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戦時中の楽しかったこと教えてください

レス23
(トピ主 1
😀
バス停
話題
戦後70年以上がたち、戦争を経験した方々も残念ながら減っていることと存じます。もちろん戦争など絶対によくないことと承知していますが、戦時中にあっても楽しかったことや面白かったこと、お腹を抱えるほど笑ったことは全くなかったのでしょうか。地獄のような話はたくさん残されていますがそれ以外のことはほとんど知ることができません。極限下を経験していない若造からの愚問として、お伺いしたいのです。人間はどのような環境の中にあっても明るく前向きな時を過ごせるのか、それともそうではないのかを。自分の経験でなくとも身近な方から聞いた話でも構いません。

トピ内ID:5011239022

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本人ではないですが。

🐧
ポム
40代後半の女性です。私が幼い頃戦時中の体験を家庭を守る主婦目線から色々と話してくれた近所のおばあさんがいました。私の母が大病をして何ヶ月も家を空けた時、私たち3兄弟はまだ小学校低学年から保育園の年齢でしたが、本当のおばあちゃんのように面倒を見てくれた人です。私たちのために自分の戦時中の体験を決して暗い感じではなく、何もなかったけど、怖かったけど、みんなで工夫して生きてたんだよという感じで色々話してくれました。 その中でも今でもよく覚えていて、当時すごいなー、優しいなあと思ったのはおまんじゅうの話です。当時食べるものも欠く状況で、甘いお菓子なんて夢のまた夢だった時に、たまたま手に入った小麦粉とほんのちょっとの砂糖を使って、おばあちゃんは今で言う肉まんやあんまんの生地のようなものを作り、真ん中に最後の最後に感じる甘い砂糖をほんの少しだけ入れて、手作りのおまんじゅうを作ったそうです。家族だけでなく、近所の人にも食べてもらいたくて、小さなおまんじゅうを蒸し、近所の子供達を集めて、一緒に食べたそうです。子供達が本当に感じられるのか?という程の極少量の砂糖の甘さを歓声をあげたり、ジャンプしたりして身体中で喜びを表してくれたと言っていました。近所の子供の母親が重病で寝込んでいて、その人にも1つあげたら、食べてくれて、数日後亡くなった時に家族の人に彼女が最後に口にできたのがあのおまんじゅうでしたと感謝され、涙が出たと言っていました。 私は当時8歳ぐらいだったので、美味しいおまんじゅうを作るなんてすごいなーとか近所の人と分け合うって優しいなあと感動しただけでしたが、今この話を思い出すと、この時期の背景にあった戦争という重い状況の中で生きていた人たち(亡くなってしまった方もですね)に敬意を感じます。

トピ内ID:8176544004

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輝く未来

🙂
大腸亭
 昭和25年生まれの男性です。  「輝く未来」というのは、母が、アルバムの自分の写真に付けたキャプションです。写真には、少し上を向いて遠く空を眺めるような少女の顔が写っています。写真の印象から、そんなキャプションを付けたと思われます。  写真が撮られたのは、昭和21年。自分がその古いアルバムを見たのは、中学生の頃でした。歴史の本などで伝えられる終戦直後の暗さと引き比べて、違和感がありました。  その母の、大戦末期の話です。暑い日に、知人と街を歩いていて、シャーベットを食べようということになりました。(洋菓子の)不二家が近くにあったので、行ってみると、行列ができています。並んでいると、「すいとん」が配られたそうです。そのすいとんが美味しくてね、と言っていました。  母の兄は、予科練を出て、アッツ・キスカ方面への爆撃行で戦死しました。昭和18年のことです。海軍によって、合同葬だと思いますが、大変盛大な葬儀が行われたそうです。母と祖母が、華やかな思い出を懐かしむように、その様子を語っていたのを思い出します。  戦後生まれの私は、もちろんこの叔父のことは知りません。しかし一度だけ、母と共に、予科練の同窓会に出たことがあります。お酒が進むと、誰からともなく軍歌を歌いだし、会場の中を、かつてさながらに行進する人たちまで出る大盛会でした。  「あの人たち、戦争で苦労したはずなのに、どうしてこんなに楽しそうなのだろう」と、ぽつんと母が呟きました。  トピ主様、面白いところに着目されましたね。歴史として概念化された時代と、その時代を生きた人々の実感には、大きな齟齬のある場合があります。  今回、母の思い出を中心に記しましたが、私はその時代の小説や映画を、時代の感覚を知る為に大切にしています。  「女は爆弾のように扱われたいの」「君は原子爆弾だね」(『青い山脈』)。 

