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おじいちゃん、おばあちゃんの、ホロリとする話

レス27
(トピ主 0
🙂
話題
はじめまして。トピを開いてくださいありがとうございます。 わたしは祖父や祖母のいない家で育ちました。 なので、おじいちゃん、おばあちゃんの思い出があまり無いので、友人が「俺はおばあちゃん子だった」というような話を聞くとうらやましいなぁとちょっと思ってしまいます。 おじいちゃん、おばあちゃんにまつわるホロリとする話を聞かせてくれませんか? 私は経験が少ないのでこんな話ですみません… うちの母方の祖父母は電車で2時間ほどの県に住んでいまして、毎年暮れに母は私たち子供三人を連れて実家に帰省していました。 この祖父母、小さな一階建ての借家に住んでいるのですが、帰り際になるといつもどこから出てくるのか大量のお土産を持たせてくるのです。 母は何度も要らないと断るのですが、いいから持っていけと。 その時も根負けで、おみやげに持たされたのは30キロの米袋いっぱいに入った、祖母が漬けた自家製「たくあん」 小学生の兄と私、まだ3.4歳だった弟を連れて数十キロあるたくあんを抱え夜道に駅へと歩く母。 駅までの何十分の間、母はずっと黙っていました。 寒くて暗い中、田舎のホームには電車がなかなか来ない。寒い寒いと私と兄。 眠いと母におんぶをねだる弟。黙りきりの母。 弟が泣き出し、とうとう母はたくあんの袋をかついでホームのゴミ箱にどさっと入れました。 「行くわよ」と母、「捨てちゃっていいの?」と聞くと「良いのよ!」母は空いた手で弟を背中におんぶし、私たちは来た電車に乗りました。 そして、電車が発車すると同時に涙をぼたぼたと落とす母。 「どうしたの?」「何で泣いてるの?」 母は悔しそうに「少しだけでいいのに、いつもいつも父は私たちに持ちきれないほど沢山のおみやげを持たせるのよ、少しだけでいいのに、、、、。」 わたしは思い出すたびに、今の自分がたくあんを半分持ってあげれたら、と思うのです。

トピ内ID:2958647967

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このトピックはレスの投稿受け付けを終了しました

トピ主さんと同じ境遇です。

Eraichi
一度は閉じたのですが、やっぱりコメントを残したくて再度開きました。 私の父方の祖父母は早く他界し、母方の祖父母は健在なものの遠くに住んでいます。会うのは年に一・二度。トピ主さんのお話と同様、母方の祖父母も、大量の食料を持たせてくれてました。地元名物のイカ団子(冷凍保存可)を20Kg近く、往路にはなかった新しいバッグの中身は、祖母が良く知っている、母の地元名産の好物ばかりでした。 そして別れ際の祖母と母は、涙・涙。母の兄弟姉妹も寂しそう。小さい頃は何故泣くのかわからなかったけれど、今になると分かります。寂しいだろうし、遠くで暮らす祖母・母の健康を心配しているでしょうし、祖母は遠くで頑張る母にしてあげられることもない。 私自身、異国に暮らすようになりました。母は泣かないけれど、今思えばきっと母は祖母と同じように思っているはず。そう思うと、一時帰省中の今、やっぱり辛くなります。 母も年をとりました。帰省から帰る際、祖母は相変わらず涙を流すよう。いくら年を重ねても、親子の思いと絆は健在なのだと思わされます。 今出来ることを両親にしてあげようと、考えさせられました。

トピ内ID:2559834252

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いつも思い出すのは・・・

😀
シエル
とにかく優しかったばあちゃん、優しかった記憶しかなくて、叱られたことなんてあったのかな?って思うほど・・・。 両親共働きだったから、ばあちゃんが「おかえり」って言ってくれるのがとても嬉しかった。 ある日友人とその弟と川で遊んでいたら、その弟の靴が川に流されてしまった。 家に帰ると友人のお母さんが玄関で怒鳴っていた。近所でも有名な怖いお母さんだった。 「きっと靴が流されたことを私のせいにしたんだ!」と思って家に帰れなくなり、 空き地の材木置場の影に隠れていたら、探しに来たばあちゃんが私を見つけて 「あら、シエルちゃん、ここにいたの!ばあちゃん遅いから心配したよ。」ってものすごく優しい笑顔で言ってくれた。 あの時の優しい顔が忘れられない。 小さい頃、長く入院生活を送っていた影響で、数年間、深夜に目が覚めて怖くて眠れなくなった。 そんな時はすぐにばあちゃんの布団にもぐりこんだ。そこが一番安心できる場所だったから

