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何故?徳川慶喜は大阪城で抵抗したのか?

レス16
(トピ主 1
🐱
じろう
話題
1867年、(慶応3年)11月に二条城で徳川慶喜は大政奉還を承認し、翌1868年1月(慶応4年、明治元年)王政復古したのに、何故彼は大阪城で長州と戦い、一人江戸に逃げ帰って、篤姫に江戸城開場を願いでたのでしょうか? 自分で大政を奉還したのになぜ抵抗したのでしょうか? 某局の某番組では、王政復古して、明治となったのに以前として江戸時代そのままの感が強いのですが、まだ混乱していたからでしょうか?

トピ内ID:9447629320

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王政復古自体がクーデターだったからです

😢
通りすがり
そもそも大政奉還の時点では徳川家としては将軍職は辞任しても新政府の中で一定の役割を果たすことを考えていたのです。 ところが王政復古は岩倉具視の実質的なクーデターであり、新政府では上級公家も徳川家も排除して、一部の公家と長州、薩摩らの勢力が結託して主導することを打ち出してきたので、徳川幕府側も態度を硬化させて、朝廷に王政復古を撤回するように求めたわけです。 それに対して朝廷も幕府側の言い分の大半を認める事になったために、薩摩側がそれに危機感を持ち、幕府側を挑発したために幕府側の強硬派が暴発して鳥羽伏見の戦いが発生したと言えましょう。 結果的にこの挑発に乗ったために幕府側が破れ、江戸幕府滅亡の直接原因となったと言えるでしょう。 もともと、慶喜はこの戦いには積極的でなかったので幕府軍が総崩れになると大阪から江戸に退却しているのも成り行きから肯けるところでしょう。 つまり大政奉還は徳川家の解体を必ずしも意味していなかった。 しかし王政復古以降の動きで慶喜自身が望んでいなかったのにも関わらず、戦に巻き込まれてしまい、最終的に江戸幕府の解体につながってしまったのです。

トピ内ID:5212711310

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直結していないから

041
くも
大政奉還と徳川慶喜の権力放棄は直結していません。大政奉還は、幕府をなくすことで倒幕運動の矛先をかわすことが狙いで、実際に統治機構を持たない政府が、新政権として徳川家に頼らなければ何もできないだろうとの見通して、自己および徳川家の地位が確保される予定で、慶喜は大政奉還をしたわけです。 しかし実際には、王政復古後の新体制に徳川慶喜は迎え入れられないことが確定し、さらに徳川家の軍隊や領地、城郭などの接収が予定されると、これを失っては徳川家は今後何の権威も権力もなくなるため、戦争へ突入せざるを得なかったわけです。 ただ、戦争を続けて完全に敗北となっては、一切を失ってしまうため、そのまま戦争を続ける強硬な意思もなく、かといって幕府軍と止める権威もなく逆に好戦的な軍に担ぎ出される事態になり、とにかく江戸に帰って矛の収め方を検討したのでしょう。 200年以上続いた徳川幕府は、もはや将軍だけのものではなく、そこに所属する様々な階層の利害によって突き上げられていたのが、この時期の将軍で、徳川慶喜が一人大政奉還すればそれで済むというものでもなかったことも、大きな理由かと思います。

トピ内ID:9047650618

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大政奉還は巻き返し策

041
Q
大政奉還の意味合いを誤解されているようです。これは単に政権を朝廷に返したという消極的なものではありません。慶喜にとって、政権を手放したとしても、最大の大名として、予想される列侯会議の首班となり、そのことで政局の主導権を取り戻そうとする、倒幕派の機先を制する一手だったわけです。薩長と岩倉ら倒幕派は、それでは思惑が外れます。そこで、彼らは倒幕の密勅を手に入れると同時に、機先を制せられないために、御所を囲む薩摩藩の武力を背景に、朝廷内でクーデターを決行します。王政復古の大号令といわれるものがこれです。そして、慶喜に辞官納地を命じるわけです。これは相当にえげつないやり方です。軍事的にも鳥羽伏見で旧幕府軍を挑発し、無理やり戦争にもちこみます。兵力では旧幕府側が多かったことを考えれば、これは倒幕派にとってもかなり危険なかけでした。 慶喜は有能な人でしたが、こうした倒幕派の命がけの決意・決断に対して、のるかそるかのときの気概に欠けていたのではないでしょうか。なお、篤姫云分については、あくまでドラマでの話です。