トピ内ID:5043312750

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敵機を見物しに行った少年たち

041
スプーキー
私の父の話です。 当時父は小学校低学年。 5つ上に兄がいる末っ子でした。 ある日、兄とその友人たちが山の上から飛行機を見物しようという計画を立てたそうです。 空襲などほとんどない田舎だったのですが、たまに米軍機が飛んでくることもあし、それを見に行こうというのです。 もちろん小さい子は邪魔です。 ついてくるなと邪険に追い払われたそうです。 しかし父は面白そうなことを見逃してたまるかと、強引についていったそうです。 戸板を一枚かついでの山登りでした。 いざとなったら戸板の陰に隠れるつもりで。 小高い山の上に着くと、米軍機が飛んできたそうです。 飛行機自体が珍しく、ほお~と見とれておりますと、なんと機体がこちらへ向かってくるではありませんか。 「逃げろ!」 ガキ大将の命令一下、全員が木々の茂みに隠れたそうです。 戸板はどうしたのでしょうね。 放り出したのでしょうか。 「わしの子ども時代は面白いことばかりだった。本にしたら売れる」 などと父は言っていましたが、戦時中にも関わらず食べ物に困らない農村で、親戚が養鶏場をやっていて毎日のおやつは鳥の脚の焼いたの、なんていう少年時代は読み手の共感を呼ばないのではと思います。 従軍した祖父によると、戦争はそれはもう酷い経験だったが、兵士の中には役者もいて、芸達者たちが集まって芸を披露したり芝居を上演して拍手喝采など楽しいこともあったそうです。 大陸に出陣する前日に、神戸のお屋敷のお嬢様たちがピアノを弾いて聞かせてくれたのも忘れられない思い出だそうです。

トピ内ID:6440270869

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ドッジボール

041
ステーキ
母から聞きました。 戦時中。女学生だった母は、学校でなく工場に行かされ、そこで軍服関連の物をミシンがけする日々だったそうです。 都内で裕福な家庭に育った母でも、当時はみなと同じに、奉仕に駆り出されたわけで。 でも、手先がとても器用だったので、ミシンの苦労はなかったものの、ずっと座り続きの作業がつらかったと言ってましたね。 おてんばで今でいう、体育会系女子でしたから。 そんな日々の中で、なにより楽しかったのが、休憩時のドッジボール。 短時間でも投げて、走って、大声出して、汗をかいて。 休憩時間は静かに休むだけの人が多い半面、母のようにドッジボールで発散させていた人も割といたとか。 だってまだ女学生ですものね。 体を動かしてリフレッシュするのは、当然かも。 そんな活発な母でしたが、終戦の年の五月(東京大空襲の2ヶ月後)、杉並区を襲った空襲で、大きな自宅が丸焼けになり、掘っ立て小屋に住むことになったときは、さすがに泣けたそうです。 家族の命が無事だったことだけが、救いだったけど。 母からは戦時中の話を沢山聞きました。 怖い思いは何度もしたけど、 ひもじい思いをしなかったから、良かった。 もし食べ物に困っていたら、もっとつらかっただろうと言ってましたね。 数年前に他界しました。 ちょうどお彼岸なので、明日は墓参に行きます。

トピ内ID:4263696278

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教科書には書いていないこと

🙂
さすらいのメカニック
戦時中は配給制で農民でさえ食べるものに困った時代だった。白い米は限られた人しか食べられませんでしたと教科書に書いてありましたが、実際ウチの父親から聞いた話は違いました。米や作物は全て床下に隠し、軍需部が取り上げに来ても凶作だったとか不作だったとか、村じゅうの人が口裏を合わせて言ったおかげで取り上げられることはなかったそうです。 戦後、高校に行ってから、白くないご飯を同級生が食べてるのを見て、何だそれは?と聞くと、白い米は高価で手に入らないから、庶民はこれを食べてると聞かされてその存在を知ったそうです。 また、当時の日本では白い米がお金として使えたそうです。海水浴場に泊りがけで行こうと同級生に言われ、貧乏農家の息子だった父はお金がないから行けないと言ったら、米を持っていけば喜んで泊めてくれると言われ、持っていったら確かにそうだったそうです。 さらに、徴兵検査では読み書きが出来ないふりをしてバカだと思われたそうで、国内の勤務だったそうです。 戦前派だった父が平成の時代になってから少しずつ語ってくれた戦争時代の出来事でした。

