではどういう席次であったのかを確かめるしかないでしょう。 他にも「代官」なる名称は出て来るのでしょうか。 他家とかに比べてもしょうが無い話です。 水戸家には所謂先祖代々の「家来」は居ない訳ですので、「水府系簒」さへ徹底的に探せば意外と答えは出て来るのでは無いでしょうか。 それが文献の楽しみでもあります。 是非、結果をお知らせ下さい。 末尾乍、「側室」には家系なんぞは無意味な標識ですので、元が郷士とかは余計な事かと思います。 「院」号もお金で買えます。 処で、娘さんのテテ親は殿様だったのですか?  「水府系簒」に載っているとするとそうかもしれません。 その方が面白い題材ではあります。 女子乍、殿様のお子となると、「側室」が後から付いた格式かも知れません。 紙にかかれた程度ではどちらが先かは分からないでしょう。 

トピ内ID:2770609384

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皆様レスありがとうございます。

🙂
なぞめがね
 トピ主です。  9/11のtora様まで拝読しました。  有効な情報を、皆様本当にありがとうございます。  つまり、名家出身のノンキャリアみたいなものですね。  自分のご先祖ではないので名前は伏せますが、水府系簒によると、その人の経歴はこんな感じです。 小普請組→徒士目付→小十人組→吟味役御勝手懸→格式代官列→馬廻組→奥右筆→馬廻組頭列庭奉行→馬廻組頭→大番組→勘定奉行トナリ役料五十石  側室はこの人よりもかなり前の代のことです。  勘定奉行は名前からしても重要そうな役目ですよね。だから余計に訳が分からなかったのです。  一つ質問なのですが、勘定奉行は代官の格式でもなれるのでしょうか?  時代劇で見ていると、「お代官様」よりも「お奉行様」の方が偉い気がするのですが……演出かなあ。

トピ内ID:2378288341

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ありがとうございます。

🙂
なぞめがね トピ主
 書き足りないので続きです。  皆様、詳しくありがとうございます。格式と役職と石高のことがよくわかりました。 「お目見え以上ぎりぎりの中級の下くらいの藩士かな?」と思っていたので、200石が意外な高収入・高格式でびっくりしました! この人の苗字と同じ地名が実際にあって、ここが知行地だったのかな、とか想像しています。 石高がこのくらいあって古くからの知行地があると、その知行地の農家さんたちにとっては「○○のお殿様」みたいな感じだったのでしょうか? それともやっぱり「お殿様」は佐竹氏や徳川氏だったのかな? それから、「列す」と役職の違い、びっくりしました。家格というものが仕事と強くリンクしていたんですね。身分社会のくくりしかわかっていませんでした。ありがとうございます。 小藩だったら家老になれる郷士、って、考えてみたらすごいですね。さすが徳川御三家…… 引き続き皆様よろしくお願いいたします。

トピ内ID:8661302543

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ウンチクタレ男様

🙂
いえねずみ
お名前を挙げて失礼します。 詳しく教えてくださってありがとうございます。 すみません、教えてください。 「軍役として自分の他に侍1、足軽1、中間や小物2を準備しておかなきゃいけない。」とのことですが、これはつまり、「戦の時でなくても、陸軍で言うところの小隊を、自前で持っていなくてはいけない」ということでしょうか? あと、この家は代々妙に子供が少なくて、2、3人なんです。 いちばん多いのが今調べているこの人物で、それでも5人。 やっぱり貧乏だったから子供が作れなかったのでしょうか? 側室、まさにその養女のことなんですよ。養女に出さずに直接側室に出しているんですね。てことは、ちゃんとした武士なのではないかと思ったのです。 郷士はちゃんとした武士ではないという勘違いをしていたので、今回、よくわかりました。 ありがとうございます。

トピ内ID:2604590094

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備考・ 三の矢

💢
八咫烏
佐竹の殿様は確か江戸下向の際「お国替え」の命を受けていた筈です。 其の道中、国元には不帰其のまま次の任地に向かっております。  何かの文献でその辺りの事情を読んだ事がありました。 悲惨な思いであった事でしょう。 新しい石高が示されていなかったお国替えだった筈です。  国元では大騒動。 新しい任地を選んだ家来衆は大八車に家財道具一切を積んで婦女・郎党・徒歩でお殿様の後を追った、とあります。 そして、国元残留を決めた同僚は「郷士」として水府公に仕官されたのでしょう。  ですので、序の作業としては水戸に良く見る家名が越後?の任地にもどの程度残っているのか、の照合でしょう。 一族郎党家名存続を目論んで二分して別れた事は当然あったのではないでしょうか。 武家の悲しい運命でもあります。 関ケ原戦役等の際にも良く見られた現象です。 それこそが、武家社会の「一身同体」の精神であったのです。 「家制度」です。 言ってみれば、現世の「株式会社」の原型でもあります。  殿様の任務の第一は家名存続。 一部上場の家柄を支えていく上にはお世継ぎが必須。 殿様家業も楽ではありませんでした。 其のお相手の女性の方々も必死の思いであったのではなかろうか。 武家の習い、です。 武家の子沢山はけっして遊び呆けて設けたものではないのです。 売れ残れば他家への養子として出されます。 其の子が巡り巡って元の家元へ迎えられる事も頻繁にあった筈です。 徳川本家がそうでした。  文献に 「正室」、「側室」、「お部屋様」、「お眼かけ」 等が歴史上存続していた日本は特殊でもありました。 よそでは余り見ない例です。 「養子」制度も日本独特の「家名存続」、上場資格の存続の現れでした。 これもよそには在りません。 

トピ内ID:2770609384

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いまさらながら

041
丸大豆
>>秋田實季に仕える→寛永年中に水戸藩に知行を安堵してもらった 秋田家は1602年に佐竹家と領地交換みたいな形で常陸国宍戸に移っています。 (実質的には減封といわれています。) その後、陸奥国三春に転封されているので、その間に水戸藩に仕官したのか、秋田家の転封時すぐに水戸藩に仕官と考えられます。 >> 秋田實季に仕えたということは、その前は佐竹氏に仕えていたんでしょうし、佐竹氏と一緒に転封して >>ないってことはきっと佐竹氏が入ってくる前からずっとその土地にいたんでしょうし、その状態で関ケ原 >>だったなら、江戸時代は冷や飯食わされていただろうし、、、、なまじ古そうな家系っぽいから、石高二 >>百石でも郷士なんてことがあるのかもしれない…… 私は、逆にこのケースでは、秋田時代から秋田實季に仕えて常陸に当主と共に移り、その後に水戸藩に移ったと思います。

トピ内ID:0223970178

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