トピ内ID:4417732985

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目的の違い

041
maru
徳川方は幕府の維持は困難と判断し、幕府という形の政権を自ら返上した上で徳川家・公家・諸藩主の連合政権を目指しました。(大政奉還) 一方あくまで武力倒幕を目指していた討幕派は一旦はその目標を失いかけましたが、その後武家・公家による政治を否定し、「天皇親政」を掲げました。(王政復古の大号令) 同時に討幕派は徳川家の新政権からの排除を目指し徳川家に領地の返上など受け入れがたい条件を突きつけました。 その結果両派による武力衝突に発展していきました。 大阪で抵抗したのは討幕派の主力が薩摩と長州だった事と京都(天皇)を押さえられたら反乱軍とされるからでしょう。 だから大政奉還と王政復古の大号令では目的が全然違います。 それからいくら元号が明治にかわってもそんなにいきなり時代は変わらないと思いますよ。 これから何年もかかって中央集権化が図られていくわけですから。

トピ内ID:9875517939

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思惑がはずれたから。

041
ひるこ
最初に「大政奉還」を申し出た時点で江戸幕府が描いていた青写真としては、天皇をトップにして 実質的な国土統治は、徳川家が今まで300年間保持してきた組織を丸ごと使うと。 実際、当時、徳川幕府以上の組織や集団はありませんでしたから、大政奉還したところで、 朝廷に実務者レベルで動ける人間は皆無に近く、「自分たちでは国家運営は出来ないから 徳川家が、代理として今まで通り国を治める助けをするように。」ということになるだろうと 高をくくっていた所はあると思いますね。 それが、「王政復古の大号令」で、徳川家を新政府の中心からは排除するとの詔が下り、 それに対抗するかのような動きを慶喜をとり、いったんは新政府は崩壊しかけますが、 それに危機感を抱いた薩長が押し戻す形で、錦の御旗を掲げて鳥羽・伏見の戦いに挑みます。 最初は「蹴散らしてやる。」くらいに思っていたのでしょうが、錦の御旗を掲げられた時点で 徳川家が公に「朝敵」扱いされてしまって敗退。これで大まかな決着はつきましたが、 徳川派の心のよりどころであった江戸城が開城されることで、最終決着となりました。

トピ内ID:4305003198

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懐かしいなぁ

041
水戸小僧
以前読んだ記憶があります。正確さは保障できませんが、まぁこんな具合だったと思います。 大政奉還はしたものの、徳川幕府が崩壊したわけではなかった。奉還後も朝廷に幕府の権力を残そうとしたほど。しかし、大久保利通?が幕府を消す案を考えた。幕府の領地全部を朝廷に返上させ、慶喜や幕府をただの浪人のような身分にしてしまおう。幕府擁護の為、死を決意してる会津などの軍勢が発起した。結果は歴史の通りに。 慶喜というのは非常に本を好み、世の先々というか、自分の将来を読むのが上手い人だったとのこと。この戦いも最初は軍勢的には幕府側に有利であったが、慶喜は勝てないことがわかっていた。西郷や大久保などの優秀な人間が幕府にいないことを憂いでいたそうです。確か慶喜は敗走してきた会津などの兵士に、戦いの檄を飛ばしたらしいが、側近には考えがあるので、江戸に帰ると言ったそうな。実際、身を隠すように船に乗って、江戸に帰ってしまった。はっきり言って、これは欺きでしょうね。でも、これが激動の時代を生き延ぶことができた理由かもしれません。 覚えているのはこの程度。私も歴史に詳しい方の考え、楽しみにしてます。

トピ内ID:0996453154

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もともと慶喜は戦いたくなかった

😡
小栗さんが好きです。
慶喜は大阪城で戦った?ちょっと違うと思います。 幕府の旗本・御家人たちは幕府を守るために薩長と戦いたかったのだが、慶喜は日和見主義の弱腰だったため、戦争になってしまったことに怯えて、部下をだまくらかしてこっそり出港して江戸に逃げた、というのが今までのところ定説になっているはずです。 総大将が自分の軍隊を裏ぎって行方をくらましたのですから、軍隊は総崩れになって負けるのも当たり前のことと言われています。 新撰組が好きな人なら、慶喜が逃げた後の新撰組の悲壮な戦いのあたりは涙なくしては語れないところです。 もともと慶喜は戦争なんてしたくなかったのではないでしょうか? それは平和主義者とか、崇高な思想があって反戦なのではなく、単に面倒が嫌いというか、戦争の責任者として先頭に立って指揮なんてしたくなかったのではないかと思います。 その後江戸で恭順を願い出て自ら謹慎したのも、保身のためでしょう。 慶喜は美男で優雅でおしゃれな人でしたが、国が混乱している時期の指導者としての資質はなかったので、ああいう行動をとったと思います。