トピ内ID:8498477509

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食べ物の話

💡
おはぎ
毎年、終戦記念日が近くなると戦争中に青春時代を送った両親が繰り返し当時の出来事を語ってくれました。空襲の話には胸がつまりましたが、その時代の当たり前の日常を切り取った思い出話の類も多かったです。 「楽しかったこと」ではありませんが、気になるトピなので、「楽しかった」家族団欒で聞いた話として私も少し書かせてください。 かぼちゃ ・・・ 父は好き嫌いなく何でも食べる人でしたが、食卓に上ると唯一嫌な顔をしたのがかぼちゃでした。戦時中はかぼちゃしか食べるものがなく、もう見るのも嫌になるくらい食べたそう。この話が出ると、学徒動員先で焼け出された後にようやくありついた食べ物が、拾ったバケツで煮たかぼちゃだったという母の話で締めるのが定番でした。 白米のおにぎり ・・・ 農村育ちの母はさほど飢えた経験はなく、所用で電車に乗って出掛けた際も白米のおにぎりを弁当に持っていました。向かいの席には都会風の上品な親子連れが座っていましたが、昼時になり弁当を開けると、その子供がおにぎりを食い入るような目で見つめてきたそうです。あまりの形相に思わずおにぎりをわけてあげると、母親からたいそう感謝されたとか。長年生きてきて親切にしたこともされたことも数多くあったはずの母ですが、このときの行為は戦時中ならではの「優越感」も入り混じった善行だったせいか、長く心に残る親切になったと思われます。

トピ内ID:8855951510

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追記

041
ステーキ
楽しいことではないでしょうが、思い出したので。 いつ空襲警報が鳴って、防空ごうに入らなければならない…そんな日常だったから、好きなものはまず最初に食べるというのが習慣になったと母が言ってましたね。 もったいないからと、残しておいたら食べられなくなるかも、と。 その名残で、お寿司も好きなネタから食べる。 それは、ずっと変わらなかったみたい。 もっとも、高齢になると、あまり食べられないから、好きなものだけ先に食べる事も多く一概には戦時中の名残とは言えないかな、と晩年愉しそうに話していましたよ。 カボチャのことをかいてるかたがいますけど、確かに当時は なにがなんでも、とりあえずカボチャを作れ、と命令され(簡単に育つらしい)それが主食になったから、平和な時代には食べたくないという人も、割といるようです。 反対にカボチャがあったから生きられたと感謝し、今も好きだという人も。

トピ内ID:4263696278

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日本は必ず勝つ

🙂
Baker
 私は、終戦時に38歳だった祖母に「この戦争はもう駄目だなと思ったのはいつ頃だった?」 と尋ねたことがあります。祖母の答えは、「そんなことは思わなかった。まさか日本が負ける とは思わなかった」でした。  祖母の家は田舎にあって空襲がなく、田んぼがあったために米に困ることもなかったので 祖母は楽観的だったのだと思いますが、戦況に関する情報が軍に統制されていた中で祖母の ように最後まで日本は勝つと信じていた人はかなりの数いたのではないかと思います。

トピ内ID:5642930076

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亡き父から聞いた話です

🙂
陽子
私の父は昭和10年に中国の旧・満州で生まれました。 寒い地方で、冬は池でスケートを楽しんでいたそうです。それしか遊ぶものなかったからなぁ、と言ってましたが。 祖母は近所の中国人とも仲が良く、当時はまだ日本では馴染みがなかった"餃子"の作り方を教えてもらって(向こうは水餃子)それを嫁である私の母が教わり、今は私が作っています。 敗戦し、日本人の家が次々放火される中、うちは近所の仲良しさんが「この家はやるな!!」と言ってくれ、守ってくれたそうです。 引き揚げの時は命からがらで大変だったけど、父は「またいつか、満州のあった所に行きたいな」と、早くに病死したので叶いませんでしたが、楽しい思い出だったようです。