トピ内ID:4831212042

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私の祖父母ではありませんが・・。

041
気分は新婚。
80近いおじいちゃんと少し年下のおばあちゃんのご夫婦。 おじいちゃんが体調を崩して入院、あれよあれよという間に危篤になりました。 ずっと付き添っていたおばあちゃん。 いよいよという時になってもう意識もないおじいちゃんの手を握ってぽつり。 「ずっと一緒にいようねって言ったのに。まだまだずっと一緒にいようねって言ったのにね。」 そういって優しく優しくおじいちゃんの手をなでるのです。 沢山の方をお見送りしてきましたが、このときは私も泣いてしまいました。 一緒にいた主治医も思いっきり泣いてました。 長い結婚生活色々あったでしょうに大好きだったんでしょうね、おじいちゃんのこと。 50年以上連れ添ってまだもっともっと一緒にいたかったって、うらやましいくらい。 私は当時独身でしたがこんな夫婦になりたいものだと思いました。

トピ内ID:4231047647

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一緒に住んでいました

🐶
オース
こんにちは。お孫さんの最後の文章を読んで“うんうん”と肯いてしまいました。両親が働いていたので、母方の祖父母と過ごす時間が長かった子ども時代です。祖父母が大好きでした。 学校から帰るとリクエストに応えてチャルメラ半分とかおにぎりとかを作ってくれた祖母。真夏にひどい熱を出した時は(うつるかもしれないのに)添い寝してくれて、「よい風がきますように。楽になりますように」と言ってくれた祖母。古いレースや白い布地を上手く工夫してお人形さんのウエディングドレスを作ってくれた時は、息が上手にできないぐらい嬉しかった。 祖母は30年以上前に亡くなりましたが、祖父には結婚式にもでてもらえました。第一子を妊娠中に祖父の病気が判明。何とか子どもを見て欲しいと願いましたが、間に合いませんでした。とても気持ちの優しい祖父で、亡くなる10日ぐらい前に同居の母に「○○の子どもの乳母車のお金を箪笥に用意してある。○○に渡してくれ」と言ってくれたそうです。かなり体がしんどくなっていたであろう時期に、銀行に行ってお金を引き出してくれたようです。 今でのその残りのお金は宝物として持っています。

トピ内ID:5914200821

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あれは忘れもしない...

041
じじ子
私の両親が離婚する前に暫くの間、母の実家で暮らしていました。 父は父の実家にいて、数ヶ月は会わなかった記憶があります。 丁度私が3歳の時です。 母の実家は雪国でしんしんと大雪が降る寒い冬の日。 祖父と父が2人で母の実家を訪ねて来ました。 私を引き取りたいとの話し合いに来たのです。 話し合いがどうなったか幼児の私には分かりませんが 祖父と父が私に笑顔で手を振り雪道を歩いて行きました。 私は泣きながら「行っちゃイヤだ」と叫びながら 全速力で走り、転び、雪まみれになりました。 母に連れ戻されるまで追いかけました....。 数ヶ月後に離婚成立で父方に引き取られ 祖父宅で温かい生活が始まりました。 (母は問題だらけの人でした) 祖父と父には感謝しています。

トピ内ID:6286356622

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いいトピですね…

🐶
ゆう
トピ主さんや皆さんのお話、うるうるしながら読みました。私は父方の祖父母と同居でした。両親共働きだったので、いっぱい面倒みてもらったのに、口うるさい祖父母だったので、私も憎まれ口ばかりきいていました。 祖父母が亡くなり20年程経ち私も親になった今になり、昭和50~60年代の懐かしい風景や祖父母と過ごした日々を思い出すんです。楽しかったなぁ~祖父母や両親に愛され守られていたなぁ~と。 もっと祖父母に優しくしてあげればよかったと今になって悔いてます。