トピ内ID:0655735905

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すばらしい!!(トピ主)

🐱
じろう トピ主
ありがとうございます。 みなさん、すばらしいです。 完全ではありませんけど、しっかり把握いたしました。 再来年は、某局で「竜馬がゆく」が始まります。 竜馬好きとしては注意深く見守っていきたいと思います。 長年の疑問が解けました。 重ねて、ありがとうございました。

トピ内ID:9447629320

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では、なるべく簡単に

041
海苔巻き
ちょっと「大政奉還」について誤解しているというか、良く理解されていないようですね。 超簡単に説明しますと、大政奉還というのは名目上のNO.1として天皇を立てるが 徳川はその代理のNO.2として引き続き日本を治める、という思惑で行われたのですよ。 ようするに、今までと対して変わらないってこと。 ところが薩長側は徳川をNO.2として残すどころか、完璧に政治の舞台から 抹消しようとしたから、戦になったのです。

トピ内ID:3190349405

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慶喜は大阪城にはいましたけど

かかし
大政奉還の後、薩摩と長州は幕府の描いた青写真のように事を運ばれては困るので幕府を挑発します。その中でも辞官納地と慶喜の官位剥奪、江戸では後方撹乱のために放火などを行います。それでも薩摩と長州と戦えば兵力の上では勝てると思っていたので、挑発に乗って鳥羽伏見で戦端を開きます。確かに幕府軍は薩摩長州連合軍を押しまくっていたのですが天皇を手中にしていたので自分たちに錦の御旗を掲げる事で幕府軍を賊軍にする事に成功します。江戸へ逃げ帰ったのは錦の御旗に逆らう気は全く無いと知らせるためです。部下を置き去りにしたのは幕臣の中には錦の御旗に怯む事は無いという強硬派がいたからです。ただ強硬派よりは賊軍になりたくないという心理を多くの兵が抱いてしまったんですね。 それから慶応4年が明治元年になっていきなり文明開化が始まったわけじゃないです。それは鉄道が横浜まで開通して電信が普及し始めて、廃刀令がでて西南の役で西郷軍が負け士族が大人しくなってからですよ。世の中が大きく変わりだしたのは。

トピ内ID:1431067688

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結局のところ

暑い時こそ熱いものを
彼の頭の中を覗かないことには結論は出ませんね。 推測や想像ならできますが、それを前提としましょう。 まず、彼は国を二分する形での内戦を避けたかったという見方が出来ます。 心情的に戦を望んでいなかったし、そのつもりもなかった。 旧幕府は、新政府に負けはしませんが、勝つことも出来ない程度の軍事力だったので、緒戦でそれが明らかになった以上、一切の政治的野心を捨てたと考えられます。 粘り腰がなかったといえばそれまでですが、アジアの他の諸国の内戦では、その粘り腰のおかげで列強の介入する隙を生じさせたという意味で、非常に意義ある行動だったと思います。 意識していたかどうかは別として。 攻める薩長が逆の行動を取るのは難しいですからね。 戦の好きな西郷辺りでは出来ないでしょうし。 彼に対する評価は難しいところですね。 その行動や性格の複雑さもありますが、彼に家康の粘り腰がなかったことが幸いしたと、僕は思います。 秀でた資質が悲劇を生むこともあるのが歴史ですからね。

トピ内ID:3336492373

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錦の御旗を過大評価してはいけない

041
Q
ひるこ様、かかし様。鳥羽・伏見の戦いにおける錦の御旗を過大評価しすぎです。確かに「玉」を握った薩長軍は、そのことで一定の優位を得たでしょうが、御旗によって旧幕府軍が腰砕けになったということではありません。もちろん、水戸出身の慶喜に対しては何らかの圧力にはなったでしょうが。兵数で優位であった旧幕府軍の最大の敗因は、この大将の腰の座らなさと武器(小銃)の優劣でした。 しかし、この戦いで敗れたとはいっても、旧幕府側に断固たる決意があれば、その後の展開はとうなったかわかりません。慶喜の態度をどう見るのかは、各人の見方です。怜悧に時勢を見通していたから内戦を回避したのか、それとも何人かの人が示唆されるように、武家の棟梁としての慶喜の資質に問題があったのか。 いずれにせよ、大政奉還→→鳥羽・伏見での内戦勃発は、革命と反革命のせめぎあいで、政治の力学の有様を我々に示してくれています。 この時期の大久保・西郷・岩倉はそうとうに汚い政治的策術を弄しています。「篤姫」は、こうした政治的人間としての彼らを抉り出している点で出色です。慶喜も優柔不断な人間として描かれていますね。