トピ内ID:5036759831

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当方50歳です

041
たろすけ
小学校の夏休みの宿題には戦争体験を身近な人に聞く、というのがあり、広島と長崎の原爆記念日は登校日でした。 地元は北陸、私は祖父に話を聞きましたが、農家だったので食べるものに困った、ということは聞きませんでした。 祖父母は、大正生まれ、おそらく戦中に結婚したものと思われます。祖母は隣の隣の家から嫁いできました。 祖父は、中途失明しており、私が物心ついたときには人影を認識できる程度でしたが、若いころは見えていて体格もよく、東京は赤坂に兵隊として動員されていたそうです。 私が、30年前、赤坂の会社に勤めることになった時、当時の赤坂の様子を話してくれました。 私が結婚したのは20年前。花嫁のれん、という風習があり、のれんやお重を嫁入り道具として持たせてもらいました。ふと、気になって「おばあちゃんの時も支度したの?」と聞いたら、「時代が時代だったから」と言いましたが、祖母の没後、写真が出てきました。島田に結い上げ黒留袖の祖母と、紋付き袴の祖父の写真。結婚の記念に撮ったのでしょう。立派な写真でした。 記念の写真が撮れるほど、だったということでしょう。 私が小学生のころまで、自宅での披露宴があり、親戚の幼い女の子が花嫁さんを高砂までお手引きしました(私もそのお役をやらせていただいたことがあります) なので、祖父母の時も、座敷に親戚が集まって、お膳を囲んだのではないかと思います。祖父母の家の蔵には、輪島塗りのお膳や九谷焼のお銚子、盃、などがいっぱいありましたから。

トピ内ID:0059133664

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戦争中のこと

🙂
やむやむ
東京の三鷹あたりで住んでいた祖父母は、戦時中、米は十分なかったものの、スイカは食べられたそうです。農家はスイカを作っていて、着物やなんやら持っていくと、スイカをくれたとか。空腹の子供たちが並んで、縁側でスイカを食べる姿は、親にとってはうれしいひと時だったそうです。 空襲が酷くなって実家に疎開すると、そこは食べ物の宝庫だったそうです。働き手がいなくて草に覆われた田畑が多かったようですが、疎開した人が手を入れると、サツマイモやコメがたくさんとれたそうです。 当時は、軍部か政府の指導で、水分が多くて甘味の少ないマズくて収量の多いサツマイモしか作ったらだめだったそうです。農家は山奥の畑で、甘くホクホクのサツマイモをこっそり作って食べたそうです。川でウナギをとってウナギの蒲焼にしたり、食用ガエルのから揚げなど、いろいろなごちそうがあったそうです。サツマイモから作った水あめのようなもの(芋あめ)が最高のおやつで、農作業をがんばったときには、子供の口に入ったようです。 10代の息子、40手前の父など男手が兵隊に取られた農家は悲惨で、女性陣が総出で農業をしても、収量が減ったようです。50歳代のおじいさん、70歳代の曽祖父さんが生きているかどうかで、農家の貧富の差がついたと聞きました。日ごろから健康に気を付けて、長生きする家は、自然に良い暮らしができたと聞きました。