トピ内ID:9444274783

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祖母が育ての親です。

041
Ruri
私は両親共働きで、母が帰ってくるまで祖母が家事や身の回りの色々な事を教えてくれる育ての親でした。今も健在です。 いつも一緒に夕飯の買い物に行って、お茶したり、旅行に行ったり。何をするにも長く一緒にいたのは内孫の中でも私だと思います。私の結婚式には、甥(祖母にとっては曾孫ですが)の手術が控えていたため、欠席になりましたが、代わりに事前に衣装を着て写真撮影をする事にし、花嫁衣装を見てもらいました。 今でも私の声が聞きたいと時々電話がかかってきます。 母方の祖父母もいましたが、家庭環境がとても複雑で、離れていた事もあり、母も会う事にいい顔をしなかったので、あまり会えませんでした。でも会える時は二人ともすごく優しかったです。亡くなった時はとても悲しかったです。もっと会っておけば良かった、と思いました。

トピ内ID:7013225113

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一生かかっても返しきれない恩

にこぼう
母の実家がすぐとなりにあるので、祖父母とは大学に入るまで一緒に暮らしていたようなものです。3歳の時に自宅が完成したのですが、おばあちゃん子の自分は中学3年まで母の実家で祖父母の間で寝ていました。ベッドは2つしかないので1人は隙間に敷いた布団になります。最初は小さい体にもかかわらず当たり前のようベッドを使っていましたが、次第に自分が悠々とベッドで寝ていることに違和感を覚えてきました。そこで何度も自分が下で寝ると言ったのですが、祖母は決して交換してくれませんでした。ちょっともう涙で前が見えない…。 今では月一で米を送ってもらってます。米だけでいいって言っても、俺の好きな果物とかも必ずはいってるんだよな…。 両親だけじゃなく祖父母にも恩返しをしなければならない。そんなことを考えてるので大学に入っても遊ぶ気にはなれなかったよ。 母親から「もっと大学生らしく遊びなさい」と言われたのはショックだったな…。

トピ内ID:3313202402

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「神様もうしません」

🐤
ニセアカシア
ずっと昔のネット投稿文でいまでも忘れられないお話なので、それでもいいでしょうか? 今は天国にいったおじいちゃんが元気だった頃、仕事で楽しみにしていたドラマが見られないので、家にいたおじいちゃんに録画を丁寧に説明してお願いしたそうです。 そのドラマの題名は「神様、もう少しだけ」。 家に帰ってお願いしたドラマはちゃんと録画されていたそうです。 そして傍らには、おじいちゃんのメモがありました。 (テレビ録画、「神様もうしません」)。 おかしくって、そしてもう今はいない私の知らないおじいちゃん。ほろっときました。

トピ内ID:8742792895

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私のおじいちゃん

041
おじいちゃん会いたい
雪国の、祖父母のいる家で育ちました。料理が得意だった祖父は、ひな祭りになると近所の女の子をたくさんあつめて太巻きをにぎってくれました。甘辛く煮た胡桃入りの太巻きです。祖母は堀炬燵で保温していた甘酒ジャーを取り出し、手作り甘酒を振舞ってくれました。みんな大喜びでした。 そんな祖父が認知症になったと聞いたときは、大学を休学し故郷に帰って介護しました。認知症になっても好きな料理をずっと続けたいと言った祖父は、新鮮な良い食材を仕入れたいというので、毎日のように祖父を車に乗せて二人でスーパーをはしごしました。楽しかったなあ。 会えなくなる日がそう遠くないことを、二人とも心のどこかでわかっていたから、なんでもないおじいちゃんとの毎日は、輝くような、きらめくような、一瞬一瞬でした。生きるって素晴らしいなあと毎日思いました。 あの日々が今でも忘れられません。「本当に好きな人の介護は、することが幸せなのだ」と他のトピックでどなたかが書いておられましたが・・・私も、心からそう言いたいです。あの日々が、今でも自分を支えていると思います。 来週は祖父の3回忌です。素敵なトピをありがとうございました。