トピ内ID:4417732985

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でも慶喜は好きになれない

041
Q
「暑い時には熱いものを」様が言われていることは、総じて同意できます。慶喜に「粘り腰がなかったことが幸いした」というのはそのとおりだと思います。 しかしながら、好き嫌いで言わしてもらうと、どうも私はそうした慶喜を好きになれません。慶喜以外にも、勝海舟など、時代を正しく展望していた人たちも同様です。 人は時代の激動と関わりながら、場合によってはその流れに抗って生きざるを得ないのであって、あまりに怜悧すぎると、時代を切り開くこともできません。 慶喜は徳川宗家の相続者としての責任を放棄してしまいました。もちろんそれが国にとってよかったとしても。勝は、禄を食んできた徳川氏を結局見捨ててしまいます。これは封建倫理に反します。同じく優秀であった小栗のほうに私は美学を感じるものです。 慶喜に気概があれば、徳川氏中心の近代国家もありえたと思います。慶喜は、歴史の大舞台から遁走したという謗りをやはり免れ得ないのではないでしょうか。

トピ内ID:6870546307

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新門辰五郎が、船を出したんでしたっけ?

🐱
お玉ちゃん
私は、歴史は、素人ではありますが。 島国日本は、日本史というと、日本のことだけ考え勝ちですが、やはり世界史あっての日本と思います。 日本の鎖国は、明の鄭和から清朝に受け継がれた、大陸の鎖国政策があって実現したことでしたが、幕末、日本近辺の制海権は、英米仏が狙ってました。 今となれば、徳川はフランスと組んだ時点で、負けたようなものでした。 福沢諭吉も、世界情勢から、蘭語の勉強がムダになる覚悟で英語に乗り換えても、仏語には熱心ではありませんでしたし。 幕末内乱の続いた水戸藩の出の慶喜は、江戸の御家人がお飾りで頼りにならないことも、内乱の空しさも、近代化に遅れると日本が植民地化される恐れがあることも、分かっていたでしょう。 小町では、往々にして、やらないより、やって後悔、が推奨されるのですが、こればっかりは、自分の首を守って、さっさと逃げた慶喜が偉かった、と思います。 慶喜を評価できるような日本なら、第二次大戦も、随分変わっていたでしょう。 英国人男性最高齢者は、第一次大戦に従軍経験があり、戦争は絶対いけない、平和が自分の願いだ、と先頃語っていました。 私も同じ思いです。

トピ内ID:0818137680

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きれいごとでは終われないのですね

041
なるほどです
 私が、この種の事で思い出すのは、樅の木は残った、です。  誰もが、常に善にも悪にも成り切れず、むしろ、自分の思う方に動かそうと思えば、悪人の謗りは免れ得ない。  もし、本当に、慶喜さんが、そのつもりで行動したのだとすれば、それは本人のみぞ知るではないでしょうか?  日本の良い所は、最終的にほぼ双方が供養され、振り返ってもらえる事ではないかと思います。  観光でも、墓に詣でる事があれば、どちらにも暖かい目を注いであげられるという事ではないかと思います。  ただ、お墓や塚も、祟りを防ぐ為なんてのもあるかもしれませんが。  でも、ここまでしないと日本は変わらなかったのでしょうか?こういうもしもの小説はあったら面白いでしょうね。

トピ内ID:2505800953

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やらないよりやって後悔?

😠
小栗さんが好きです。
お玉ちゃん様 >>小町では往々にしてやらないよりやって後悔が推奨されるのですが、こればっかりは、自分の首を守ってさっさと逃げた慶喜が偉かった。 あくまでも私の意見ですが、慶喜は「やらないよりやって後悔」という覚悟で大坂城から逃げ出して江戸にもどって恭順姿勢を示したと思います。 このまま戦闘を続けるのが立場上の筋だが、戦争なんて御免だ。 でも戦争したくないなんて言ったら、佐幕派に暗殺されてしまうかも。それは怖い。 どうしようかな。このままここで留まるよりも、何とか江戸に戻って、戦争とは無縁の世界に行こう。 このままここにいたら責任者にされて、負けた時見せしめに殺されてしまうじゃないか。 江戸に逃げても倒幕派に殺されてしまうかも。そうならないようになんとか逃げて低姿勢で行こう。 やらないよりやって後悔!よし!江戸に逃げよう! なーんて心理状態だったのでは? 逃げたら味方に殺されてしまう危険もあったし、現にその直後の江戸城の会議で小栗さんに袴の裾を引っ張られて戦うように諭されたんですよね。 誇り高くあえて戦争をしなかったのとは違うと思います、

トピ内ID:0655735905

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