トピ内ID:8442065393

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亡き父の話です

ななえ
祖父は生まれつき体の弱い人で徴兵検査には合格できず、戦争に行かずに済んだそうです。 そんな祖父は今でいう大企業のエリート社員(転勤族)でした。 父は物心ついた時から、数年おきに引っ越しと転校を繰り返して、友達は一人もいなかったそうです。 父が祖父の転勤で愛媛県に住むことになったのが昭和20年頃のことです。 美しい海の近くにある小さな港町だったそうです。 当時小学2年生で泳げなかった父は「また知らな人の中でゼロからリセットされるのか」と憂鬱だったそうです。 その地の同世代の子供たちは幼い頃から海に慣れ親しんでいて泳げて当然でした。 港の岸壁から海に飛び込むという遊びが流行っていたそうです。 珍しい転校生だった父も「一緒に遊ぼう」と連れていかれましたが、足がすくんで岸壁に近づくことすらできなかったそうです。 子供たちのだれかから「お前、泳げねえの?」というようなこと言われた時、恥ずかしさとみじめさで顔も上げられず泣いてしまいました。 「ああ、これで僕は明日からいじめられる。馬鹿にされる」と。 ところが彼らのボス的存在の高学年の男子が岸壁近くの砂浜へ父を連れて行きみかんをくれて「ごめんな」と。 それからみんなで毎日砂浜で砂山を作ったり小さなプールを作ったりして遊んでくれるようになりました。 父は泳げない自分のために海に入らず遊んでくれる仲間たちに申し訳なさを感じながらも毎日楽しくて仕方がなかったそうです。 そこからどういう経緯だったか忘れたそうですが、父はその仲間たちから泳ぎ方を教えてもらいました。 海に投げたみかんを拾ってくる、という方法で少しずつ。 「海は怖かったが仲間がいてくれると思うと頑張れたし『頑張らなければ』と心から思った」そうです。 「これほど周囲の人の温かさを感じたことはなかった」と何度も繰り返してくれた話です。 終戦真近でも人生で一番幸福な時間だったそうです。

トピ内ID:1218626346

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日々の中に今も。

🙂
さくら
楽しい話と真逆で申し訳ないのですが、私は50代、父は90も半ば、大変元気で頭も体も60位の機能を保つ 驚異的な精神を持っています。戦時中は当事者としてつらい体験があるので、家族に詳細は語りません。 しかし、わたしが生まれたときから、現在に至るまで、毎日、毎食ごとに戦死された方に祈り、一粒のお米も、 一滴のお水も、無駄にはできないと繰り返し、贅沢を咎める雰囲気の中で育てられました。お笑いテレビなんて もってのほかで、、、。わたしは生涯、楽しく生きることに罪悪感を多少感じながら生きています。父は、生き延びた者が せめてまっとうに生きようとしているので、それを身近に見て、戦争はまだ遠くの話ではなく人の暮らしの中に残っていると 感じています。

トピ内ID:2442158532

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雲泥の差

🙂
sora
空襲のない土地にあった農家、食べ物に限らず物資の豊富さが何度も空襲にあった町とは全然違いますね。都市部に住んでいた私の親戚の話と違いすぎて、同じ日本とは思えません。

トピ内ID:6181899303

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内地でしかも田舎だと、普通に生活してたみたいですよ

🙂
みかづき
映画「この世界の片隅に」はご覧になりましたか? あの映画を見れば、トピ主さんが知りたいことがだいたいわかると思いますよ。 わたしの祖父母は昭和19年に結婚しました。 モノのない時代の新婚生活、大変だったと思うのですが、 ときどき祖母が話してくれる当時の話はなんだか楽しそうでしたよ。 箸もちゃぶ台もないから、その辺の木を削っておじいちゃんが作ってくれた、とか、 捨てられていた時計を拾ってきておじいちゃんが直してくれた、とか。 モノがないなか、器用なおじいちゃんが何でも作ってくれたっていうのろけ話が多かったです。 何十年もたってるので美化されてたり、「話、盛ってない?(笑)」ってエピソードもあるけど、 おおむね、今時の新婚さんとそんなに変わらない感じでした。 ただ、うちの親戚では幸いにも戦争で亡くなった人はいないし、 出征した人もいないし、疎開した人もいないし、空襲もそんなになかった地域に住んでいたので、 のんきな話ができているだけだと思います。 住んでた場所が内地か外地か、内地でも都市部か地方か、 自分や家族が出征したか、家財は無事だったか、、、などによってずいぶん変わると思います。 その辺の条件がラッキーだった人は、まあ、普通に生活してたと思いますし、 普通の生活なので、楽しいことも日々あったと思います。

トピ内ID:8233883290

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たくさんありますよ

🙂
ゆうこ
私の祖母は96で亡くなりましたが生きていれば100を超えています。原爆が投下された長崎ですが、空襲などの話の他にも楽しかったことたくさん聞かせてもらいました。本当にごく普通に子どもはいたずらをして、遊んで家の手伝いをして‥町内の人と井戸端会議で盛り上がったり農家なので食材はたくさんあり‥決して笑顔がなかったわけではないようですよ。 漫画になりますが映画化もされた「この世界の片隅に」は、戦争中も普通の生活を営んでいた人たちの日常がよくわかると思います。「少年H」などもどうでしょう。