トピ内ID:6345500837

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2度目です。

😀
シエル
自分やみなさんのレスを読んでいたら、ばあちゃんのことが次々と思い出されてきてものすごく切なくなりました。 確か、4歳ぐらいの頃だと思います。 朝、ベッドで機嫌悪く目覚めた私が、起きるのをごねて脚をバタバタしていたら ばあちゃんの目につま先が当たってしまったんです。 すぐに「しまった。」と思い、謝りたかったのですが、謝れなかった。 ひどいことをしたと本当に心が痛くて、謝れなかったんだと思います。 今思い出しても胸がキリキリ痛みます。私は途方に暮れてただ困った悲しい顔をしていただけでした。 ばあちゃんは怒りもせず、何もなかったように振舞い、いつものように優しかった。 幼稚園から帰ってきた私は、ばあちゃんの瞳の中に真っ赤な内出血の跡を見付けました。 ばあちゃんはやっぱりいつもみたいに優しい笑顔で「シエルちゃん、お帰り。」と・・・ 私はもうただ悲しくて悲しくて「ごめんね。ごめんね。」って心は叫んでいるのに、どうしても声にならなくて ばあちゃんに抱き付いて泣いてしまいました。 「どうしたの?シエルちゃん。大丈夫だよ。」といつまでも頭を撫でてくれました。

トピ内ID:4831212042

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いつまでも大好きです。

😢
ちびび
 昨年亡くなった祖母はとても強い人で、祖父の介護を一人でした後は住んでいた自宅を売って、自分で施設に入りました。  その頑固さ故、祖母は他の親族のことを嫌っていたのですが、私には優しい人でした。遠方に住んでいる私が面会に行くときには朝から施設の玄関で待っていてくれたりもしました。  ある時、 「正月には他の家族が面会に来てにぎやかだが、私は一人で正月を迎えるので少し寂しい」 と言うので、次のお正月には泊まりに行くと約束。すると祖母は嬉しそうにカレンダーに印をつけていました。  ところがその年の暮れに、祖母は入院。結局楽しみにしていたお正月は病院で過ごすことになり、その約束が叶わないまま祖母は亡くなってしまいました。 もしまた会えたら、今度はきっと2人でお正月を過ごします。 (これ書いていて号泣…)

トピ内ID:3759256558

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少し横かもしれませんが…

041
おばあちゃんこ
『トイレの神様』と言う歌、是非聞いてみてください。ホロリとすると同時に心が温まりますよ。

トピ内ID:3385383932

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ちょっといない子

041
おじいちゃん会いたい
二度目です。 授業参観に来てくれたのも祖父、学校で熱を出せば自転車こいで迎えにきてくれたのも祖父、長く通った耳鼻のつきそいもいつも祖父でした。庭で集めた落ち葉を焼き、一緒に串刺し魚の塩焼きや焼き芋もしたっけ。 私は自分に自信のないオドオドした子供だったと思うのですが、祖父は人がくるたび、「こんな子、ちょっといないだろう?」と自慢していました。自分が、まるで選ばれて生まれてきたような、子供ながらに何か特別な気持ちでした。人と違うことが、いつのまにか不安でなくなりました。 人生の岐路の前に立つたび、いつも「お前が考えて出した答えなんだから、正しいに決まってるじゃないか」と言ってくれた祖父のことを思います。 でもね、おじいちゃん、その選択を、正しいと思えるように自分に引き受けて生きる力は、あなたが与えてくれたんだよ。 おじいちゃん、おじいちゃんこそ、「ちょっといないおじいちゃん」だったよ!

