その日、私は常磐線の電車で都内に向かっていました。昼近くなっていましたので、車内は空いています。途中の駅から乗り込んだ中年女性が二十歳前後と見受けられる若者二人を両脇にして、向い合せの席に座りました。
通常、私は電車内で人の顔をあまりまじまじと見ることはありません。失礼と思うからです。ただ、明らかに親子連れと思われるこの三人連れには何となく魅かれるところがあって、自然に目が向いていました。
この息子たちは、母親に似ています。なるほど女性の顔を、男性の顔に写し変えるとこうなるのかと、妙に感心しました。ただ、彼らにはこの年頃の若者にありがちな格好よさを気取る様子がまったくない。母親の方は、特別おしゃれはしていないが、それなりに上品なたたずまいです。親子は間断なく言葉を交わし、会話を続けています。
年寄りの私から見て、このなごやかで、明らかに仲の良い家族の様子は見ていて気持ちの良いものでした。
ふと、気付くと息子のひとりが私に何か合図をしています。電車の走行音に邪魔されて、声をかけても聞こえないだろうというのでしょうか、手真似で私の座席の下を見ろと言っているようです。見ると、電車の切符が落ちています。拾ってみると私のでした。何かの拍子に落ちたのを前の親子が見ていたのでしょう。
よかった、知らずにいたら到着駅でさぞかしまごついたことだったでしょう。
私は謝意を込めて会釈をしました。親子三人はニコニコしながら、こちらの会釈に応えました。
これだけのことです。あれからかなりの日にちが過ぎました。今でもあの時の三人の笑顔を時折思い出します。あの時自分は座席から立ち上がってお辞儀をするくらいのことをしてもよかったのではないかと言う気持ちがあります。あのくらい好感を持てる相手に出くわすことはそれほど多くはないのですから。
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