トピ内ID:3628072501

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母の疎開

🙂
まち
自分の体験記を直接ここに書き込める人は少ないでしょうね。 私も戦時中女学生だった母から聞いた話です。 疎開と言うと家族から離れて集団生活した学童疎開とか、つてを頼って田舎に一家で移り住み肩身の狭い思いをした話ばかり聞きますが。 実母は地方都市の名士の娘で、戦火が激しくなってからは一家で親戚の別荘に疎開したそうです。 疎開先でも〇〇さんの親戚と言えばさほど冷たい扱いは受けず、飢えた経験もなければいじめられたこともないそうです。 と言ってもやはり戦時下ですから質素に暮らしたのでしょうが。 その別荘は有名な温泉地にあり、温泉だけは好きなだけ入れたようです。 「疎開というより湯治じゃない」と笑いあったものです。 ちなみに母の実家は幸いにも空襲の被害を逃れました。 疎開から帰ったら何もないなんてこともありませんでした。

トピ内ID:9409784619

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ありがとうございます。トピ主です

041
バス停 トピ主
様々なレスをいただきありがとうございます。どの話も、楽しい話、のんびりした話であっても、なぜか胸が熱くなってきます。「プライベートライアン」という戦争映画で、ラストの凄惨な戦闘シーンの直前、わずかな空き時間に兵隊たちが故郷の思い出話に花を咲かせて笑い転げるシーンがあります。戦時にあっても、あのような、ほのぼのと楽しい時間が本当にあったのだろうかと気になっていました。映画では、その間に敵軍の戦車部隊がジリジリと兵隊達に迫ってきて、やがて筆舌に尽くしがたい悲惨な戦闘と最期に向かうのです。今の社会はとても平和で呑気な話も多いですが、その間に恐ろしい災難がジリジリと音も立てずに近づいているかもしれません。どのような環境にあっても日々を豊かに明るく楽しく過ごすことの大事さを噛み締めて生きたいものです。

トピ内ID:5011239022

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女学生のラブレター、満州の川でアイススケート

🐧
みぎわ
戦時中、女学生だった祖母。 親戚のお婆さんは、戦時中を満州(現在の北朝鮮~黒竜江省あたり?)で過ごしていたそう。 日本にはない、湖のように大きな川が冬になると凍り付き、現地の子達とアイススケートの真似事をして遊んだのが楽しかったそうです。 戦時中の楽しかったことを知る点では、コミック「零戦少年」をお薦めします。 海軍志願兵だったお祖父さんの実話を漫画にした作品で、仲間達とのちょっと笑っちゃうエピソードがたくさん描かれています。 ただ、終戦に近付くにつれて重苦しく辛いエピソードが増えていきますが。。

トピ内ID:2020399963

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どんぶり鉢の砂糖

041
サングリア
亡くなった父から聞いた話です。 戦争も終盤になっていたころのことだそうです。 近所にめずらしいポン菓子屋がやってきて、近所の人達はみな自宅から貴重な砂糖とお米を持って一緒に列を作って並んだそうです。 父も妹(伯母)と一緒に並んでいました。ドンプリ鉢に砂糖を入れて。 待っているとパーンという爆音と共に甘くて香ばしい香りがしてきて、我慢できなくなった妹が父の持つどんぶり鉢に指を入れて砂糖をひとなめ。 それを見ていた父も「ずるい」と思ってひとなめ。 そうして順番が回ってくる頃には砂糖はほとんど残っていませんでした。 近所の人が「こりゃあポン菓子じゃなくてポンだなあ」と大笑い。 祖母から「(ポン菓子を)楽しみにしてるからね。作ってもらっておいで」と言って送り出してくれたことをその時になって思い出した父は、「どうしよう」とうつむいてしまいました。 すると近所の人が一人、自分の器から砂糖をひとさじ父のどんぶりに入れてくれました。 それからほかに並んでいる人も「なめてしもたらあかんで」と言いながらひとさじずつ父のどんぶり鉢に入れてくれたそうです。 父のどんぶり鉢が元通りの量になることはありませんでしたが、おかげで「甘さ控えめ」ではあったもののポン菓子を持って帰ることができたそうです。 当時父は7歳、叔母は4歳でした。 トピ主さん、素敵なトピをありがとうございます。 実はこの話、私が小学生の頃(昭和50年代)学校で「家族に戦争の話を聞いてきなさい」という課題があった時学校で発表して叱られたエピソードなのです。 叱られた理由は「大勢の人が戦火で亡くなったり家を失ったりしたのに不謹慎」「『戦争は絶対いけない』という前提にそぐわないから」という理由でした。 当時は戦時中の明るい話は不謹慎という空気があったように思います。 ですが、私はこういう史実を埋もれさせてはいけないと思います。