トピ内ID:6345500837

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夫婦愛

041
ba-ba
祖母は黒髪でした。 それは祖父が定期的に染めてあげていたから。 昔ながらの染め粉を水で溶いてお風呂場で染めていました。 祖母の髪が真っ白になりました。 それは祖父が亡くなってしまったからです。 「じーちゃんが居ないから髪が真っ白になっちゃたよ」 切なくて悲しくなっちゃいました。 今、こんな夫婦いないんだろうなー。 そんな祖母も90歳で他界しました。 二人に会いたいなぁ

トピ内ID:3822530306

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私も二度目です

🐶
オース
こんにちは。皆さんの投稿を拝見していて忘れかけていた様々な事を思い出しています。トピ主さんを差し置いて失礼とは思いつつ、あまり懐かしいので。 ba-ba様 家も同じです!水で溶いた染め粉で祖父が祖母の髪の毛を染めてあげていました。二人とも明治39年の生まれですが、ともかく仲良しの 祖父母だったと思います。学校から帰ると歯ブラシより少し大きめのブラシで、髪を少しずつとっては染めていて、黒く染まったブラシとか櫛などがセットで箱に入ってました。家はお風呂場ではなくて、部屋に新聞紙を敷き詰めていました。 祖父の丹精していた山吹やツツジを見るたびに、 祖母の好きだった梅の花を見るたびに二人を思い出します。いつか会えた時に沢山誉めてもらえるように、今を精一杯がんばってゆきたいと思っています。

トピ内ID:5923742798

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二人暮らしの祖父母

🐶
ななか
祖父母は近所に二人暮らしでした。おばあちゃんは駅前にある商店街にバスで私たち孫をよく連れていき、レストランでご馳走してくれて、必ずパンツを買ってくれました(笑) リウマチのある曲がった指で私の手を繋いで歩いてくれたこと忘れません。 中学生の時、覚えたての親子丼を2人の夕飯に作りました。煮すぎて卵がカピカピの親子丼でしたが、喜んでもらえました。 わたしがいま看護師として働いていられるのも、祖父母と接し、介護のようなことをさせてもらえたからだと感謝しています。

トピ内ID:5922449147

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鏡を見るとそこに

💍
白雪姫の義母
祖母にそっくりな自分の顔が映ります。 たくさんかわいがってもらいました。 畑で豆やじゃがいもが出来ると、私の手を引いて背中に野菜を背負い各駅停車の列車に乗り、 東京の叔母の所まで何度も連れていってもらいました。 兄や弟は、迷子になりイタイ思いをしたので、おとなしかった私を連れて行く方が楽だったのだと思います。 幼稚園の遠足の保護者も忙しかった母の代わりに祖母と一緒にいきました。 モノクロのスナップ写真にお弁当を広げた私と祖母がはにかんで写っていました。 癌で病院に入院した時、うわごとで娘たちの名前は呼ばないのに、孫の私の名前ばかり呼ぶと、母達は首を傾げていました。 でも、病室にお見舞いに行けたのは1度きりでした。 怖かったのです。 白い壁と薬でうつらうつらした祖母の白目がちの顔が。 母にお見舞いを誘われても「イヤ!」って首を横にしてしまいました。 一年生になったばかりの頃でした。 お弔いの終わった後、私の名前を呼ぶ祖母の声は空耳ではなかったと思います。

トピ内ID:5808365621

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ちびまるこのともぞうさん

🙂
ゆづきん
ともぞうさんみたいなおじいちゃんでした。(笑) 小学校の遠足で遊園地に行った時は、木の陰からカメラ抱えて現れたり、修学旅行に付いて行くとだだこねたり(笑)6年生まで一緒に寝てました。最後は認知症が激しく何も分からなくなりましたが、私の名前を呼び続けながら旅立ちました。戦争にも日中、太平洋戦争と二度出兵し、職業軍人で終戦後職にもつけず苦労したそうです。厳しい反面、戦後何十年も戦死者を弔ったり、遺族を訪問したり、優しい人でもありました。葬式は90歳の人の葬式とは思えないほど号泣する人がたくさんでした。おじいちゃんありがとう!ずっと私を見ててね!

