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巌流島について、教えて下さい。

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(トピ主 0
041
ヤッサン
話題
宮本武蔵と佐々木小次郎巌流の決闘前の小島には名称が付いて居ず、決闘後に巌流島と呼称される様になったと、聞いています。何故、勝者の名前を付けず、敗者の名前を小島に付けたのでしょうか? 判官贔屓なのでしょうか?誰に聞いても分かりませんので、賢明な小町の皆さん、その理由を教えて下さい。

トピ内ID:0876986878

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小次郎が死んだからかなぁ・・・

😍
さおり
敗者である、佐々木小次郎がその決闘が原因で、島で息絶えてしまったからではないでしょうか? 決闘で死んだ(即死)とか、決闘で負けた後に襲われたとか諸説はありますが・・・。

トピ内ID:3792069958

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推測

041
テキトー男
1. 決闘の時点では、宮本武蔵は特定の流派名を名乗っていなかったため。自流を「円明流」「二天一流」と名づけたのはいつごろかわかりませんが。 2. 舟島(巌流島)が小倉藩領であったため。敗れたとはいえ、小次郎は小倉藩士でしたので、敵方(武蔵)の流派の名称を付けるわけにはいかなかった。 巌流島が小倉藩領であったのは確かなので、「2」があんがい当たっているかもしれません。

トピ内ID:5994212705

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小次郎の墓があるから

041
SUSAS
wikiの宮本武蔵の項目に、それらしい記述がありました。 引用します。 岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、 この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。 縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。 あるいは、 岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が岩龍を止めた。 「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、 一人ではとても敵いません、お帰りください。」 しかし岩龍はこう言って強引に舟島に渡った。 「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、 もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」 浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。 しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、 今のように岩龍島と呼ぶようになった。 卑劣な武蔵に討たれた小次郎の御霊を弔ってということでしょうか。 いずれにしても、小次郎に対する弔意からということみたいです。

トピ内ID:2497918601

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ホーム&アウェイ

good day
厳流島(船島)は佐々木小次郎のホームだからでしょう。 弟子や縁者も多くいたでしょうし、その島で亡くなったのですから、当時あるいは後の人々が偲んで名づけたのかも。

トピ内ID:1448323499

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