トピ内ID:1218626346

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戦後の話しですが

🐱
意地悪猫
戦前の生まれです、と言っても終戦時には満2歳でした。終戦時にアメリカの飛行機が編隊を組んで、自宅の上を沢山飛んで行ったことを覚えています。あれがアメリカの飛行機だと知ったのは、大人になってからです。 父親の兄弟である叔父たちが陸軍にいました。戦後復員した時に水筒や飯盒、軍靴、毛布を支給されて持って帰りました。当時は、冬季に結構な積雪がありました。地域の子供達がスキーをして遊んでいました。 祖父が板スキーを作ってくれて、スキー靴に「軍靴」を代用していました。革製で型崩れがせず、靴底も確りしていて大いに役立ちました。田舎だったので、自宅の前の山から我が家までの里道を滑って下りるのが楽しみでした。40から50メートル前後のマイコースでした。 他方、悲しいこともありました。同じ集落に疎開で来ていた年下の女の子が原爆症で亡くなってしまったのです。

トピ内ID:3778078416

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母が小学生の時の疎開

🙂
おれんじ
近畿圏にある私学に通っていた母はちょっと郊外にある分校に全校生徒で疎開しました。 淋しがる生徒を思って、先生方があちこち近所にある史跡に連れ出してくれたそう。 お弁当にじゃがいもの塩ゆでを持って、古墳やお寺を巡りつつ先生に説明を受けたようで、楽しかったらしいですよ。 お正月にはお餅つき。たまのおやつにはかぼちゃの種。 寒いしお腹が空く中でもそういう楽しみは宝物だったみたいです。 分校だったのでピアノが一台あり、みんなで順番に腕を競い合ったみたいで、 いまだに「○○さんが一番上手で、難しい曲を弾き尊敬されていた」とよく話しています。 蓄音機もラジオもなかったので、唯一の癒やされる時間だったと... 3日に一回は一山超えて鄙びた温泉へお風呂入りに行くのも楽しみだったみたいです。 でも、帰りはまた山超えてる間に洗った髪の毛が凍ってしまったり... 面会の日も楽しみだったみたいです。 両親揃って来てくれる子もいれば、お手伝いさんが来る家、愛人さんが来る家も... 親が来てくれる家の子は羨ましがられていたみたいですね。 春にはお花見にも行ったとか。 お花見ながら、どんなもの食べたい?と先生に聞かれた生徒たち、みんな一斉に「桜餅!」と叫んだらしいです。 一番の思い出は、終戦時、カステラが出て、 きれいな黄色にふんわりと焼けていて、焦げ目も香ばしそうで... 美味しそう!と口に入れてみたらバサバサで甘くなくて、戦前に食べたカステラと全然違う!? 卵の黄色ではなく、なんとトウモロコシで...よくあんなの食べられたなあって言ってました。 子どもたちを可愛がってくれた先生方も次々亡くなり、もう私達の番ねって母が笑ってます。

トピ内ID:1495509181

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そんなに楽しい話ではありませんが

🙂
おばさん
母の話です。戦後、戦時中疎開させていたひな人形を進駐軍に持っていくとシチューの缶詰や真っ白な小麦粉にかえてくれたといっていました。なので人形をひとつひとつ持って行ったそうです。 今ひょっとしてそのひな人形がアメリカのどこかにあるのかと想像しています。 その母に「この世界の片隅に」のDVDを送ったところとても気に入ってくれました ちなみに母は広島に住んでいて原爆で父親と兄を失いました。その母も91歳。生きているうちに原爆の話を聞いておきたいと思います

トピ内ID:5100743067

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