トピ内ID:9773902178

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暗い話ですが吐き出したい

041
うみなり
我が家から新幹線で4時間の遠方に住む母方の祖父が 5年前に老衰で他界しました。 残された祖母がおかしくなったのは、ほどなくしてから。 本家の嫁(私にとっては義理の叔母)の執拗なイビリが原因です。 もともと折り合いが悪く、祖父が生きていた頃はまだ良かったものの、 祖母一人になってからは他の家族も手をつけられないほどの悪行三昧だったそうです。 我が家で同居という話も出ましたが、当の祖母が 「おじいちゃんのそばを離れたくない、都会では暮らせない」と拒み 実現しませんでした。 そしておととし、祖母は川で遺体となって発見されました。 ほとりに履物が揃えて置いてあったそうです。 祖母を絶望の淵に追いやった叔母の仕打ちには証拠もないし、 遠方とはいえ手をこまねいていた私たちも同罪なのかもしれません。 母の意向で、葬儀に出席しなかった私の夫には事故死だと伝えました。 ほろりとする話でなくてすみません。 でも、どこかで吐き出したかったのです。 祖母がどんな気持ちで川に入ったのか考えると、今もやりきれません。

トピ内ID:5710293332

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おばあちゃんのお小遣い

🙂
おばあちゃん大好き孫
私のおばあちゃんは今年で86歳になりました。祖父は17年前に亡くなりました。 おばあちゃんは、孫の私にお小遣いをあげることが大好きです。 子供の頃からずっと、結婚した今でも、一年に一度帰省する私にお小遣いをくれます。 「もうお小遣いはいらないよ。私はもう結婚しているのだし」と断っても、「お金はいくらあっても困るものじゃない」と 私に一万円を握らせます。 そんなおばあちゃん、一昨年に倒れてから物忘れがでるようになり、どんどん忘れていきます。 お小遣いをあげたことも忘れ、「お小遣いはあげたかな?」と何度も聞くおばあちゃん。 この間、一年ぶりに帰省をしました。 「お小遣いはあげたかな?」とおばあちゃん。私は貰っていなかったけれど、「もう貰ったよ」と。 「いいや、あげていないよ」とおばあちゃん。 どこにしまったか、忘れてしまったお財布を一生懸命に探すおばあちゃん。 物忘れは進んでいるけれど、お小遣いをあげたいという気持ちは忘れていない。 私は涙が止まりませんでした。お財布を探すおばあちゃん、そんなおばあちゃんを見て涙がとまらない私。

トピ内ID:0058012757

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おじいちゃんの机の中の写真

🙂
おじいちゃん大好き孫
私の母方のおじいちゃんは17年前にガンで亡くなりました。 とても優しくて、怒ったところを見たことがありませんでした。 絵が大好きで、穏やかで、無口なおじいちゃん。 私が中学生の頃に父が家を出ていきました。他に好きな女性ができたのです。 おじいちゃんは「夫婦のことは夫婦で解決しなさい」と口出しをしませんでした。 でもおじいちゃんは夜眠れなくなり、お酒を飲まないと寝付けなくなりました。 それからガンになり、アッという間に亡くなりました。 おじいちゃんの遺品の整理をしていたところ、おじいちゃんの机の引き出しの中から 私と母と妹の3人が笑顔で写っている写真が一枚出てきました。 おじいちゃん・・・何も言わなかったけれど、胸を痛めていたんだね。 ごめんね、私の父のせいでおじいちゃんの寿命を縮めてしまったね。

トピ内ID:6079767382

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私のおばあちゃん

041
よちこ
とってもタイムリーなトピで思わずレスしちゃいます! 私の祖母は今95歳。ここ3年ほど寝たきりでもういつ天に召されてもおかしくない状態です。 90歳頃から認知症が始まり、私のことを叔父の奥さんと間違えたり、 高校生扱いされたり、もう私のことを忘れちゃっていました。 病院で寝たきりになり、点滴で生かされている状態、 自分の娘である私の母親でさえもうわからなくなってしまいました。 会いに行っても口は動かせてもしゃべれません。起き上がることもご飯を食べることもできません。 私は地元を離れているので、たまの帰省で顔を見せに行っていたのですが、ある日のこと。 1年ぶりに病院に顔を出して、いろいろ話しかけながら手を握って、 「おばあちゃん、孫のよちこだよ、ひさしぶり。わかんないか~」 なんて母親と明るく話しかけていたそのとき、 祖母が細くなった手でぎゅっと握り返して、 「わかんないの、ごめんね。」 知らない人に囲まれて本当は困惑しているだろうに、声を振り絞ってそういってくれた 祖母のやさしさに涙しました。 この言葉、ずっと耳から離れません。

トピ内ID:2125012433

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おばあちゃんと白い包帯

🐱
しろねこ
わたしのおばあちゃんは看護師さんでした。 定年退職後も医療ボランティアをしていたしっかり者だったのですが、 おじいちゃんの大きな法要が終わり、気が抜けたのかすこしぼーっとなってしまいました。 さらにちょっとした段差で転んでしまい、 骨を折り寝たきりになり、あっと言う間に認知症が進んでしまいました。 ずっと一緒に暮らしていたのにわたしのこともわからなくなってしまいました。 わたしが犬の散歩中、犬にひっぱられて土手から落ちてしまい、 手首を派手にすりむいて捻挫して泣きながら帰ったら おばあちゃんが手当をしてくれました。 やっぱりわたしのことは誰だかわからないようでしたが、 「はいっ、お大事に」ってニコってしてくれました。 間接の難しいところなのに、認知症なのに、 真っ白な包帯がきれいにきっちり巻いてあって、 それを見ていたら、誇らしいような、でも切ないような気がして、 なんだか泣けてきた思い出があります。 もう15年も前に亡くなりました。 今でも包帯を見るとおばあちゃんを思い出します。

トピ内ID:8498039658

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父方の祖母

041
00
かなり、ドライな祖母で、愛情表現に乏しい人でした。 父も同じようなタイプです。 あまり祖母と話した記憶もなく、私が中学生の時に亡くなりました。 海外転勤が多かった父でしたので、会える回数も少なかったと思います。 が、長い海外赴任から帰ってきて、祖母と二人でお買い物に行きました。 すでに小学校高学年だった私、体格というか横が結構ありました。 父方は、全員太れないタイプで皆がりがりです。 そのがりがりの祖母が私をおんぶしたい、というのです。 「重いし、無理だよ。いいよ。」と数回言ったのですが、 ねばる祖母。そういうスキンシップを祖母としたことが、なかったので、 びっくりもしました。 で、根負けして、背負ってもらい(たぶん祖母は70代)2,3歩あるいて、おろしてもらいました。 たぶん、最初で最後の祖母とのスキンシップでした。本当は前々からしたかったのかもしれません。ただ、私の母とちょっとした確執が、私が生まれる前からあり、母の前ではできなかったのかな。

トピ内ID:4634417372

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おばあちゃん、ありがとう。

041
りんご飴
おばあちゃん、20歳の頃、遊びに来てた友達2人へ、あの子を宜しくお願いします、 って頭を下げたんだってね。 あんたが一番心配だって、気になるって、いつも言ってた。 頭が悪くて、不細工で、子どもの頃は虚弱で、 よく馬鹿にされていた孫でも可愛かったんだね。 朝から晩まで骨身惜しまず働いたおばあちゃん。 なのに、こんな怠け者の孫でごめんなさい。 あんたは心が大木になるよ、今は新芽だけど大きくなるよ、と慰めてくれた。 ひょろひょろで、図体ばかりデカくてすいません。 最後のお別れの日に、もう頑張らなくていいよ、と額に手を当てたらスウッと呼吸を潜めていったね。 時々思い出しては苦しくなる。私は祖母不孝だったのではないか、と。 おばあちゃんはいつも一生懸命だったのに、応えてあげられなかった。 あちらの世界でヤレヤレ、困った孫だこと、と思っているかもしれないね。 とりあえず今日も元気だから、あんまり心配せんでね。 トピ主さん、優しいトピックをありがとう。

トピ内ID:1326170315

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トピ主です。優しいレスを有難うございます。

🙂
私が書いた思い出は優しいというより、ちょっと辛い話になってしまったので、皆さんの思い出でこのトピを温めていただけたら幸いです。 (もちろん、どんな種類のホロリも歓迎です。吐き出したいことがある方も。) 30キロのたくあんを持たせてくれた祖父は、いつも我々孫を呼んで 膝に座らせるのが好きでした。 隣でよくほら貝を吹いて聞かせてくれたっけなぁ。 お酒が大好きなおじいちゃん。もう十年以上前に他界しましたが、私が大人になっておじいちゃんに、お酌したかったな。

トピ内ID:0834457017

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